第四世代(1990年〜)
1990年の夕暮れ町三家です。
第四世代を迎えた三家を、重たい現実が待っておりました。
飢饉は治らず、ついには戦争にまで発展してしまったのです。
今のところは田舎の夕暮れ街を戦火が襲うことはありませんが、この時代の最大の特徴は、
18歳の男子に徴兵が課せられることです。
そして、無事に戻って来れるかも、わかりません……。
このような環境の中で子供たちはどのように育つのか、観察してみましょう。
[ケースA]
坂上家(1990)の状況です。
坂上家立地:坂の下に駅があり、勾配の上に立っている。
住宅街で、周りは宗教活動が盛んである。
信者以外の人間を、咎めるわけでもないが勧誘は続き、暮らす身としては窮屈。
飢饉が続き、開戦した今、戦争は「神の怒り」とされ、ますます信仰に準ずる人間 が増えそうです。
坂上家夫:第三世代、坂上 駿介に準じる。
歴史、宗教、思想に精通した人間。結局、坂上家から出ることは 叶いませんでした。
こまりとの20歳差の年の差婚です。戦争に対しては、反戦の姿 勢を貫いています。
坂上家妻:池田こまり(第三世代で、池田練と離婚。坂上家に嫁ぐことになりました。
こまりは、三家を渡り歩いたことになります。よって駿介とは歳の
差カップルであり、年齢的に子供が産めるのは最後のタイミングで す)
坂上家(1990)のポイントは二つです。
・こまりは高齢出産。医師から「この年齢ではリスクが高い」と告げられるが、 本人の意志は強く、「これが私の人生の最後の“声”になるかもしれない」と語る。
・出産は難産だが成功。坂上家最後の子=“遺言のような存在”として誕生する。
◆ 子ども:坂上 了慈|長男
【0~6歳】
父、駿介は静かに本を読みながら背中で語ります。
母は語りかけるように「昔話」と「三家の記憶」を語りました。
了慈は 幼少期から、「この家に生まれた意味」が周囲の空気として伝わっているようです。
駿介は、宗教的な“教典”や“神話”を絵本に見立てて読み聞かせました。
母・こまりは“信じる自由”と“拒む自由”の両方を毎晩語りました。
【7~12歳】
近所の子どもたちの多くが『信仰に準じた教育』を受けており、その中でも了慈は「神を信じない変な子」として疎まれます。
本人は理解しており、「信じるのが怖いわけじゃない。選びたくないだけ」のようです。
飢饉により給食が中止、この頃では学校行事にも宗教色が入り込み、学校での“神への感謝祈祷”に参加を拒否し、小突かれる事件が発生しました。
母が学校に乗り込み、静かに怒りました。
この事件は少なからず、学校側に衝撃を与えました。
【13~15歳】
徴兵年齢が近づいてきます。行政からの通知が届き、「坂上了慈、来年十八歳、適性審査対象」と明記されました。
父は無言でした。母は「私は命をあげるために産んだんじゃない」と、申請に異議を出すも国から却下されてしまいます。
了慈は、「いずれ自分の身は、この坂を下るしか無いのかもしれない」と、『死と向き合うこと』を日常に織り込みました。
この時、了慈が書き記し始めたノートの一節に……
「ぼくは死ぬかもしれない。でもこの坂を下りるとき、祈らなかったことだけは守りたい」とあります。
【16~18歳】
徴兵対象。適性審査で「知力・精神性」において高スコアを記録。
『心理戦部門』に推薦されました(前線兵士ではない)。
最終決定を前に、母・こまりが「記録係をやらせてください」と軍に願い出ますが、断られます。
出発前夜、父駿介は、了次に語りかけます。
「お前が死んだら、私が語る。生きて帰ったら、お前が語れ。お前が生きていたことを証明する『声』を、誰かに届けろ」
出発の日、母は丘の上からただ一言だけ叫びました。
