マーカスー1
ベルシア国マーカス前王が、失われた記憶を取り戻し、マリアの結婚式二か月前に亡くなるまでの話です。
「何だろうな、この心許なさは」
マ―カスは傍らに立つ従者のニックに話し掛けた。
「最近よくその言葉を口にされますね。どこかお体に不調はございませんか?」
気の利く従者は、いつも同じ言葉を返してくれる。
マーカスの言葉に、答えが無い事を彼は知っているのだ。それはマーカス自身も同じで、ここ数か月の毎日の挨拶のようなものになっていた。
この半年ほど、なんとなく気分が落ち着かないが、理由はまるで分らない。
十年前、五十六歳になった時に、三十二歳の息子に王位を譲り、以前のような重責はすっかり取り払われている。緊急性の無い案件の采配や、気に入っている仕事をこなすだけの、のんびりとした生活を送っている。
庭の散策中に、いつもの東屋に寄って休憩した。
この東屋は周囲より高く作られているため、庭園を見渡すことができる。ベンチに座り、周囲を見回すと気持ちが安らいだ。
「やはり、ここはいいな」
落ち着かない気分も、ここに居ると忘れられる。目を瞑って、しばらく静かに心をなぐさめる。
「そろそろ、戻るか」
そう言って、東屋の手すりに手を掛けて立ち上がった時、その手すりがバキッと音を立てた。
しまった、と思った次の瞬間には、身体が宙に浮き、マーカスは東屋の外に落ちていた。
目が覚めると、そこはいつもの寝室だった。ベッドに寝ていたようだ。
主治医がすぐに気付き、「ご気分は?」と声を掛けてきた。
「ちょっと、ぼんやりしている。何があったのだったかな」
ニックが顔を出した。
「いつもの東屋の手すりが脆くなっていたようで、マーカス様が手を掛けた途端に壊れたのです。それで、東屋の下に落ちて気を失っておられました。それから半日ほど経って居ります」
また事故か、とうんざりした気分で思う。
私の周辺には事故が多い。それ以上考えるのは面倒なので、「そうか、迷惑をかけたな」とニックと主治医に声を掛けた。
「王太后殿下からお見舞いに伺いたいと、ご連絡がありました。どうご返事いたしますか」
ニックに問われ、「いつでもどうぞ、と言ってくれ。見舞いの品は不要だ」
今回の事故が誰の差し金かはわからない。だが、今までのそれらの内、何割かはエラの指示だろう。
私と彼女の関係は、そういったものだ。
なにせ、エラは異母弟と恋仲だったのだ。私を暗殺して、異母弟が王になり、そして彼女は王妃になる。
そんな計画が、私の加護のせいであっけなく潰えた。
そして弟が断罪され、その当時、私の婚約者候補の筆頭だったエラは、私と結婚した。
私には想う相手もなく、エラが嫌いでもなかった。
それに、エラと弟の関係については、全く知らなかったのだ。
そしてエラは、そんな様子を私に一切見せなかった。
よくぞ隠し通して、笑って見せたものだと感心する。
そうして表向き仲の良い王と王妃が、そしてその後に王太子が誕生した。
平和に日々が過ぎて行き、王太子が十五歳を過ぎたころから、私の身辺に事故が時々起こるようになった。
「マーカス様、王太后様がいらっしゃいました」
「ああ、通してくれ」
ドアが開き、元気そうな初老の夫人が入って来た。
そうエラだ。私の妻だ。残念そうだな、と思って微笑んだ。
「マーカス様。大事に至らなくて、良かったですわ。あの東屋は危険なので解体いたしましょう。指示しておきます」
「いいや、あれは私が気に入っている場所だ。しっかり修理させよう。ニック手配を頼む。それから東屋の周囲に土を盛ってくれ。落ちても転がるだけで済むからな」
「はい。承知いたしました。すぐに手配いたします」
ニックはすぐに答えた。この辺も長年のやり取りで鍛えられたものだ。
妻は、私の嫌がることをするのが大好きなのだ。
エラは値踏みするように私の全身を見回している。
鼻をしかめてから、大げさな笑顔を作った。
「相変わらず、あなたには加護があるようですね。うらやましい事です。王位継承の儀式で、加護が王に移ったと思ったのに、一体いつまで、加護はあなたの元にあるのかしら」
「わからないな。どういう仕組みだったかを覚えていないから」
「全く。この様子だと、次に加護を受ける者は王太子になりそうですわね。あなたは元気ですし」
ふっと鼻で笑ってしまった。
王位を譲った途端に、色々と隠さなくなった。全く怖い女だ。
昔、結婚したばかりの頃、この女を愛せるかもなどと考えた、若造の自分の横面を張って、目を覚まさせたい気分になる。
「君は元気そうでなによりだ」
愛情や家族の温かみには恵まれなかったが、王としての責務を果たし、王位を譲り、今はのんびり暮らしている。それで充分幸せなのだと思っている。
「愛か……」
最近の心許なさの原因が分かった気がする。愛が失われたような喪失感。それにしては淡い。
それに、喪失感など感じるほど、愛には恵まれていないが?
「何か仰いました?」
エラが不機嫌そうにこちらを見ている。
「いいや。なんでもないよ」
この女が先に亡くなったとして、私は何か思うだろうか。
……まあ、何かは思うだろう。
だが、愛が失われたような喪失感、は淡かろうが無理だな。
「いやあね。じろじろ見ないでください」
本当に嫌そうだな。
「もう、帰ってくれないか。少し眠りたいんだ」
私は笑いをかみ殺しながら、エラに言った。
本当に少し頭が重くなってきて、眩暈がし始めていた。
その時、急に頭痛がした。そして、何かの記憶がバンッと頭の中に落ちて来た。
目を開けていても何も見えないような混乱に陥り、私は目を瞑って、ベッドの上で丸くなった。
「マーカス様、どうされましたか?」
主治医とニックが駆け寄る。
しばらく、悶えていた後、それは唐突に終わった。
ぼんやりとベッドの上に起き上がり、手を見ると、それは節くれだった、皺のある手で見覚えが無い。
無い? いいや、ある。私の手だ。毎日見ている手。
何だろう、何かがおかしい。
私は、どうしたのかな、今は何をしているのだった?
「これはどういうことだ? 私はどうなった? エリスは?」
「マーカス様。お気を確かに。頭を打ったせいで、記憶が混乱していらっしゃるのかもしれません」
そう言ったのは主治医だ。
主治医なのはわかる。でも、いつから? 俺にはこんな主治医はいなかったはずだ。
「早くリース国に戻ってエリスを迎えに行かないと。待っているだろうから」
「マーカス様? エリスというのはどなたの事でしょうか」
「外遊先のリース国で出会った女性だ。結婚の約束をしたんだ」
主治医とニックが驚愕の表情になった。ニックも、なぜかニックだとわかる。
「それは……いつの話でしょうか」
主治医が、小さい声で質問した。
「つい数日前だよ。リース国のベール伯爵家令嬢だ。婚約者はいないし、彼女自身は申し込みを受けてくれた。それで結婚準備のために、急いで帰国しようとしていたんだ。俺は事故にあったようだな。待たせてしまっているのかな。何日経ったんだ?」
主治医とニックが顔を見合わせている。
真剣な表情で、譲り合っているような雰囲気だ。
そこに初老の女性が近付いて来た。誰なのかはわからない。
「マーカス様。あなたは事故から今まで四十年近く、そのことを忘れていらっしゃったようね。お相手の女性はもう待っていないと思うわよ」
女性が、勝ち誇ったような嫌な表情で言った言葉は、私を打ちのめした。




