2-6 空虚な誓い、歪な守護者
どれくらい眠っていたのだろう。
鼻をくすぐる温かい匂いで、俺は目を覚ました。
小屋の奥、簡素なキッチンでノアが火を使っている。
窓の外はもう暗く、昼と夜が入れ替わっているのを嫌でも理解させられた。
起き上がると、ノアがこちらに気づく。
木の器にスープを注ぎ、何も言わずに俺を手招きした。
「レイル。スープ、食べようか」
……やっぱり、おかしい。
ノアはこんな言い方をしなかった。
もっと事実だけを告げるように、感情を削ぎ落とした声で話すはずだった。
俺はまだ、夢の中にいる可能性を捨てきれず、
差し出されたスープを受け取ってベッドに腰を下ろす。
ノアも自分の分を注ぎ、椅子に座った。
「なぁ、ノア」
探るのはやめた。
逃げるのも、やめた。
「なんで、そんなに変わったんだ」
ノアは一瞬だけ動きを止め、
スープを小さなテーブルに置いた。
「……私ね」
俯いたまま、言葉を選ぶように間を置いてから、続ける。
「人が死ぬことなんて、どうでもいいって思ってた」
胸の奥が、かすかに軋んだ。
「でも……」
ノアの声が震える。
「壊れていくレイルを見て、悲しくなった」
それだけ言うと、ノアは泣いた。
声を殺すこともせず、
拭うこともせず、ただ泣いた。
泣いて、泣いて、止まらなかった。
俺はスープを持ったまま、何も言えず、
ただ、見ていることしかできなかった。
また朝が来た。
けれど、今日ベッドで眠っているのは俺じゃない。
ノアだった。
昨夜、彼女が泣き止み、眠るまで、
俺はただ横で待ち続けて、ベッドを譲った。
俺がノアを苦しめていた。
ノアはそう言った。
俺の心は壊れているらしい。
胸の奥に、その言葉をしまおうとする。
けれど、どこにも入っていかない。
手応えがない。
――どうすればいいか。
理由はわからないが、直感だけは答えを出していた。
俺はドアを開けて外に出た。
冷たい朝の空気の中、
小屋の前に立つ一本の木に向かって声をかける。
「……いるんだろ」
少し間を置いて、
アスヘルが木の影から姿を現した。
「聞きたいことがある」
「なんだ」
低く、感情のない声。
「やっぱり……みんな、死んだのか」
「ああ。死んだ」
それだけだった。
俺は視線を地面に落とす。
「……わかった。教えてくれて、ありがとう」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
小屋に戻り、椅子に腰を下ろす。
受け入れられない。
でも、受け入れるしかない。
その二つの間で、
俺の中の何かが、もう耐えきれなくなっていた。
椅子に座ったまま、俺は何も考えられずにいた。
背後で、布が擦れる音がする。
振り返ると、ノアがベッドから起き上がっていた。
目が合う。
俺は咄嗟に視線を逸らした。
罪悪感が、喉の奥に詰まる。
ノアはベッドの端に腰を下ろし、
まっすぐ、逃げ場のない目で俺を見る。
「ねぇ、レイル」
少し間があった。
息を整えるような、覚悟を固めるような沈黙。
「……私を、守って」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
守る。
――誰を?
――何から?
そして、
守れなかった俺に?
