3-4 師の背中、夕焼けに溶ける一言
3-4 師の背中、夕焼けに溶ける一言
――ゴロ……カーン。
足元の岩のくぼみが欠け、落ちた石が時間差で甲高い音を鳴らした。
音は崖に反響し、やけに大きく耳に残る。
視線を上げると、少し先の崖の上にアスヘルが立っていた。
腕を組み、こちらを見下ろしている。
「今日こそは、ここを登りきるんだ」
そう口にした瞬間、
――力んだ。
自分でも、はっきり分かった。
――ガッ。
次の掴み場を探す前に、指先が空を切る。
持つ場所を失った身体は、そのまま真っ逆さまに落ちていった。
――ズドーン。
地面が視界いっぱいに迫る。
咄嗟に体勢を捻り、なんとか着地した。
「……くそっ! 今日は惜しかっただろ」
悔しさを噛み殺すように吐き捨てる。
「そのセリフ、毎日聞いているな」
声と同時に、気配が落ちてきた。
アスヘルが、音もなく崖から飛び降りてくる。
着地の衝撃はほとんどなく、土すら跳ねない。
――極めれば、音を殺すこともできる。
頭では分かっていても、俺には遠すぎる世界だ。
「気合い入れなかったら、絶対今日は行けただろ」
食い下がるように言うと、
「いつも聞く言い訳だな」
アスヘルはそれだけ返し、俺に背を向けた。
そのまま、村の方へ歩き出す。
俺は何も言い返せず、黙って後を追った。
アスヘルと修行を始めてから、どのくらい経っただろう。
脈気の感覚を掴むため、俺は頼み込んでこの修行を続けている。
――自然と調和する修行。
指先に脈気を集め、崖を“指だけ”で登る。
脈気を一点に集中させることで、身体の感度が研ぎ澄まされ、
やがて脈気そのものをはっきり感じ取れるようになるらしい。
理屈は分かる。
だが、出来るかは別だ。
――――
アスヘルの後ろを黙って歩く。
木々の隙間から差し込む太陽の光が、斑に俺の顔を照らす。
空気が少し開け、土の匂いに人の気配が混じり始めた。
――もうすぐ、エルド村だ。
そう思った、その時だった。
アスヘルが、ふいに足を止めた。
「俺は、ここまでだ」
あまりにも唐突な一言に、思考が追いつかない。
「……どういうことだよ」
修行の帰り道だ。
何の前触れもなく、立ち止まって、そんなことを言う意味が分からない。
「少し、外を見てくる」
軽く言ってのける口調に、思わず眉をひそめた。
「少しって……どれくらいだ」
修行の最中に放り出される。
その感覚が、どうしても許せなかった。
「一月か、二月だな」
一瞬、耳を疑った。
「それは“少し”じゃないだろ!」
「俺の修行、見てくれるんじゃなかったのか!」
声が荒くなるのを、自分でも止められなかった。
アスヘルは一度だけ俺の目を見た。
その視線は、いつもと変わらず静かで――
そして、歩き出しながら言った。
「修行は、今日で終わりだ」
「よくやった」
それだけ。
振り返ることもなく、アスヘルはエルド村とは逆の方向へと歩いていく。
「……なんなんだよ、お前!」
背中が、少しずつ遠ざかっていく。
「俺が力を欲しい理由を“復讐”だとか言ったり!」
「脈気を教えるって言ったり!」
「話がコロコロ変わりすぎて、意味わかんねーよ!」
腹の底から、声を張り上げた。
森に吸い込まれていく叫び。
それがアスヘルに届いたのかどうかは、分からない。
ただ、彼の背中は振り返らず――
やがて木々の影に溶けるように、完全に見えなくなった。
エルド村に戻ると、いつもの川辺でムウたちが相変わらず騒いでいた。
水の音と、子どもたちの声。
――変わらない風景に、少しだけ肩の力が抜ける。
「あ、レイルさん」
ロロが俺に気づき、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
その奥では、ムウとガウが向かい合い、なぜか地面を殴り合っている。
「……何してるんだ、あれ」
「ムウとガウがね、どっちが地面に深く穴を空けられるか、ずっと勝負してるの」
「でも全然決着つかなくて。だからレイルさん、二人を止めて」
「どんな勝負だよ……」
苦笑しながら、俺は二人のところへ近づく。
「これが僕の力だー!」
ムウが叫び、身体をぐっと伸ばす。
腕がハンマーのような形になり、そのまま地面へ振り下ろされた。
――バーン。
地面にできた穴は、深さ五センチほど。
「見てろよ、ムウ!」
今度はガウが拳を握りしめ、力任せに叩きつける。
――バーン。
こちらも同じくらいの穴。
正直、どちらが深いのかは分からない。
「……二人とも、何の勝負してるんだ」
