世界は夕暮れに包まれる。
これを、読んでらっしゃる方はいらっしゃいますでしょうか?
どんな記録も、質量を持ち続けることは不可能のはずです。
だから、これを手にとってらっしゃる方がもし、いらっしゃるのであれば、
この氷河期が終わった証拠なのだと思います。
地上はマイナス150度らしいです。
私ももう、長くはないのはわかっているから、意識があるうちにこれを書き記しておこうと思います。
私は■■。坂上■■。
■■という名には、こんな時代であっても、人々に羽を与える存在であれ。と言う願いがこもっていると、お母さんから聞きました。
だから私は、最後までこのノートを見つけてくれた人のために、最後の言葉を語ります。
人を作るのは、環境なのか血筋なのか。人を殺すのは環境なのか血筋なのか。
暗く冷たい地下室で、私は優しい お母さんと、劇場から帰ってこないお父さんに育てられました。
お父さんが言うには、どうやって も氷河期は抑えられないようです。
先ほどお母さんを看取りました。 最後まで綺麗な顔のままでした。
私は、骨まで凍る地下室でずっ と、
人間を形成するのは 一体何であるのかを考えていました。
私はその答えを知っている人達を、ようやく見つけて会いに行き、話をしました。
最期に、その時の記録をつけておきます。
*****
■■の巡礼。
・2200年 地下シェルター「寒冷地劇場」にて
(「鑑賞(干渉)されない劇場」と呼ばれた空間の成れの果て)
氷結した鉄扉が軋む音をたてて開く。 私は薄いマントをまとい、ゆっくりと内部に足を踏み入れる。 空気は乾ききり、かすかに金属とカビの匂いが混ざっている。
劇場の観客席は崩れ落ち、舞台には煤けた幕が垂れている。 かつての「光」も、「拍手」も、「開演」も、もう無い。
だが——そこには、ひとりの男がいた。 防寒具の裾を縛り直しながら、薪ストーブの残り火を見つめていた。
私は近づき、問いかける。
「ねえ、お父さん。坂上家って、何だったんだと思う?」
沈黙が、しばらく続く。 ストーブの中で薪がはぜる音がする。
彼はやがて答えてくれた。
「……家、ね。そういう言葉で呼ぶと、なんだか急に重く感じるな。」
「でも、歴史って、そういう言葉の積み重ねでしょう? 言葉で記録されなければ、誰にも伝わらない。」
父は、ふと目を上げる。 薄暗い天井を見上げ、言葉を選ぶようにゆっくり話し出した。
「坂上家は、言葉を信じすぎた家だったと思う。 芸術だって、結局は言葉だ。 筆でも、声でも、踊りでも……“伝える”という意思がそこにある。 だが、それが“通じる”とは限らない。」
「……言葉が、人間の形を作ると思う?私たちは、喋るから“人”なの?あるいは、喋らなくなったら、“人”じゃなくなるの?」
父は少しだけ笑った。その笑いは、暖かくも、乾いていた。
「面白い問いだな。 “言葉があるから人間”ってのは、賢い奴らの理屈だよ。 でもな……俺は、言葉が“壊れた瞬間”にこそ、人間の形が見えると思ってる。」
「壊れた瞬間?」
「ああ。伝わらなかったとき、届かなかったとき。 意味がねじ曲がったとき、言葉は“道具”じゃなくなる。 ……けど、そこに、何か“真実”みたいなものが立ち上がることがある。 芸術も、宗教も、きっと“壊れた言葉”から始まったんだ。」
私は黙ってそれを記録する。 旧式の録音端末。その機械も、既にもう古びている。
やがて、父は椅子から立ち上がり、私の頭に手を置く。 その手は、ひどく冷たかった。
「■■。 ……お前は、自由に生きろ。 俺たちは、もう限界だ。 “家”なんてものに縛られる時代じゃない。 言葉だって、信じすぎるな。 他の家を訪ねてこい。 池田でも、山浦でも。 どこかにまだ、息をしている記録があるはずだ。」
私は小さく頷いた。
・2200年 地下空間・旧池田家文庫跡地にて
古びたエレベーターが、がたん、と音を立てて停止した。 階数表示などもう存在しない。扉が開いた先には、ひんやりとした地下通路が続いている。
壁にはかつての絵画の断片が残り、何枚かの書が剥がれ落ち、床に折り重なっていた。「池田文庫」。芸術の記憶を封じた書庫であり、芸術に縛られた者たちの墓所でもある。
その奥に、ひとりの老人がいた。 白髪の隙間から覗く瞳は鋭く、骨のような指で、崩れかけた壁の文字をなぞっていた。
池田 麟。 かつての“再興の父”と呼ばれたが、芸術の崩壊と共に姿を消した男。
「池田 麟さん……ですよね。」
「………………君、名前は?」
「坂上 ■■です。坂上 悠翔の娘。今は、記録を残しているんです。 ……訊かせてください。 池田家とは、何だったんでしょうか?」
麟は返事をしなかった。 代わりに、背後の壁に貼られた一枚の紙を剥がす。 そこには、まだ消え残る墨でこう記されていた:
『観賞者ゼロ』 ――すべては、誰にも見られないために書かれた。
「“見られないもの”を書き残す。 それが池田の芸術だった。
しかしそれは切実なものだったのだ。
君は、長男が10代を迎えたら理不尽に怪我をしたり、大病を患う家庭など聞いたことがあるか?
