表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/12

第四世代(1990年〜)

 1990年の夕暮れ町三家です。


 第四世代を迎えた三家を、重たい現実が待っておりました。

 飢饉は治らず、ついには戦争にまで発展してしまったのです。


 今のところは田舎の夕暮れ街を戦火が襲うことはありませんが、この時代の最大の特徴は、

18歳の男子に徴兵が課せられることです。

 そして、無事に戻って来れるかも、わかりません……。


 このような環境の中で子供たちはどのように育つのか、観察してみましょう。



 

[ケースA]

  坂上家(1990)の状況です。


 坂上家立地:坂の下に駅があり、勾配の上に立っている。

 住宅街で、周りは宗教活動が盛んである。    

 信者以外の人間を、咎めるわけでもないが勧誘は続き、暮らす身としては窮屈。    

 飢饉が続き、開戦した今、戦争は「神の怒り」とされ、ますます信仰に準ずる人間 が増えそうです。      

         


  坂上家夫:第三世代、坂上 駿介に準じる。

  歴史、宗教、思想に精通した人間。結局、坂上家から出ることは       叶いませんでした。

  こまりとの20歳差の年の差婚です。戦争に対しては、反戦の姿       勢を貫いています。


  坂上家妻:池田こまり(第三世代で、池田練と離婚。坂上家に嫁ぐことになりました。

こまりは、三家を渡り歩いたことになります。よって駿介とは歳の

差カップルであり、年齢的に子供が産めるのは最後のタイミングで       す)


 坂上家(1990)のポイントは二つです。

   