できるだけ穏やかに声をかける。
「ムウが諦めないんだ」
「どう考えても、俺の穴の方が深いだろ」
「なんだって! 僕の方が深いよ!」
すぐに言い争いが始まる。
横を見ると、ロロが「ほらね」とでも言いたげな顔でこちらを見ていた。
「ムウ! ガウ! 二人とも負けだよ」
突然、ロロが声を張り上げた。
「だって、レイルさんが一番なんだから」
「……え?」
一瞬、言葉が出なかった。
「へへ、じゃあ兄ちゃんの実力、見せてもらおうか」
「レイルがどれくらいの穴あけるのか、見たい」
ムウもガウも、すっかりその気だ。
視線が一斉に集まる。
(……まあ、たまにはいいか)
なぜか俺も、少しだけ乗り気になってしまった。
「俺に負けても、泣くなよ」
軽く挑発しながら、袖をまくる。
拳の先に、薄く脈気を集める。
――“薄く、だ”。
そう意識して、拳を振り下ろした。
――パン。
乾いた音。
地面には、ざっと見ても五十センチはありそうな穴が空いていた。
「すげー……」
二人が、同時に声を漏らす。
その反応に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
自分の力を、素直に認められた気がした。
「レイルさんは、アスヘルさんの弟子ですからね」
「これくらい強くて、当然です」
ロロが得意げに言う。
……嬉しい。
確かに嬉しい。
けれど、その言葉が胸のどこかに引っかかった。
(俺は、弟子じゃない)
アスヘルに教わった。
確かにそうだ。
でも――
それだけだ。
それから二人に修行をつけて欲しいと言われロロも加えた三人と脈気の扱い方の修行をしているうちに、いつの間にか太陽は地平線へと傾いていた。
赤く染まった光が、川面と草原をゆっくりと包み込んでいく。
俺たちはその中、四人で並んで座禅を組んでいた。
目を閉じ、呼吸を整え、脈気を感じるための静かな時間。
――風の音も、どこか遠い。
「僕、帰るねー」
不意に、ムウが座禅を解いた。
振り返る間もなく、立ち上がって走り出す。
本当に自由なやつだ。
そう思いながら、俺は小さく息を吐いた。
「俺はカマイの店に行く」
次に立ち上がったのはガウだった。
一度だけ足を止め、俺とロロに向かって手を振る。
「またな!」
そう言って、村の中心へと走っていった。
(……変わったな)
俺が来る前は、こんなふうに言葉を選んで話すこともできなかったはずだ。
その背中を見送りながら、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「レイルさん」
最後に、ロロが立ち上がる。
「僕もそろそろ帰るね。お母さんが待ってるから」
そう言って、きちんと俺に向かって頭を下げた。
「ああ。気をつけて帰れ」
ロロは小さく頷き、夕焼けの中へと消えていった。
気づけば、川辺には俺一人だけが残っていた。
座禅を解き、立ち上がる。
ズボンについた土を手で払うと、昼間の喧騒が嘘のように静かだ。
「……帰るか」
ぽつりと呟き、俺は小屋へ続く道を歩き出した。
「ただいま」
小屋のドアを、軋まないようにゆっくりと開く。
中には、いつもと変わらない光景があった。
テーブルの上には、パンとスープの容器。
そして、それを用意して待っていたノアの姿。
「おかえり、レイル」
ノアはそう言うと、スープの容器を手に取り、キッチンへ向かう。
俺はその背中を見ながら、椅子に腰を下ろした。
器にスープを注ぐ音が、静かな小屋に響く。
その音を聞きながら、俺は口を開いた。
「アスヘルは……旅に出るらしい」
スープを器に注えたノアは、何でもないことのように頷く。
「うん。昨日聞いたよ」
「もうレイルは一人立ちできるから、少し出かけるって」
そう言って、ノアはスープを俺の前に置いた。
湯気が、ゆっくりと立ち上る。
「……驚かないのか?」
思ったより強い声が出ていた。
急にいなくなったんだぞ、と言いたかったのかもしれない。
ノアは、そんな俺を少し不思議そうに見つめる。
「村のみんなには、前から言ってたよ」
「レイルの修行が終わったら、世界の変化を見に行きたいって」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さった。
(……なんだよ)
俺だけ、知らなかったのか。
あいつは、俺のことをどう思っていたんだ。
スープに視線を落とす。
湯気の向こうで、自分の顔が歪んで見えた。




