2-11 淡き炎の守護者、重なる残像
周囲の闇に、赤い光が瞬き始めた。
ひとつ、ふたつ――いや、数え切れない。
草の陰、起伏の向こう、風に揺れる影の奥。
赤い目が、増えていく。
前方――エルド村へ続く帰路にも、いくつかの赤い点が浮かんでいた。
「ロロ、ムウ。しっかり捕まっとけよ」
俺は二人に無理やり笑顔を向け、地面を強く蹴った。
草原が後ろへ流れる。
行きはロロ一人だった。だが今は違う。
両腕は塞がり、身体は重い。
無茶な動きはできない。
「レイルさん! 上!」
ロロの声に反射的に視線を跳ね上げる。
夜空を切り裂く影。
赤い目をした鳥の魔物が三体、円を描くようにこちらを見下ろしていた。
「にいちゃん、横みてみて!」
今度はムウ。
顔を向けた瞬間、地面が揺れた。
熊の魔物が二体。
筋肉の塊が草原を踏み潰しながら、一直線に迫ってくる。
「……捕まっとけ!」
俺は進路を変え、熊の方へ向かって走った。
「レイルさん、危ないよ!」
ロロの叫びを無視する。
上空では、鳥たちが急降下の体勢に入っていた。
影が重なる。
距離が詰まる。
――今だ。
熊と激突する寸前、俺は地面を蹴り飛ばし、横へ跳んだ。
――ガンッ!
硬質な衝撃音。
続いて、獣の咆哮。
振り返ると、熊の胴体を鋭いクチバシが貫いていた。
一体は、刺さったまま抜けなくなった鳥を殴りつけている。
もう一体は――
二本のクチバシに貫かれ、微動だにしていない。
俺は一瞬だけその光景を視界に焼き付け、すぐに森へ向き直った。
立ち止まる理由はない。
「うわぁ……でっかいの、いるー……」
ムウが身体を伸ばし、俺の背後を覗き込む。
その声色だけで分かる。
――おそらく強い奴だ。
「レイルさん! 後ろ――でっかい蜂!」
ロロに続いて、ムウも声を上げる。
蜂――その言葉だけなら、脅威は知れている。
そう思いながら走ったまま振り返り、俺は息を呑んだ。
空を裂いて迫ってくる影。
それは、蜂ではなかった。
人間ほどもある巨大な顔。
歪んだ目と裂けた口が、こちらを“見る”ためについている。
胴体は蜂そのもの。
節のある腹部、禍々しく震える針、そして空気を叩き潰すような羽音。
――気持ち悪い、なんて言葉じゃ足りない。
「ロロ。あいつの弱点、わかるか?」
走りながら問う。
「わからないよ……初めて見たもん」
蜂の魔物は距離を詰めるたび、羽の轟音を強めていく。
逃げても、振り切れない。
「……ロロ、ムウ」
俺は速度を落とし、二人を地面に下ろした。
「森に向かって走れ」
「うわー……兄ちゃん、あれと戦うの?」
ムウの声は震えている。
「いいから、行け!」
語気を強めると、ムウはびくりと肩を震わせた。
ロロは一瞬俺を見て、すぐにムウの手を取る。
――察してくれた。
二人は振り返らず、森へ向かって走り出した。
「……死んじゃダメだよ」
ロロの声だけが、背中に残る。
蜂の魔物が、もうすぐそこまで来ていた。
赤い目が、俺だけを捉えている。
――ああ、そうだな。
ここで死んだら、アスカと同じだ。
笑って前に進んで、死んで終わり。
でも――
生きて帰らなきゃ、意味がない。
俺が生かされた理由を、まだ知らないんだから。
俺は腰を落とし、地面を踏みしめた。
逃げは終わりだ。
「こいよ」
そう呟いた俺を、蜂の魔物は睨みつけるように見下ろしていた。
赤い目が、じっと俺だけを捉えている。
――来る。
俺は足元に転がっていた石を拾い上げ、全力で投げつけた。
コツン。
乾いた音。
石は蜂の魔物の胴に当たっただけで、何の手応えもなかった。
「……俺と、一対一だろ」
そう言い放ち、俺は走り出す。
ムウとロロから、意図的に距離を取るために。
――近づけるわけにはいかない。
時間さえ稼げればいい。
背後から、羽音が追ってくる。
低く、重く、逃げ場を削る音。
俺は歯を食いしばり、覚悟を決めて振り返った。