 ・こまりは高齢出産。医師から「この年齢ではリスクが高い」と告げられるが、 本人の意志は強く、「これが私の人生の最後の“声”になるかもしれない」と語る。


 ・出産は難産だが成功。坂上家最後の子=“遺言のような存在”として誕生する。





◆ 子ども:坂上 了慈りょうじ|長男


         【0~6歳】

 父、駿介は静かに本を読みながら背中で語ります。

 母は語りかけるように「昔話」と「三家の記憶」を語りました。

 了慈は 幼少期から、「この家に生まれた意味」が周囲の空気として伝わっているようです。

 駿介は、宗教的な“教典”や“神話”を絵本に見立てて読み聞かせました。

 母・こまりは“信じる自由”と“拒む自由”の両方を毎晩語りました。



         【7~12歳】

 近所の子どもたちの多くが『信仰に準じた教育』を受けており、その中でも了慈は「神を信じない変な子」として疎まれます。

 本人は理解しており、「信じるのが怖いわけじゃない。選びたくないだけ」のようです。

 飢饉により給食が中止、この頃では学校行事にも宗教色が入り込み、学校での“神への感謝祈祷”に参加を拒否し、小突かれる事件が発生しました。

 母が学校に乗り込み、静かに怒りました。

 この事件は少なからず、学校側に衝撃を与えました。


         【13~15歳】

 徴兵年齢が近づいてきます。行政からの通知が届き、「坂上了慈、来年十八歳、適性審査対象」と明記されました。

 父は無言でした。母は「私は命をあげるために産んだんじゃない」と、申請に異議を出すも国から却下されてしまいます。

 了慈は、「いずれ自分の身は、この坂を下るしか無いのかもしれない」と、『死と向き合うこと』を日常に織り込みました。

 この時、了慈が書き記し始めたノートの一節に……

 「ぼくは死ぬかもしれない。でもこの坂を下りるとき、祈らなかったことだけは守りたい」とあります。


         【16~18歳】

 徴兵対象。適性審査で「知力・精神性」において高スコアを記録。

 『心理戦部門』に推薦されました(前線兵士ではない)。

 最終決定を前に、母・こまりが「記録係をやらせてください」と軍に願い出ますが、断られます。 

 出発前夜、父駿介は、了次に語りかけます。

「お前が死んだら、私が語る。生きて帰ったら、お前が語れ。お前が生きていたことを証明する『声』を、誰かに届けろ」

 出発の日、母は丘の上からただ一言だけ叫びました。

「お前が選んだなら、私はそれだけを信じる」


       【19歳】

 適性スコアにより、前線ではなく情報・心理戦部門に配属しました。

 業務内容は、 捕虜の尋問記録、戦場での兵士の精神モニタリング、

 ときにはプロパガンダ文書の校正も行ったようです。

 彼は戦争に『兵士』として関わらなかった代わりに、『言葉の在り方』を戦争の内側で見続けました。

 日記には、この頃のことが、こう書かれています。

「銃を持たなかった。だけど僕の書いた文は、誰かの心を動かすだろう」


 事件:教誨所(捕虜教育施設)での“告解”

 捕虜の一人(19歳、同い年の敵兵)が、

「俺が信じてた神は、最後の一発をくれなかった。でも、お前がくれたこの紙の温度が、それよりマシだ」

 と、了慈に話したそうです。


 この事件を境に、了慈は毎夜“手紙”を書くようになりました。

 それは兵士に宛てたものでも、家族に宛てたものでもありません。

 宛先は不明、内容は断章のような“記憶のかけら”でした。


     【20歳】

 精神記録官としての任期満了により、戦場から無傷で帰還を果たします。

 地元の坂の町は、相変わらず『信仰』で染まり、坂上家だけが異質なままそこにありました。

 駅から坂を登る途中、近所の老婆がこう囁いたとあります。

「あら、まだ入信してないの? あなたの命、神様が返したと思ったらいいのに」

 了慈は静かに頭を下げ、何も言わずに坂を登りました……。


◆ 結論:坂上 了慈は、生き延びた。

  戦場には行った。だが銃を持たず、殺さず、生き延びた。

  彼は、“語られた子”から、“語る人”になろうとしている。

  そしてそれは宗教でも、国家でも、家庭でもない―― 「坂の途中で泣いていた誰か」のための語りである。



 

  * * * * *


[ケースB]