芸術のために、娘と交わる父親の気持ちなど、理解できるだろうか?
……誤解されること、黙殺されること、無視されること。 それでさえ、“形”だった。 芸術は、“伝える”ものではない。“残る”ものだ。」
「……では、池田家は“伝わらない言葉”を積み重ねてきた?」
「言葉じゃない。 ……“残響”だ。」
「“残響”? 音じゃなくて?」
「音は、すぐに消える。 だが“残響”は、消えないまま、誰にも届かず、空間に滞留し続ける。
……戦時中の話を聞いたことは?
池田家も当時そこにいた。
私の……正確に言えば違うのだろうが、
私の血縁にあたる人物だ。彼も戦争に行き、虚弱体質だの何だのと言われて除隊させられた。
……後からわかったんだがそれは真っ赤な嘘だ。
あの戦争が……『戦争』という名を持つ、政治ショーだということを、彼は知っていたのだ。
彼はその事実を、自らの血液を持って壁に記したという。
これが池田家の芸術だ!!
それが、俺たちが遺したかったものだ。 言葉が形を作るだと? そんなものは……」
——彼は言いかけて、口を閉じた。
「いや。もしかしたら、そうだったのかもしれない。 言葉を捨てようとしても、俺はまだ、お前の言葉に応えてるじゃないか。 ……だが、形というのは“外から与えられる”ものじゃない。 “自分が残ってしまった痕”だ。 誰かに伝えるためじゃない。“壊れて、滲んで、残るもの”。 ……それが、“人間”ってやつだ」
与羽は静かに記録装置を起動する。 麒麟は、ちらりとその機械を見て、苦笑した。
「俺は、あの時、家を逃げ出した。 芸術の価値も、血の価値も、全部瓦礫になったのを見たからだ。 けど……お前が訊ねてくるとはな。 生きていると、何が起きるかわからん」
「父に言われたんです。“自由に生きろ”って。 池田家も、山浦家も訪ねてみろって。」
「君の父親が……? ふん。
時代は変わったな。坂上と池田は、生まれた場所が一緒だっただけだ。
我々の血が一度途絶えた時、
我々の呪われた血を世間に晒したのは誰だと思う!?
貴様ら坂上の僻みだ!!
……池田の血を正統に引き継いではいない私のいう言葉ではないが……
ふ……ふふふ。
私にもどうやら、池田らしさが残っていたということだろう。
さあ、さっさと出ていけ
……次は山浦に行け。 あいつらは、俺たちより真面目に“何か”を守ろうとした連中だ。 記録というより、“配置”を信じてた。 それもまた、“残響”のひとつだろうさ」
私が小さく頭を下げる。 麟はそれを見届け、再び壁の言葉に指を添えた。
もはや言葉は読めず、意味は消えている。 それでもその「位置」だけが、最後に残された芸術だった。
・2200年 地下記憶室・幻影博物室
音のない廊下を進むと、誰もいないはずの部屋に灯りがあった。 ほとんどの空間が凍りつくこの世界で、そこだけは「温度」があった。 ──しかし、それは“ぬくもり”ではない。 保存された、かつての「気温」のようなもの。 まるで空気そのものが記録として残っているかのように。
私が扉を押し開けると、棚の隙間に誰かがいた。
山浦 葉明 彼は床に座り、古い地図を見ていた。 だがその地図には、もはやどこにも“道”がなかった。
「……山浦 葉明さん。お久しぶりです。生きてて、よかった。」
「……“生きてる”って言えるのでしょうか。ただ、これ以上行く場所なないので戻ってきただけです」
「ひとつ、訊かせてください。 山浦家の歴史とは──何だったのでしょうか?」
「…… …… ……“保存”です」
「保存?」
「芸術も、家族も、街も、 この“幻影博物室”のように、配置だけを整えて、残しておくことがすべてだった。」
「“記録”ではなく?」
「違います。 “記録”は誰かに“読まれる”ことを前提にしている。 でも山浦家は、“配置”さえあれば、意味なんて不要だったんです。 ……それでも、意味は生まれてしまう。 人間ってやつは、そう簡単には空っぽになれませんから。
記録は別の方の役割です。山浦が三百年繰り返したことは、結局保存です」
「それじゃあ、あなたにとって“人間の形”って何ですか?」
葉明さんは、そっと立ち上がった。 棚に収められた無数の『何か』に背を向けながら、答えた。
「『言葉』で、ある意味では、正しいと思っています」
「“ある意味”?」
