3-5 枯れない花束と、風来坊の涙
穏やかな風が吹く朝だった。
木々が静かに揺れ、空気は澄んでいる。
俺はいつも通り木刀を腰に下げ、修行に出かける準備をしていた。
「それじゃあ、行ってくる」
そう言ってノアに背を向け、ドアノブを握る。
外へ出ようとした、その瞬間。
「ちょっと待って」
キッチンの方から、ノアの声がした。
振り返ると、そこに立っていたのは――花束を抱えたノアだった。
色とりどりの花。朝の光を受けて、やけに目に眩しい。
(……花?)
いつ、どこで用意したんだ。
この小屋に、そんなものがあった覚えはない。
「ノア、その花束は……」
俺がそう問いかけると、ノアは一瞬だけ目を丸くした。
そして、慌てたように視線を逸らす。
「あ、えっと……」
「一緒に行きたいところがあったんだけど、修行忙しいよね」
「だから……いってらっしゃい」
言葉が、どこかちぐはぐだった。
「なんだよ、それ」
俺は一歩近づき、ノアの目を見る。
けれど――ノアは、俺と視線を合わせようとしない。
花束を抱える腕に、わずかに力が入っている。
(……隠してる)
はっきりと、そう感じた。
「何かあるなら、教えてくれよ」
「修行なんて、いつでもできる。大丈夫だから」
少しだけ、声を柔らかくしたつもりだった。
ノアは、首を横に振る。
「ほんとに、何にもないの」
「ごめんね……忘れて」
そのままノアは、花束を抱えたまま俺の横をすり抜け、外へ出ていった。
ドアが開き、朝の風が小屋の中に流れ込む。
(……絶対、何かある)
そう確信した俺は、足音を立てないように小屋を出る。
ノアに気づかれないよう、距離を保ち――
俺は、彼女の後を追った。
ノアは、迷いなく森の中へ入っていった。
(……そういえば)
普段、ノアが何をしているのか、深く考えたことはなかった。
毎日、ここへ来ていたのだろうか。
森は危険だ。
帰ったら注意しないとな――そんなことを考えながら、俺は足音を殺して後を追った。
しばらく歩いたところで、視界がひらける。
見覚えのある場所だった。
俺たちが、初めてこの森に足を踏み入れた場所。
アスカや、リックさんたちが命を落とした場所。
墓が並ぶ、あの場所だ。
木の影に身を隠し、少し外を覗く。
そこには――墓の前にしゃがみ込み、花を取り替えているノアの姿があった。
一つひとつ、丁寧に。
土を払い、花の向きを整え、静かに手を合わせている。
(……そうか)
俺が修行に明け暮れている間。
迷い、挫け、立ち止まっていた間。
ノアは、ずっとここへ来ていたのだ。
みんなを弔い続けていたのだ。
胸の奥が、ずしりと重くなる。
情けなさが、込み上げてくる。
弱くて。
誰かに守られてばかりで。
それでも「強くなったつもり」でいた自分。
――アスカの、最後の笑顔が脳裏に浮かぶ。
強くなったはずなのに。
思い出すだけで、胸が締め付けられる。
自然と、顔がこわばった。
――ヒヒーン。
不意に、獣の鳴き声が響いた。
反射的に視線を上げる。
草原の方から、一頭の馬がこちらへ近づいてきていた。
その背には、人影。
(……誰だ)
距離は、まだある。
だが確実に、ノアの方へ向かっている。
考えるより早く、身体が動いた。
地面を強く蹴り、俺は木陰から飛び出す。
一気に距離を詰め、ノアの前へ立った。
「レイル……なんで、ここに……」
ノアは目を見開き、驚いた様子で俺を見る。
手に持っていた花束を、握ったまま固まっていた。
俺は、何も答えなかった。
近づいてくる馬と、その上の人影から視線を離さない。
警戒していた――それもある。
だが、それ以上に。
ノアに、何を言えばいいのか分からなかった。
馬は、こちらへ一直線に近づいてくる。
俺は反射的に腰の木刀に手を当てた。
引き抜こうと力を込めた、その瞬間――
「ちょっとたんま、たんま! 俺は魔族じゃない!」
馬上の人物が、慌てたように声を張り上げた。
そのまま減速もせず、馬は俺たちの横を通り過ぎ、森の中へ入っていく。
そして、少し距離を取ったところで、男は改めて声を出した。
「俺の名前はケビン。まぁそうだな……旅人ってとこだ」
男――ケビンは、馬から軽く跳ねるように降りると、ノアの方へ視線を向けながら近づいてくる。
