29.T⑪.友人代表スピーチの練習
結局、羽賀太陽は南部大地に何も反論できないまま、家に帰ってきた。
ずぶ濡れの状態で階段を上っている途中、奥のリビングから歩いてくるふたつの足音が、 ピタッと止まった。
「太陽、大ちゃんの家に行ったんだって?」
母の呼びかけに、太陽は階段の途中で立ち止まったものの、 振り向くことができなかった。
「緑が心配だったから」
太陽は後ろ姿のまま呟いた。
「俺たちはお前に幸せになってほしいと、そのことだけを願っている。そのためなら、緑ちゃんの幸せだってぶち壊す。だから、太陽、教えてくれ。それが本当にお前の幸せなのか?」
そんな、と太陽は思わず父を振り返った。
唇が一瞬開くが、すぐにまた閉じた。
もちろん、緑の幸せをぶち壊したいなんて、そんなつもりなどありえない。
しかし、結果的にせよ、そうなるのかと思うと、愚かな自分が許せなかった。
「太陽、お父さんは本気よ。あなたのためなら、緑ちゃんの幸せだって壊す覚悟はできているの。だから、ちゃんと答えて」
反論できるはずもなく、両親を見つめる太陽のクリクリ瞳から、涙が一気に溢れだす。
「違う違う違う……ぼくは緑に幸せになってほしいだけなんだ」
太陽の真剣な眼差しに、父は満足そうな笑顔を返す。
「信じていたよ。お前なら、わかってくれるって」
「さ、お風呂に入りなさい。 風邪ひくわよ」
母も存在感を示す。
まるで幼な子のように泣きじゃくる太陽を、涙ぐんだ母が抱き締めた。
翌朝、太陽が向かったのは、砂浜だった。
緑が、ずっと一緒にいると約束してくれたあの場所である。
夏盛りだというのに、誰もいない。
不思議に思いながらも、太陽にとっては好都合だから良しとする。
海に向かって立った太陽は、 ひとつ大きな深呼吸をしたあと、 精一杯の笑顔を作った。
「ただいま紹介に預かりました、羽賀太陽です」
それは、結婚披露宴の友人代表スピーチの練習だった。
「あれは5歳の時でした。ぼくがお多福風邪にかかって寝込んでいると、うつるからダメだって言ったのに、緑さんが看病してくれて……」
10年前の記憶が鮮明に甦り、思わず懐かしさに声が詰まってしまった。
「でも、やはりうつってしまって、二人で布団を並べて寝込む羽目になりました。お互いの腫れ上がった頬を見ながら、ぼくたちは笑い転げました。でも、笑うとたまらなく痛いんですね、これが。イタタタタと痛がるお互いの顔がまたおかしくて、二人して涙を流しながら笑い続けました」
ここまで話したところで、 太陽は苦笑した。
そして、ひと息つき、呼吸を整えたあと、 再び話し始める。
「何が言いたいかというと、緑は、あ、ごめんなさい。緑さんはとても優しい人です。それはぼくが保証します。だから、お二人はきっと幸せな家庭を築くと思います。ぼくなんかが信じたって仕方ないですよね、エヘヘヘヘ……」
太陽は頭をかきながら、鼻をすすった。
両手で作ったメガホンを口元に当てた太陽は、最後の締めに入る。
「だから、だから……」