「お前が選んだなら、私はそれだけを信じる」
【19歳】
適性スコアにより、前線ではなく情報・心理戦部門に配属しました。
業務内容は、 捕虜の尋問記録、戦場での兵士の精神モニタリング、
ときにはプロパガンダ文書の校正も行ったようです。
彼は戦争に『兵士』として関わらなかった代わりに、『言葉の在り方』を戦争の内側で見続けました。
日記には、この頃のことが、こう書かれています。
「銃を持たなかった。だけど僕の書いた文は、誰かの心を動かすだろう」
事件:教誨所(捕虜教育施設)での“告解”
捕虜の一人(19歳、同い年の敵兵)が、
「俺が信じてた神は、最後の一発をくれなかった。でも、お前がくれたこの紙の温度が、それよりマシだ」
と、了慈に話したそうです。
この事件を境に、了慈は毎夜“手紙”を書くようになりました。
それは兵士に宛てたものでも、家族に宛てたものでもありません。
宛先は不明、内容は断章のような“記憶のかけら”でした。
【20歳】
精神記録官としての任期満了により、戦場から無傷で帰還を果たします。
地元の坂の町は、相変わらず『信仰』で染まり、坂上家だけが異質なままそこにありました。
駅から坂を登る途中、近所の老婆がこう囁いたとあります。
「あら、まだ入信してないの? あなたの命、神様が返したと思ったらいいのに」
了慈は静かに頭を下げ、何も言わずに坂を登りました……。
◆ 結論:坂上 了慈は、生き延びた。
戦場には行った。だが銃を持たず、殺さず、生き延びた。
彼は、“語られた子”から、“語る人”になろうとしている。
そしてそれは宗教でも、国家でも、家庭でもない―― 「坂の途中で泣いていた誰か」のための語りである。
* * * * *
[ケースB]
池田家(1990年)の状況です。
池田家立地:代々からの大地主の家で、近くに立派な池がある。
この家の『長男』は、10代のどこかに必ず大殺界が訪れ、大病or大怪我を引き起こす。
場合によってはそこで死ぬことも。
近くに家はなく、外部との接触は元々薄い。
莫大な額の家賃収入が毎月入ってくる。
なを、池田練の起こした近親相姦が、一族の祟りにどのように影響 するかは未知数。
池田家夫:第三世代、池田練に準ずる。
飢饉、そして長男を祟によって殺された練は、
一族に抵抗する『血』を濃くするべく、娘と交わるという暴挙に 出ました。
このことで、元妻、こまりは家を逃げ出します。
池田家妻:第三世代、池田澪に準ずる。
こまりとは違い、家を出ることのできなかった澪は、父親と子供 を作ることを迫られてしまいました。
それでも生まれてくる子供に、大殺界と、その後に控えている徴 兵を経験させなければなりません。
池田家(1990年)のポイントは三つです。
・練は澪との子を「第一子として定義する」。
・その後、澪の健康・精神状態が悪化し、第二子は不可能と判断。
・ 結果、この一人の子に池田家の不運、世界の不運が集中する。
◆ 子ども:池田 士磨 長男
【0~6歳】
母からは一切抱かれませんでした。食事と衛生のみ提供されました。
父は“対話”ではなく、“記録する存在”として接してきました。
幼少期から“観察”することに異様な集中力を見せました。
人と目を合わせませんでした。音に強い反応を示し、「壁に響いた音」を正確に模倣することができたそうです。
この段階で、感覚過敏・軽度の認知発達遅延が疑われました。
【7~12歳】
学校に通わせてもらえませんでした。(役所に“在宅教育”として申請されているようです)。
父が作った教材(詩、神話、記号論)を毎日“黙読”させられていました。
外出経験なし。池の跡地に自作の神殿(石を並べたもの)を築き、そこに毎朝通うように。