俺は咄嗟に、腕を広げてノアの前に立った。
「俺、敵じゃないって言ってるだろ! これで信じてくれるか?」
ケビンはそう言うと、ポケットから何かを取り出し、無造作に馬の方へ放った。
――ジオガン。
「……なんで王国の人間でもないのに、ジオガンを持っている」
俺は警戒を解かず問いただす。
だがケビンは、露骨に面倒くさそうな顔をして肩をすくめた。
「貰いもんだよ、貰いもん。
それよりさ、俺から言わせりゃ――」
そう言いながら、さらに一歩近づいてくる。
「村も街もないこんな辺鄙な場所で、兵器も持たずに墓参りしてる奴らの方が不思議なんだけど?」
俺が制止しようと足に力を入れた、その時。
後ろから、ノアが俺の服をそっと引いた。
「レイル、大丈夫。悪い人じゃないよ」
「……それが、オーラってやつの力か」
ノアは小さく頷き、ケビンに向かって手招きする。
「お、話がわかるねー」
ケビンは軽い調子で言うと、俺のすぐ横に腰を下ろした。
「君も立ってないでさ。話そうや、レイルくん」
「……なんで俺の名前を知ってる」
「なんでって? 青髪の彼女がそう呼んでたからだよ。
俺、耳だけはいいんだ」
そう言って、今度はノアにも座るよう指で示す。
ノアは少し迷った後、草原に腰を下ろした。
それを見て、俺も渋々その場に座る。
「立ち話もなんだなって思ってさ」
ケビンは軽く息を整え、急に改まったように言った。
「で、俺からの願いは一つ」
そう言うと、頭を下げる。
「頼む。金を貸してくれ」
言っている意味を、脳が一瞬理解できなかった。
アスカたちのことを考えていた、その最中だ。
突然現れたこの男が、次に口にした言葉が「金を貸してくれ」だなんて。
目まぐるしく変わる状況に、俺の思考は完全に置いていかれていた。
――グー
静かな草原に、場違いな音が響く。
するとケビンは、気まずそうに笑いながら頭をかいた。
「へへ、すまねぇな。金がなくて、ろくなもん食えてないんだ」
そう言って、彼は馬の方へ視線を向ける。
「あいつはマントって言うんだ。カッコいいだろ」
誰に話しかけているのかも分からないまま、ケビンは言葉を続ける。
俺とノアは、ただ黙ってそれを聞いていた。
「あいつの食費も、ろくに払えねぇ。情けないんだよ……」
さっきまで軽口を叩いていた男は、急に声を詰まらせた。
そして、そのまま泣き出す。
……本当に、よく分からない男だ。
「ケビンさん……」
ノアが、そっと口を開く。
「この花。貴族の間で高値で取引されることもあるらしい、珍しい花なの」
「おい、ノア! それはみんなのための……」
言いかけて、言葉が止まった。
ケビンを見ると、彼は泣きながらノアに向かって深く頭を下げていた。
その姿を見た瞬間、俺の脳裏にアスカの顔が浮かぶ。
いつも誰よりも真っ直ぐで、格好つけで、
迷わず人を助けるやつだった。
――あいつなら、どうしただろう。
俺は静かに木刀を腰から引き抜き、ケビンへ差し出した。
「俺のは、大した額にはならないだろうけど……持っていってくれ」
ケビンは俺にも頭を下げ、そのまま涙を拭いながらマントの方へ歩いていった。
地面に落ちていたジオガンを拾い、馬にまたがる。
「あんたたちとは、また会えるか」
ついさっき会ったばかりなのに、妙に馴れ馴れしい。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
「ああ、会えるさ」
「ここに来てくれたら、いつでも会えるよ」
ケビンは一言だけ、静かに言った。
「本当にありがとう」
それだけ言い残し、マントと共に草原の中へと消えていく。
軽い男だと思ったら、急に重くなる。
本当に、よく分からないやつだった。
しばらくケビンのことを考えていると、横からノアが声をかけてきた。
「レイル、ごめんね。みんなの花束、使っちゃって」
ノアは申し訳なさそうに、俺の顔を見上げる。
「いや……これでよかったと思う」
「きっとアスカも。みんなも、同じことをしたと思う」
俺は、緑のカーペットのように揺れる草原を見つめながら言った。
「前を見ろって」
草原を渡る風が、いつもより少しだけ心地よく感じられた。