「レイル。私を守って」
繰り返される声は、震えていなかった。
「……なんで、俺なんだよ」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
「あなたに、守られていたいから」
理由になっていない。
なのに、拒めない。
「守るって……俺は守れなかったんだぞ」
少し強い口調になった。
自分を否定しなければ、立っていられなかった。
ノアは怯まない。
「理由なんていらない」
一歩も引かず、言い切る。
「私を守って。未来へ、連れていって」
感情の乗った声だった。
理屈も計算もない、ただの願い。
胸の奥を、強く押された。
俺は答えなかった。
でも、断ることもできなかった。
俺は再び外に出た。
相変わらず、風は爽やかで、空気は澄んでいる。
あまりにも、何事もなかったかのように。
いつもなら、木の裏にいるはずのアスヘルには声をかけず、そのまま歩き出してみる。
呼び止められなかった。
違和感を覚えて、足を止める。
急いで木の裏を覗いたが、そこには誰もいなかった。
――いないのか。
それだけ思って、俺は村の方へ向かった。
村人たちは、俺を見ると、物珍しそうな顔をした。
だが、その視線も、もうどうでもよかった。
尻尾の生えた者。
四足で歩く者。
腕が異様に多い者。
象のように長い鼻を持つ者。
明らかに人間とは違う存在が、当たり前のように暮らしている。
普通なら驚くべき光景のはずなのに――
何も感じなかった。
興味も、恐怖も、嫌悪も。
ただ、「そういうものか」と思っただけだ。
村を抜けると、小さな川が流れていた。
水は澄んでいて、静かに音を立てている。
俺は川のそばの斜面に腰を下ろし、そのまま寝転がった。
視界いっぱいに、空が広がる。
青くて、遠くて、
何一つ、答えてくれない空だった。
空を眺めていると、ノアの声がした。
「……横で寝転んでもいい?」
「ああ」
気の抜けた返事だった。
そこから、俺たちは長い時間、何も言わずに空を見ていた。
雲一つない、ただ青いだけの空。
けれど、どれだけ見つめても、俺の心は何一つ動かなかった。
綺麗だとも、虚しいとも思えない。
俺はゆっくりと起き上がり、別の景色を見に行こうと斜面を登る。
その途中で、ふとノアの方を見た。
ノアの目は――死んだ目をしていた。
泣いているわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、何かを諦めきったような、空虚な目だった。
「……ノア。昼ごはん、食べよう」
それだけ言って、俺は小屋へ向かって歩き出す。
振り返らなくても分かった。
ノアは何も言わず、俺の後ろをついてきていた。
小屋に戻ると、キッチンに置いてあったパンの欠片を二つ雑に掴み、椅子に腰を下ろす。
遅れて戻ってきたノアに、ベッドへ座るよう手で示し座った後パンを無理やり渡す。
俺はパンを一口、乱暴に齧ってから口を開いた。
「あのさ」
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言う。
「……ノアのこと、守るよ」
呟くような声だった。
ノアの表情が、ほんの少しだけ柔らいだ気がした。
それでいい。
俺は、ノアが壊れていく姿だけは――
もう、見たくなかった。
「じゃあ……強くなってくるわ」
俺はノアに、とびっきりの笑顔を見せて外に出た。
強くなる方法なんてわからない。けど、とにかく強くなりたかった。
村の外れに転がる大きな大木を持ち上げ、筋力を鍛える。
川の中で正座をして、精神を鍛える。
意味なんてわからなかった。
それでも、俺はがむしゃらに体を動かし続けた。
そんな特訓を数日続けているうちに、俺は村の人間――いや、この村に住む“者たち”から注目されるようになっていた。
どうやら、毎日体を酷使しているのはこの村で俺だけらしい。
村外れに転がしてあった大木を、今日も両腕で抱え上げる。
筋肉が悲鳴を上げ、指先が震える。
それでも歯を食いしばり、持ち上げ続けた。
その時だった。
「にいちゃん、毎日なにしてんだ!」
背後から、やけに明るい声が飛んできた。
振り返ると、三人の子供が立っていた。
一本角の生えた、人間に近い姿の子。
普通の人間の子。
そして――半透明で、形の定まらない、スライムのような子供。
俺は答えなかった。
黙って大木を持ち上げ続ける。
すると、スライムの子が興味深そうに近づいてきて、俺の横に置いてあった予備の大木に触れた。
「あはは。これ、軽いよー」
次の瞬間。
スライムの子は、何の気負いもなく――
本当に、遊ぶようにそれを持ち上げた。
俺の腕が、止まった。
「ほんとだー」
人間の子供も笑いながら同じ木に手をかけ、あっさりと持ち上げる。
「にいちゃん、こんなんで特訓してたの?」
悪意は、なかった。
ただの疑問だった。
それが、何よりもきつかった。
視界が、ぐらりと揺れる。
胸の奥が、静かに冷えていく。
俺は、抱えていた大木を手放した。
ドン、と鈍い音を立てて地面に落ちる。
そして、その場に膝をつき、俯いた。
ツノを生やした子供が、俺を指差して叫んだ。
「お前! 脈気使ってない! なんで使ってない!」
――脈気?
言葉の意味を考えるより早く、スライムの子供が声を上げた。
「えっ!? 脈気なしでこれ持ってたの!?」
驚いた表情で俺を見る。
スライムの子供は、さっきと同じように大木に手をかけた。
だが――
「……あれ?」
持ち上がらない。
もう一度力を込めるが、大木はびくともしなかった。
「脈気使わないとこんなに重いのか…」
人間の子供が、俺を見て言う。
「にいちゃん……」
一瞬、間が空く。
「もしかして、強い?」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
俺は――
強くなる方法を、見つけた気がした。




