30.M⑬.大地の背中の火傷
加藤緑は海の家の影に隠れて、友人代表スピーチの練習をしている太陽の後ろ姿を見つめていた。
15年間の思い出が、頭の中を一気に駆け巡る。
緑もお多福風邪のことはよく覚えていた。
羽賀太陽と一緒だったから、辛くなかったし、今ではいい思い出になっている。
だからこそ、何も知らない太陽を見ていると辛い。
素直な太陽を騙している自分が許せなくなる。
耐えきれなくなった緑は、ハンカチで涙を拭いながら、海と反対方向に歩き出した。
そこへ、太陽の締めの言葉が追いかけてくる。
「だから、だから、ぼくたちはずっと親友だよー」
立ち止まった緑の中で、振り向きたい心と、振り向いてはいけないと怒鳴る頭が、葛藤していた。
振り向いたら辛くなるだけだとわかっている。
それでも、やはり自分は子どもだと言い訳して、振り向いてしまった。
太陽は膝まで海の中に入り、 顔を洗っていた。
昨日の記憶が甦る。
土砂降りの中、太陽が南部宅に駆けつけ、南部大地に自分の居場所を教えて欲しいと頼んだとき、 緑は偶然にも廊下にいた。
つまり、太陽と大地の会話が丸聞こえだったのだ。
話の内容が自分のことだけに、出ていくわけにもいかず、 結果的に盗み聞きしたことになる。
自分を心配してくれる太陽の気持ちを知り、嬉しくないはずがない。
しかし、それが自分の人生を、命を危険にさらすかもしれないとなると、喜んでばかりはいられない。
しかも、太陽の人生と命をもかかっているとなれば、尚更だ。
喜びと不安、その両方の葛藤による苦痛は、緑自身にも計り知れないほどだった。
そのとき、そうか、と緑は理解した。
だから、大地はわざと玄関のドアを開けたままにしていたのだろう。
大地は、太陽の長所である素直さを、緑自身の弱点にしてしまったのだ。
藤堂の陰謀は着々と進んでいると認めざるを得ない。
そして、 自分がその歯車の一部になっている。
いや、一部ではない。
最前線で太陽を苦しめる材料にされてしまった。
太陽の素直さを守りたいからこそ、新井聡との婚約を承諾したはずだった。
なのに、自分の真意など、育成ゲームという大きな陰謀に飲み込まれ、 簡単に粉砕されてしまった。
よりによって、太陽の素直さを利用するなんてあってはいけないことだ。
それだけは許せない。
そう思った緑は、大地に直談判することを決めた。
いざ、緑が大地の部屋のドアをノックしようと手を伸ばしかけた瞬間、誰かの話し声が聞こえてきた。
「 はい。計画は順調に進んでいます」
大地の声だ、と気づく。
ということは、相手は藤堂CEOに違いない。
あぁ、電話で話しているのかと思ったとき、突然ドアが開いた。
驚いた緑の目前に現れたのは、梓だった。
「立ち聞き? 上品ね」
梓の嫌味はやけに板についている、そんな印象を受けた。
少なくとも太陽に対するアイドルのような立ち振る舞いとは別人だ。
でも、今はそんなこと、どうでもいい。
部屋に入った緑は梓に目もくれず、一直線に大地の前まで進む。
「太陽に何をするつもりなの?」
薄笑いを浮かべた大地が、ふん、と鼻先で笑った。
「いい思いをさせてやろうっていうのさ」
「 恥ずかしくないの? 太陽はあんたを本当の親友だって信じているのよ」
「親友ねぇ? ま、信じる者は救われるって言うからな」
大地は再び鼻先で笑った。
太陽までバカにされたようで、 緑は黙っていられない。
「あたし、あんたを絶対許さない」
大地に詰め寄ろうとする緑の目前に、梓が立ちはだかった。
まるで、対戦相手は自分だと主張するように。
「あんた、誰に向かってそんな口の利き方をしていると思っているの? 大地はね……」
梓の腕を握り、話を遮ったのは大地だった。
「お前は黙ってろ」
梓は露骨にムッとした。
生意気な緑に言ってやりたいことは山ほどあるのに、どうして止めるのよ。
そんなところだろう。
一方、 緑に向き直った大地が三度目、鼻先で笑う。
緑は気づいた。
癖にしても、 今日はやけに多い、と。
「 じゃ、緑、お前はどうなんだ?」
はっとした緑は、反論する言葉を失った。
大地の意図するところはわかっている。
嫌というほど骨身にも染みている。
「ま、 同じ裏切り者同士、 仲良くやりましょうや」
「 あんたって最低!」
そう怒鳴ったあと、緑は、あたしも最低、と心の中で呟いた。
自分も太陽を裏切っているのだから。
いたたまれず、踵を返した緑が、ドアに向かい歩き出した、ちょうどそのときだった。
突然、
「やめてー」
梓の叫び声に驚いて、緑は思わず振り返った。
そこには上半身裸になった大地の後ろ姿が立っていた。
慌てて上着を着せようとする梓の手を拒んだ大地が、後ろ向きのまま話しかける。
「この傷、覚えているか?」
大地の背中には、火の跡が大きな虫のように這っている。
「7歳の時、 あんたが転んだ拍子に、やかんをひっくり返してできた火傷でしょ」
振り向いた大地は、 ニヤけた表情をしていた。
どこか、人を、 世の中を小馬鹿にしたような表情が、誰かに似ていると考えていた緑は、やっと思い当たった。
藤堂CEOだ。
「お前、見たのか?」
「だって、大地が自分でそう言ったんじゃない」
「この家にやかんはなかった。 アイロンはあったけどな」
「……どういうこと……?」
そのとき、だった。
「もう嫌ぁぁぁ……」
梓の泣き叫ぶ声が響き渡った。