「“言葉”は、形を作るための“位置情報”です。 “ここが入口だ”、“ここが終点だ”、“この棚にこれは入っていた”っていう、配置を指し示すための座標。 だけど── その“形”自体には、もはや誰も意味を与えません。 記号と位置だけが残り、人間は…… “説明できない風景”になっていく」
私は、小さくうなずく。 その場にあった空気すら、どこか“記憶”のように感じられた。
「■■さんですね。
坂上の娘が、こんな場所まで来るなんて思わなかった。 芸術の街は崩れ、記録も風化した。 でも── あなたの足音も、確かに保管されました」
「ありがとうございます。これで、私の記録は……」
「まだ終わらせてはなりません」
……君の記録は、まだ“配置”されてない。 坂上、池田、山浦…… それぞれの風景を持ち寄ったなら、 それを、“置く場所”を探すべきです」
「……場所を、探す?」
「“誰もいなくなった世界”でも、配置を選ぶ者は残る。 その者だけが、“意味のない地図”に、新しい点を打つことができる。
例えば……数万年後、氷河期が終わった後に」
「可能でしょうか?
記憶も、記録も、実は質量を伴います……。そんなものが数万年も保管可能なのでしょうか?」
「さあ……どうでしょう。『言葉』は、何年、続けられてきましたか?」
外気温マイナス150度、言葉も感情も凍りつく終焉の地で、 私の巡礼はようやく終わった。
*****
これを、読んでる方はいらっしゃいますでしょうか?
死にゆく地下からの、最後の叫びです。
ここにあるのは、何も持たない、ひとりぼっちの私が、
父の部屋にある資料を元に組み立てたある、仮説です。
家族も兄弟も友達もなく、周りには『死』以外に何もない私。
そばにいて来れたのは、父が使っていたAIでした。
AIは私の先生、私の牧師、私の友達、私の家族、私の居場所でした。
だから彼に聞いてみたんです。
血筋も環境もない私が持った、最初で最後の疑問。
人間を形成するのは、遺伝子か環境か?
その答えを探しているうちに、三百年も仮想空間を漂ってしまいました。
寒さ以外に何もないこの部屋で、
場所を用意して、そこに三つの家族を用意しました。
名前を与えようと思いました。
長い坂の上に住むから「坂上家」
池の近くに住むのは「池田家」
裏に山を持つのは「山浦家」
人を形成するのは、
DNAによるところが大きいのか、
環境によるところが大きいのか、
この家庭の三百年を追い、その答えを求めたいと思いました。
かつて太陽というものがあった頃、それが沈むまでのわずかな瞬間は、それは美しいものだったそうです。
もうすぐ夜を迎え一日を終えるまでの、たった一瞬の、美しい時間。夕暮れ。
私は太陽を見たことがありませんが、この街の名前には夕暮れがふさわしいと思いました。
私は、シミュレーションの中で、お父さん、池田さん、山浦さんと話し、ようやく人間を形成するものが何かと言う答えを 見つけました。
今にして思えば、当然の帰結でした。
一人の人間の『形』を作るのは、その人の親か? おそらくそうじゃ ない。
その人の周りにいた人が、その人の形を作るのか? おそらく そうじゃない。
『言葉』はどうだろうか?
その人が残した言葉、その言葉に影響を受けて、返す波のように人々が言葉を掛け合う。
そうしてできた『記録』こそが、その人の形なのではない だろうか?
宗教と、芸術は、『言葉』 だ。 あるのは音の違いだけだ。
飢餓と、飽食は、『言葉』 だ。 区別できるのは音の違いだけだ。
天国と、地獄は、『言葉』 だ。 あるのは音の違いだけだ。
名作と、駄作は、『言葉』 だ。 音の差しかそこにはないのだ。
坂上家と池田家は『言葉』 だ。 あるのは音の違いだけだ。
私の言葉はここで途切れるが 私という形を残すために最期に、
長い長い氷河期を終えたのちに、 誰かがこのノートを拾ってくれると信じて、そして……
手にとってくれた人のために私は この言葉を言うのだ。
宗教も芸術も血筋もない。 一人の言葉の担い手として。つまり……
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(何かの切れ端には、以下の言葉だけが残っていた)
最初に、言葉があった。
■■ 与羽
夕暮れ街の三百年。了