彼にとって“言葉”は「神の痕跡」であり、“会話”は「恐れ」に近いものとして位置付けられました。
【13~15歳:大殺界】
14歳の冬、発作性てんかん様症状を起こし、3分間の呼吸停止を経験します。
しかし、病院には連れて行かれません。父はこれを「啓示」と記録しました。
母・澪が初めて彼に手を添え、震える声で言ったそうです
「……ごめん。お前は生まれてよかったのか、わからない」
何かを思ったのか士磨は、その日から“外に出る”訓練を自ら始めます。
家を出て、バス停まで、毎日一歩ずつ距離を伸ばしていきます。
【16~17歳】
そんな彼にも徴兵対象通知が届きます(18歳誕生日をもって自動登録)。
本人は「自分が社会に登録されている」ことに驚き、「これは外部が俺に接触してきた初めての現象」と受け取りました。
士磨は母に「行ってきます」とだけ言い、荷物も持たずに歩いて家を出たそうです
【18歳:徴兵・訓練中、意識消失】
配属前の訓練中に、風邪症状から肺炎へ進行、呼吸困難と心不全を併発し、意識不明となってしまいます。
医師は「生まれつきの免疫系異常と、ストレス耐性の欠如が重なった」と診断。
軍からの評に「これは社会に出すべきではなかった」と記されてしまいます。
意識は数日後に回復。
士磨は、ベッドの上で、かつて母が壁に描いていた記号を指でなぞり続けたそうです。
【19~20歳】
除隊扱いを受けます。「軍に耐えられない身体」として社会から切り離されてしまいます。
しかし士磨は、この経験を「“外側の神”との接触」と捉え、以後も『外』に出続けようとしたそうです。
残っている記録に、
「外の人はよく喋る。たぶん、“自分が生まれた理由”を知らずに済んでいるからだと思う」と書かれていました。
◆ 結論:池田 士磨という存在
・血が濃くなりすぎた結果、**“語られないことの証明者”**になってしまった。
・彼は死ななかったが、「死に等しいほどの沈黙」を越えて今も生きている。
・彼の目的は、家を語ることでもなく、呪いを祓うことでもない。
この家を、誰かが“わかるように翻訳できる”言葉に変えることである。
* * * * *
[ケースC]
山浦家(1990)の状況です。
山浦家立地立地;池田家とまでは行かなくとも、裏に山を持つ地主である。 あたりは、住宅街で周りの人間との交流は多い。
街までのアクセスは良く、徒歩圏内に商店街や、スーパー、
本屋に映画館など、立地的には恵まれてるといえるが、
都市部からの人間が物資を買い占めていくために、食料配給が最も不安定な場所とも言える。
また、土地はあるが換金不可能な土地であるため、苦しみの中層階級の象徴とも言える。
山浦家夫:(第一世代、坂上家夫のファクターを使用)平凡なサラリー マン。年収は450万。 趣味も特にない灰色の人生だが、
麗央と結ばれ、婿養子として迎え入れられた。
山浦家妻:第三世代、山浦 麗央に準ずる。 言葉では語らず、文学で家庭 を包む人。
山浦家祖父:第三世代、山浦昴に準ずる。かつての理想主義者ですが、今 は老いた静観者に収まった。
山浦家(1990)のポイントは三つです。
•長男 → 期待される“跡取り”。
•妹 → 家の空気に薄く溶けて育つ、“気配のような存在”。
・ 山浦家の人間は、代々「黙っている者」が主流。“家庭内言語が希薄”という特徴が現れる。
◆ 長男:山浦 頼
【0~6歳】
母・麗央は言葉を多く発さないが、絵本と詩を毎晩読み聞かせてくれました。
父は口数少なく、弁当、水筒、ランドセルの整備などは完璧にこなしてくれました。
頼は「家は語らずに守る場所」と学びます。
幼稚園ではよくできる子でしたが、自己主張は一切しませんでした。
