聖者の仮面と、品性なき欲望
テレビ局のプライベート・ラウンジ。重厚な革の匂いと、一杯50ユーロは下らないシングルモルトの香りが漂うこの空間は、トーマス・ベックにとって「聖域」だった。
彼はソファに深く沈み込み、窓の外に広がるベルリンの夜景を見下ろしていた。ガラスに映る自分の顔――数々の賞を総なめにし、今や「ドイツの良心」と称えられる男の顔――に、彼は静かな満足感を覚えていた。
そこへ、軽やかな、しかし意志の強い足音が近づいてくる。プラチナブロンドの髪を完璧に整えた、あのザビーネ・フィッシャーだ。
「おや、ザビーネ。この間の誘いを受け入れに来てくれたのかな?」
トーマスは立ち上がり、最高の俳優らしい優雅な所作で彼女を迎え入れた。内心では、彼女の冷ややかな美しさをどう屈服させるか、そのシミュレーションを既に終えていた。リベラルな知性派キャスター。彼女を隣に侍らせてディナーを共にすることは、今の彼にとって最高の「アクセサリー」になるはずだった。
だが、彼女の口から出たのは、予想外の「獲物」の名前だった。
「仕事の話よ、トーマス。……あの男をスタジオに呼ぶことに決めたわ。あなたと一対一の、生放送での直接討論。受けてくれるかしら?」
トーマスの心臓が、歓喜で一跳ねした。
(……これだ。これこそが、神が私に与えた最高のステージだ!)
彼は一瞬、表情を硬くして「思案」を演じてみせた。だが、脳内では既に、カメラの前でナチの亡霊を完膚なきまでに叩きのめし、全ドイツ国民から喝采を浴びる自分の姿がカラーで再生されていた。あの男は所詮、ネットの陰に隠れた卑怯者だ。このトーマス・ベックの「正義の弁舌」に耐えられるはずがない。
「……ほう。あの怪物を白日の下に引きずり出すか。いいだろう、快諾するよ。私がこの手で、あの亡霊を二度と這い上がれない奈落へ突き落としてやろう」
トーマスは一歩、ザビーネに歩み寄った。彼女のプラチナブロンドから漂う、冷たく清潔な香りが鼻腔をくすぐる。彼は声を落とし、彼女の耳元で、確信に満ちた欲望を囁いた。
「だが、条件がある。ザビーネ……。私が完璧な勝利を収めた暁には、君も『正義の騎士』を祝福してくれるんだろう? 放送のあと、二人きりで……最高の夜を。君のような洗練された女性には、勝利の美酒がよく似合うはずだ」
彼は彼女の腰に手を回そうとした。掌に伝わるはずの、柔らかく、しかし自分に依存する女性の感触を期待して。
だが、ザビーネは滑るような動作でそれをかわし、氷のような、しかしどこか艶めかしい微笑を浮かべた。
「……ええ。もしあなたが、国民を納得させるほどの『完全な勝利』を収めたなら。……楽しみにしてるわ、トーマス。あなたの勇姿を」
彼女が去った後、トーマスは一人、満足げにグラスのウイスキーを飲み干した。
怪物退治と、美しい女の征服。
最高じゃないか。2025年は、私のためにある年だ
トーマスは、飲み干したグラスの縁を指でなぞりながら、窓ガラスに映る自分の姿を凝視した。そこに映っているのは、もはや一人の俳優ではない。何万人もの聴衆を前に、理知的な演説で国を導く姿...
(……俳優という枠は、もう狭すぎる)
彼は、自身の個人事務所で「ベック財団」の設立準備を進め、政界の重鎮たちと裏で接触を繰り返していたのである。
「今のドイツには、言葉の力で国民を統合できる『象徴』が必要だ。道徳的に汚れのない、高潔なリーダーがね」
彼にとって、ネットで騒がれている「あの男」は、天から降ってきた最高の踏み台でした。
歴史的な独裁者の再来を自称する狂人を、カメラの前で、リベラリズムの正論によって完膚なきまでに叩き潰す。その映像は、彼の政治キャンペーンにおける「伝説の序章」として、永遠に語り継がれるはずでした。
「ナチスの亡霊を葬った男、トーマス・ベック……。これ以上の選挙スローガンがあるか?」
彼は、ザビーネに提示した「勝利後のディナー」という下卑た条件すらも、自分の「男としての格」を確認するための儀式のように感じていました。
美しく知的な女性キャスターを征服し、国家の敵を排除し、そして国民の熱狂を背に政界へ打って出る。
(ザビーネ、君もその時になれば気づくはずだ。私の隣にいることが、どれほどの栄誉であるかを。……君は私にふさわしい)
トーマスは、自分の内側にある「名誉欲」という名の怪物が、かつての独裁者が抱いていた野心とどれほど似通っているか、全く気づいていませんでした。彼は自分が「正義」であると信じ込むことで、自らの傲慢さを完全に正当化していた。
数年前の事である...
ベルリンの華やかな社交界。その頂点に立つトーマス・ベックを政界へと導こうとしているのは、国民的人気を誇るリベラル政党の重鎮、ヴァン・デル・ヘルゲン議員。
「トーマス、君のような『本物の知性』を必要としている場所がある。世界を動かす真のエリートたちが、人目を忍んで集う聖域だ」
ヘルゲンに紹介された先が、大富豪ジェフ・ゴールドスタインが所有するプライベートアイランド、通称「エデン島」。
トーマスにとって、エデン島は理想郷に見えたのだ。そこにはドイツ国内の政治家だけでなく、シリコンバレーのCEO、ハリウッドスター、そして各国の王室関係者が集い、シャンパングラスを片手により良い世界、リベラルな未来について語り合っていたのだが...
トーマスはこの島で、将来の当選を確実にするための強力な資金源とコネクションを手に入れました。
しかし楽園の裏側にはおぞましい儀式の存在があった...
偽りのユートピア、おぞましい儀式『エデンの夜』
夜、メインホールではシャンパンと食事が振る舞われ、トーマスのような「正義の騎士」たちが、世界平和や人権保護について熱心に議論を交わします。
しかし、深夜2時を過ぎると、招待客たちはそれぞれの「嗜好」に合わせた地下の個室へと案内される...
おぞましい児童虐待。トーマス自身が直接手を下さずとも、隣の部屋から聞こえる悲鳴を無視してゴールドスタインと次期選挙の資金提供について握手を交わしたその瞬間、彼は魂を売りました。彼は「大いなる目的のためには、多少の犠牲は不可避だ」と自分に言い聞かせ、その汚れを「リベラルな正論」という香水で消臭し続けてきたのだ...