 池田家(1990年)の状況です。 


 池田家立地:代々からの大地主の家で、近くに立派な池がある。    

       この家の『長男』は、10代のどこかに必ず大殺界が訪れ、大病or大怪我を引き起こす。   

場合によってはそこで死ぬことも。    

近くに家はなく、外部との接触は元々薄い。    

莫大な額の家賃収入が毎月入ってくる。

なを、池田練の起こした近親相姦が、一族の祟りにどのように影響       するかは未知数。


  池田家夫:第三世代、池田練に準ずる。

  飢饉、そして長男を祟によって殺された練は、

  一族に抵抗する『血』を濃くするべく、娘と交わるという暴挙に  出ました。

  このことで、元妻、こまりは家を逃げ出します。


  池田家妻:第三世代、池田澪に準ずる。

  こまりとは違い、家を出ることのできなかった澪は、父親と子供  を作ることを迫られてしまいました。

  それでも生まれてくる子供に、大殺界と、その後に控えている徴  兵を経験させなければなりません。



 池田家(1990年)のポイントは三つです。


・練は澪との子を「第一子として定義する」。


・その後、澪の健康・精神状態が悪化し、第二子は不可能と判断。


・ 結果、この一人の子に池田家の不運、世界の不運が集中する。


◆ 子ども:池田 士磨しま 長男


     【0~6歳】

 母からは一切抱かれませんでした。食事と衛生のみ提供されました。

 父は“対話”ではなく、“記録する存在”として接してきました。

 幼少期から“観察”することに異様な集中力を見せました。

 人と目を合わせませんでした。音に強い反応を示し、「壁に響いた音」を正確に模倣することができたそうです。

 この段階で、感覚過敏・軽度の認知発達遅延が疑われました。



     【7~12歳】

 学校に通わせてもらえませんでした。(役所に“在宅教育”として申請されているようです)。

 父が作った教材(詩、神話、記号論)を毎日“黙読”させられていました。

 外出経験なし。池の跡地に自作の神殿(石を並べたもの)を築き、そこに毎朝通うように。

 彼にとって“言葉”は「神の痕跡」であり、“会話”は「恐れ」に近いものとして位置付けられました。


     【13~15歳:大殺界】

14歳の冬、発作性てんかん様症状を起こし、3分間の呼吸停止を経験します。

 しかし、病院には連れて行かれません。父はこれを「啓示」と記録しました。

 母・澪が初めて彼に手を添え、震える声で言ったそうです

「……ごめん。お前は生まれてよかったのか、わからない」

 何かを思ったのか士磨は、その日から“外に出る”訓練を自ら始めます。

 家を出て、バス停まで、毎日一歩ずつ距離を伸ばしていきます。


      【16~17歳】

 そんな彼にも徴兵対象通知が届きます(18歳誕生日をもって自動登録)。

 本人は「自分が社会に登録されている」ことに驚き、「これは外部が俺に接触してきた初めての現象」と受け取りました。

 士磨は母に「行ってきます」とだけ言い、荷物も持たずに歩いて家を出たそうです

 


      【18歳:徴兵・訓練中、意識消失】

 配属前の訓練中に、風邪症状から肺炎へ進行、呼吸困難と心不全を併発し、意識不明となってしまいます。

 医師は「生まれつきの免疫系異常と、ストレス耐性の欠如が重なった」と診断。

 軍からの評に「これは社会に出すべきではなかった」と記されてしまいます。

 意識は数日後に回復。

 士磨は、ベッドの上で、かつて母が壁に描いていた記号を指でなぞり続けたそうです。


       【19~20歳】

 除隊扱いを受けます。「軍に耐えられない身体」として社会から切り離されてしまいます。

 しかし士磨は、この経験を「“外側の神”との接触」と捉え、以後も『外』に出続けようとしたそうです。

 残っている記録に、

「外の人はよく喋る。たぶん、“自分が生まれた理由”を知らずに済んでいるからだと思う」と書かれていました。


◆ 結論:池田 士磨という存在

 ・血が濃くなりすぎた結果、**“語られないことの証明者”**になってしまった。

 ・彼は死ななかったが、「死に等しいほどの沈黙」を越えて今も生きている。

 ・彼の目的は、家を語ることでもなく、呪いを祓うことでもない。

   この家を、誰かが“わかるように翻訳できる”言葉に変えることである。



 * * * * *


[ケースC]