そして――
蜂の魔物の顔面を狙い、思い切り蹴りを叩き込む。
確かに当たった。
骨に響く感触もあった。
……なのに。
蜂の魔物は、笑った。
口角が歪み、嘲るような笑みが浮かぶ。
――嫌な予感。
次の瞬間、その予感は現実になった。
腹部から、異様に長い針が伸びる。
音もなく、一直線に――俺へ。
地面を蹴る。
間に合わない。
針が脚をかすめ、熱い痛みが走った。
血が、わずかに流れる。
――速すぎる。
距離を取ろうと、さらに地面を蹴る。
だが、蜂の魔物の方が速い。
逃げられない。
次の一撃。
プスリ、と嫌な感触。
針が、俺の腕に突き刺さった。
息が止まるほどの激痛。
身体が一瞬、言うことをきかなくなる。
蜂の魔物は、俺の腕に針が刺さったのを確かめると、
まるで用が済んだかのように、ゆっくりと引き抜いた。
蜂の魔物は、俺の腕から針を引き抜くと、
まるで用が済んだと言わんばかりに興味を失い、
重い羽音を響かせながら草原の奥へと飛び去っていった。
……よかった。
これで、みんな助かる。
俺はそう思い、森の方へ歩き出そうとした。
――のに。
景色が、動かない。
一歩、踏み出したはずなのに、
足元の草も、地平も、何一つ変わらなかった。
違和感に視線を落とす。
俺の足は――動いていない。
「……っ」
力を込めても、感覚が薄い。
自分の脚なのに、他人のものみたいだ。
嫌な予感を抱きながら顔を上げると、
蜂の魔物が草原で熊の魔物に襲いかかっているのが見えた。
長い針が、熊の胴体に突き刺さる。
針を抜かれた熊は、しばらくはよろよろと動いていた。
だが――
数瞬後、
糸が切れたように、その動きが止まった。
完全に。
……毒。
しかも、ただの毒じゃない。
感覚を奪い、身体を殺す毒だ。
「兄ちゃん、大丈夫?」
足元から、必死な声がした。
見下ろすと、そこにはムウがいた。
息を切らしながら、俺を見上げている。
その声に反応したのか、
蜂の魔物が再びこちらへ向き直る。
羽音が、近づく。
「……何やってんだ」
俺は声を荒げた。
「早く逃げろ! 今すぐだ!」
だがムウは動かない。
それどころか、
小さな身体で俺の前に立ちはだかった。
「兄ちゃんも、一緒に帰るんだよ」
震えている。
「僕だって――兄ちゃんを守りたいんだ」
ムウはそう言い切ると、静かに目を閉じた。
次の瞬間、
地面を中心に、円を描くように火が灯る。
赤でも、荒々しさでもない。
淡く、柔らかな炎。
その炎はムウの周囲を巡り、
まるで首元に巻かれたマフラーのように、優しく渦を巻いていた。
……温かい。
不思議と、恐怖を和らげる火だった。
「いくよ」
ムウは短くそう告げると、
炎を操り、蜂の魔物の羽根を狙って放った。
火の軌跡が夜を裂く。
蜂は甲高い羽音を響かせ、
凄まじい速度で空を舞い、炎を避ける。
だが――
ムウの炎は執拗だった。
逃げ道を塞ぐように、
少しずつ、確実に、蜂を追い詰めていく。
そしてついに――
羽根の一部に、火が移った。
「……!」
やった――
そう思った、その瞬間。
蜂は炎を恐れなかった。
燃え上がる羽根を引きずりながら、
一直線に、こちらへ突っ込んできた。
「――っ!」
ムウは咄嗟に炎を集め、防壁を作る。
だが、蜂は減速しない。
この感じ――
知っている。
追い詰められた敵が、
相打ち覚悟で突っ込んでくる時の、あの気配。
――あの巨人の時と、同じだ。
「ムウ! 離れろ!!」
叫んだ。
だが、ムウには届いていない。
まただ。
また、誰かが俺を守っている。
俺は、動けずに。
何もできずに。
……何も、変わってないじゃないか。
毒で動けない?
違う。
動けないと思っているから、
動いていないだけだ。
――俺に、毒なんて効かない。
そう思い込んだ。
力を込める。
その瞬間――
景色が、動いた。




