侍女のベル
私は客用のハンカチで、涙とよだれを拭き、鼻もかんだ。
もう、無茶苦茶ね。そう思うと、また笑いたくなったので、慌てて口を押さえて止める。身体が痛いし、疲れるし、もうこれ以上は無理。
「落ち着かなくちゃ」と自分に言い聞かせる。
ベランダに出て深呼吸して戻り、ふと手鏡をのぞくと、凄い顔が映り込んだ。
化粧がメチャクチャになっていて、まるで子供のイタズラ描きのような顔だ。
「ひどいわね」
呆然と、そのいたずら描きを眺めていたら、また笑いが込み上げてきた。
あ、胸が痛い。肋膜が引きつっている。
私は胸の下で腕を組んで、身体を強く圧迫した。息も止めて力を込めてみる。
コンコンとドアがノックされ、ロイドが声を掛けてきた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。……あー、ちょっとまずいかも。侍女に化粧直しをお願いしたいの。誰か呼んでもらえる?」
「はい、ちょうど……」
ロイドが言い終わる前に、バンとドアを開けて、一人の女性が飛び込んできた。
驚いたけど、それは私の専属侍女のベルだった。
「お嬢様。なんてことに・・・・・・えっ、なんてお顔!?」
ベルは私の顔を見つめている。
はっと気付いて、私は持っていたハンカチで顔を隠そうとしたけど、そういえばさっき鼻を噛んだのだったと思い出し、仕方無しに両手で顔を覆った。
「ベル。いい所に来たわ。顔を直してちょうだい。ロイド、今見たものは忘れてね」
私がそう言うと、ベルがすぐにロイドを部屋から押し出した。
「お仕度が整ったらお呼びしますので、外でお待ちいただけますか」
ベルは丁寧にそう言っているが、その手付はかなり荒い。いつもの愛想が良くて、気の利くベルとは違う。
ドアを閉めると、ベルは私に新しいハンカチを渡してくれた。
「準備をしてきますので、これでお顔を拭いてください」
「ベル? これは使えないわ。このまま待つわ」
ベルは有無を言わさずに、私の顔をそれで拭った。そのハンカチを私に握らせ、ささっと部屋を出る。
ベルがこの日のために、奮発して購入した高級ハンカチ。白い絹に白い絹糸だけで幾重にも刺繍された、贅沢な品だ。
真っ白いハンカチは、私の化粧で見るも無残に汚れている。
「すごく高かったって言ってたのに」
見つめていたら、静かに涙がこぼれ始めた。さっきのようなヒステリックな涙ではない。
私は白いハンカチで涙を押さえた。
顔から離すと、白いハンカチに、目の形にマスカラが付いている。まるでスタンプを押したみたい。
なんだか⋯⋯ああ、まったく。
結婚式用にメイクは入念に施していたのだ。
ベルが戻り、手早く私の顔を綺麗にして、軽く化粧をしてくれた。
さすがベル。顔を滑る手が気持ち良い。
前の人生で候爵家に入った後、ベルは帰されてしまっていた。
ベルの代わりに私に付いたのが、ジェイソンの愛人メリーだった。たぶんそれは偽名だろう。泣きボクロも、いつもは化粧で隠していた。
彼女は私を乱暴に扱った。髪を解いてもらえば痛いし、お化粧は何て言うか、適当っていう感じだった。
妻の座に座った私に妬いていたのだろうか。
ぼんやりと考えていたせいで、ベルに呼びかけられているのに、私は気付かなかったようだ。
「お嬢様。大丈夫ですか? 私、おかしな噂を聞いたのですけど、まさか本当では⋯⋯」
「どんな噂?」
ベルは口ごもった。
「⋯⋯ジェイソン様が男色家で殺人鬼で、隠し子が三人もいるとか、なんとか。色々あって、小耳に挟んだのだけでも、そんな感じです。お嬢様が屋敷に戻ったと聞かされて、私大慌てでしたから、空耳かしら」
え?
「何!? 何の話? 本当なの!?」
「あら、やっぱりデマね。まあ、確かに変な話ですもの」
その時、見計らったかのように、ドアがノックされた。
きっとロイドだ。
「入って。お父さまたちが帰ってくる前に話しておくわ。そうしないと屋敷中がパニックになるでしょうから」
ロイドが真面目くさった表情で部屋に入って来た。
とりあえずソファに座ってもらう。二人は私の言葉を静かに待っていた。
「まずはベルの聞いた噂の事を話してちょうだい。私も初耳よ。どこで聞いたの?」
「使用人用の控室を出てから、他家の知人に頼み込んで、馬車に乗せて貰うまでの間です。皆さんすごく混乱していて、色々な話が聞こえてくるんですけど、どれもびっくりするような話で⋯⋯」
「誰が話していたの?」
「急いで屋敷に戻ろうとする参列者の方々や、使用人たちや、教会関係者です」
私が帰ったあと、参列者たちもさっさと帰ったのだと思っていたのに。
「教会の人が控室に来て、式が中止になったって言うので、私たち大慌てで飛び出したんです。その前から外が騒がしくて、様子がおかしいとは思っていたんです。中途半端なタイミングで、控室にローズ公爵家の従僕がやってきたのも変だし」
ロイドがピクッと反応した。
「その話、詳しく。ローズ家の従僕が、何を話したのか教えてください」
ベルはこめかみに指を当てた。
「確か、部屋にいたディール侯爵家の従僕に、これから忙しくなりますねって言ってから、花嫁を迎える準備は万全かって」
「それで、なんて?」
「お部屋は整っているし、花を屋敷中に飾ってあるし、使用人は全員新しい制服を着て待ち構えているって。私のお嬢様を迎えるために。私、鼻高々でした」
ベルが満面の笑みを浮かべる。誇らしげだ。
「お嬢様の結婚式なので、私も控室では主役と言いますか、いい気分でお茶なんか飲んでいました。侯爵家の従僕との情報交換も抜かりなく。ジェイソン様がいかに優秀かっていう話では、他家の使用人たちが羨ましそうな顔をしてましたね」
私はその様子を思い浮かべて、ちょっと笑ってしまった。