 山浦家(1990)の状況です。


 山浦家立地立地;池田家とまでは行かなくとも、裏に山を持つ地主である。 あたりは、住宅街で周りの人間との交流は多い。

  街までのアクセスは良く、徒歩圏内に商店街や、スーパー、   

  本屋に映画館など、立地的には恵まれてるといえるが、

 都市部からの人間が物資を買い占めていくために、食料配給が最も不安定な場所とも言える。

 また、土地はあるが換金不可能な土地であるため、苦しみの中層階級の象徴とも言える。


  山浦家夫:(第一世代、坂上家夫のファクターを使用)平凡なサラリー マン。年収は450万。 趣味も特にない灰色の人生だが、

 麗央と結ばれ、婿養子として迎え入れられた。


  山浦家妻:第三世代、山浦 麗央に準ずる。 言葉では語らず、文学で家庭 を包む人。


 山浦家祖父:第三世代、山浦昴に準ずる。かつての理想主義者ですが、今 は老いた静観者に収まった。






 山浦家(1990)のポイントは三つです。


•長男 → 期待される“跡取り”。

•妹 → 家の空気に薄く溶けて育つ、“気配のような存在”。

・   山浦家の人間は、代々「黙っている者」が主流。“家庭内言語が希薄”という特徴が現れる。



◆ 長男:山浦 らい


     【0~6歳】

 母・麗央は言葉を多く発さないが、絵本と詩を毎晩読み聞かせてくれました。

 父は口数少なく、弁当、水筒、ランドセルの整備などは完璧にこなしてくれました。

 頼は「家は語らずに守る場所」と学びます。

 幼稚園ではよくできる子でしたが、自己主張は一切しませんでした。

 保育士に「表情が薄いですね」と言われ、母は何も返さずに微笑んだようです。


     【7~12歳】

 飢饉の影響で、学校での給食制度が崩壊するという事件が起きます。

 昼食は各家庭持参。周囲の子がパンの耳や昆虫を持ってくる中、

 頼は祖父が畑で育てた芋を食べていたようです。突然……戦争っぽくなりました ね……。

 辛抱強く、一度も文句を言いません。その姿に、担任が「この子は本当は何を思ってるんだろう」と心を痛めたそうです。

 その一端を知れるのは、絵日記に毎日『空』の事ばかり描くように。

  担任に「感性が豊か」と言われましたが、母からは「それは『上の空』という意味で、夢じゃなくて現実逃避」と思われました。


     【13~15歳】

 徴兵通知が「来年から配布される」と新聞が報じ始めます。

 頼は、兵士になる覚悟を決めました。

 母は「行くかどうかより、戻るつもりがあるかを考えて」とだけ返したそうです。

 この時期、唯一の反抗として、「夜間に畑で焚き火をして寝そべる」という習慣を始めたそうです。

 その姿を祖父・昴がそっと面倒を見てくれたようです。


     【16~18歳】

 18歳、徴兵が確定します。

 訓練中、特に異常なし。だが周囲から「感情が読めない」「死を恐れていないのでは」と評されます。

 教官に「何を考えてる」と問われ、「特に何も。帰って、飯を炊きます」とだけ答えたというエピソードが残っています。

 そして……最前線に送られました。


     【19~20歳】

 頼は無事生きて帰ってきましたが、怪我で片目を失明しました。

 爆風により鼓膜も一部損傷。声がこもるようになりました。

 地元に戻るとき、家を出た妹が「おかえり」と手話で話しかけてくれました。

 それに対し「声を失くしたわけじゃない。言うことがないだけだよ」と言ったそうです。

 実家の裏の山に「木造の静養小屋」を自分で建て、そこで静かに暮らし始めたようです。



◆ 妹:山浦 春陽はるひ


     【0~6歳】

 生まれた瞬間から、「兄は戦争で死ぬかもしれない」という緊張を家庭が背負っています。

 春陽はその空気を幼少期から察知。

 「私は誰にも手間をかけさせない」を無意識に決めて育ちます。

 母とだけ密接に言葉を交わす。“兄を通じて母を守っている”感覚。



     【7~12歳】

 学校では“無難な良い子”。家では“母の相談相手”になります。

 兄の帰還を、毎日、家の前で待っている習慣を持つようになったそうです。

 詩や音楽に傾倒。母がかつて投稿した雑誌を見つけ、「お母さんも、書いてたの?」と聞きます。



     【13~15歳】

 兄の出征。毎晩、兄がかつて焚き火をしていた場所にろうそくを灯します。何の意味があるのかは誰にもわかりませんでした。

 後でわかったのは、この行為は「祈り」ではなく「帰り道の明かり」としてとのことでした。

 詩を書き続け、匿名で掲載されはじめます。

 その中の1文に、

「帰ってこない人を待ってるんじゃない。

 ここがまだ“帰れる場所”であるために、私は火を灯してるだけ」とあります。


     【16~20歳】

 文芸推薦で進学。地元を離れます。

 兄が帰還した夜、妹から手紙が届きます。

 「兄ちゃんの事を、私は誇りに思ってる。 その沈黙を、私は記録していく」


◆ 山浦家(1990年)結論

•飢饉と戦争によって、“言葉を持たない者”が再び中心に座る家となった。

•長男・頼は、傷を負いながら生きて帰り、「語らないまま何かを守った」。

•妹・春陽は、沈黙を詩に変えて、「山浦家の物語」を他者に届けていく。

   山浦家は、いつの時代も「家族の重さを背負って、音の少ない世界に立つ者たち」の系譜である。



 1990年の夕暮れ町、いかがでしたか?

 戦争は、もうしばらく続きそうです。

 それでも、人類は生き死にを繰り返すのです。


 それでは、2020年の夕暮れ町で会いましょう。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