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空白の鏡

 

 放送終了後のスタジオは、まるで爆撃を受けたあとのような、耳に痛いほどの静寂が漂っていた。


 スタジオの重い沈黙の中で、トーマス・ベックは自分の輪郭が崩れ落ちていく音を聞いていた。


 数万ワットの照明が落とされ、予備灯の寒々しい残光がスタジオの床を這う。つい数十分前まで、彼はそこに「正義の騎士」として立っていたはずだった。だが今、特注のブリオーニのスーツは冷や汗で肌にじっとりと張り付き、まるで死後硬直を待つ遺骸を包む布のように重い。


 震える指先で、彼は膝の上に置かれたスマートフォンを手に取った。画面の光が、土気色に変色した彼の顔を無慈悲に照らし出す。


(……馬鹿な。こんなはずはない)


 彼は、喉の奥にこみ上げてくる酸っぱいものを飲み下した。


 ヒトラーが去り際に残した、あの慈しむような、それでいて深い淵のような視線が脳裏に焼き付いて離れない。あの男は一度も怒鳴らなかった。ただ、鏡を突きつけただけだった。トーマスが抱いていた政治的野心、ザビーネへの下品な征服欲、そして大衆を見下す傲慢さ。そのすべてを、見抜かれていたのだろう。


 「……ザビーネ……」


 かすれた声で、彼は数メートル先の司会席を仰ぎ見た。


 かつて自分の「戦利品」になるはずだったブロンドの美女。だが、そこにいたのは彼が知る従順なキャスターではなかった。


 ザビーネ・フィッシャーの美しいブルーの冷徹な瞳は、壊れゆくトーマスを憐れむことさえせず、ただ「不要なゴミ」を掃き出した後のような、清々しい知的な陶酔に満ちている。彼女のプラチナブロンドの輝きが、今のトーマスには、自分を地獄へ送り届ける冷たい死神の鎌に見えた。



 政界進出の夢、国民からの喝采、贅沢なザビーネとの夜。その全てが、あのアドルフ・ヒトラーという漆黒の特異点に吸い込まれ、消滅した。


 トーマスは、自分が座っている豪華なゲストチェアが、実は処刑台の椅子であったことに、今さらながら気づいた。彼は立ち上がろうとしたが、膝に力が入らない。ただ、暗くなったスタジオの隅で、自分の人生が完全に「死」を迎えた音を、永遠に聞き続けていた。





 ザビーネはヒトラーが耳元で囁いた「君は今、本当のジャーナリストになった」との言葉を受けしばらく沈黙していたが、直ぐに我に戻りスタジオを後にしようとする彼を追いかけた。


 「……ヒトラー氏。あなたは、最初から彼をあそこまで追い詰めるつもりだったの? 彼が心に秘めていた醜い野心も、私に向けられた下劣な視線も……すべて見抜いていたというの?」


 ヒトラーは、古びた軍服の袖を整え、ゆっくりと視線を上げました。その眼差しは、目の前のザビーネを見ているようでいて、同時に数十年、数百年の時間を透過しているかのように深遠でした。


 彼は低く、湿り気を帯びた声で、独白するように語り始めました。


 「フィッシャー嬢。君は、私があの男のために特別な策略を練ったとでも思っているのかね? 否だ。私はただ、彼が自分自身で首を絞めるための紐を、目の前に置いてやったに過ぎない」


 彼は一瞬、口角を微かに上げ、軽蔑を煮詰めたような笑みを浮かべました。


 「私がかつて……あの地下壕に消える前の時代にも、私に取り入ろうとし、私の力を利用して己の虚栄心を満たそうとした俗物どもは、腐るほどいた。彼らは皆、自分を『特別な存在』だと信じ込み、大衆を導く正義を自称しながら、その実、腹の中にあるのは贅沢な食事と、隣に座る美しい女性、そして権力という名の安っぽい飾りのことばかりだ」


 ヒトラーは一歩、ザビーネに近づきました。オイルの匂いと、微かな石鹸の匂い――禁欲的な男の香りが、彼女の感覚を刺した。


 「だが……認めざるを得ないな。1930年代の俗物どもは、少なくとも彼よりはいくらかましだった。彼らにはまだ、自分の信じる嘘に命を懸けるだけの『狂気』と『矜持』があった。だが、あのベックという男はどうだ?」


 彼は、震える手でスマホを見つめるトーマスを、道端のゴミでも見るかのように指差しました。


 「彼は自分の『正義』すらも、CMの出演料と同じように切り売りしているに過ぎない。守るべき魂も、戦うべき意志も持たず、ただ世間という名の大きな鏡に、自分が美しく映ることだけを願っている。……現代の貴族とは、これほどまでに去勢され、薄っぺらな存在になってしまったのか」


 ヒトラーは再び前を見据え、冷徹な一言を付け加えました。


 「彼を論破したのではない。私はただ、鏡が反射する光を遮断しただけだ。光を失えば、鏡に映るものは何もない。……あそこにあるのは、ただの『空白』だよ」







 

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