保育士に「表情が薄いですね」と言われ、母は何も返さずに微笑んだようです。
【7~12歳】
飢饉の影響で、学校での給食制度が崩壊するという事件が起きます。
昼食は各家庭持参。周囲の子がパンの耳や昆虫を持ってくる中、
頼は祖父が畑で育てた芋を食べていたようです。突然……戦争っぽくなりました ね……。
辛抱強く、一度も文句を言いません。その姿に、担任が「この子は本当は何を思ってるんだろう」と心を痛めたそうです。
その一端を知れるのは、絵日記に毎日『空』の事ばかり描くように。
担任に「感性が豊か」と言われましたが、母からは「それは『上の空』という意味で、夢じゃなくて現実逃避」と思われました。
【13~15歳】
徴兵通知が「来年から配布される」と新聞が報じ始めます。
頼は、兵士になる覚悟を決めました。
母は「行くかどうかより、戻るつもりがあるかを考えて」とだけ返したそうです。
この時期、唯一の反抗として、「夜間に畑で焚き火をして寝そべる」という習慣を始めたそうです。
その姿を祖父・昴がそっと面倒を見てくれたようです。
【16~18歳】
18歳、徴兵が確定します。
訓練中、特に異常なし。だが周囲から「感情が読めない」「死を恐れていないのでは」と評されます。
教官に「何を考えてる」と問われ、「特に何も。帰って、飯を炊きます」とだけ答えたというエピソードが残っています。
そして……最前線に送られました。
【19~20歳】
頼は無事生きて帰ってきましたが、怪我で片目を失明しました。
爆風により鼓膜も一部損傷。声がこもるようになりました。
地元に戻るとき、家を出た妹が「おかえり」と手話で話しかけてくれました。
それに対し「声を失くしたわけじゃない。言うことがないだけだよ」と言ったそうです。
実家の裏の山に「木造の静養小屋」を自分で建て、そこで静かに暮らし始めたようです。
◆ 妹:山浦 春陽
【0~6歳】
生まれた瞬間から、「兄は戦争で死ぬかもしれない」という緊張を家庭が背負っています。
春陽はその空気を幼少期から察知。
「私は誰にも手間をかけさせない」を無意識に決めて育ちます。
母とだけ密接に言葉を交わす。“兄を通じて母を守っている”感覚。
【7~12歳】
学校では“無難な良い子”。家では“母の相談相手”になります。
兄の帰還を、毎日、家の前で待っている習慣を持つようになったそうです。
詩や音楽に傾倒。母がかつて投稿した雑誌を見つけ、「お母さんも、書いてたの?」と聞きます。
【13~15歳】
兄の出征。毎晩、兄がかつて焚き火をしていた場所にろうそくを灯します。何の意味があるのかは誰にもわかりませんでした。
後でわかったのは、この行為は「祈り」ではなく「帰り道の明かり」としてとのことでした。
詩を書き続け、匿名で掲載されはじめます。
その中の1文に、
「帰ってこない人を待ってるんじゃない。
ここがまだ“帰れる場所”であるために、私は火を灯してるだけ」とあります。
【16~20歳】
文芸推薦で進学。地元を離れます。
兄が帰還した夜、妹から手紙が届きます。
「兄ちゃんの事を、私は誇りに思ってる。 その沈黙を、私は記録していく」
◆ 山浦家(1990年)結論
•飢饉と戦争によって、“言葉を持たない者”が再び中心に座る家となった。
•長男・頼は、傷を負いながら生きて帰り、「語らないまま何かを守った」。
•妹・春陽は、沈黙を詩に変えて、「山浦家の物語」を他者に届けていく。
山浦家は、いつの時代も「家族の重さを背負って、音の少ない世界に立つ者たち」の系譜である。
1990年の夕暮れ町、いかがでしたか?
戦争は、もうしばらく続きそうです。
それでも、人類は生き死にを繰り返すのです。
それでは、2020年の夕暮れ町で会いましょう。