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陽さんが言った通り、勝手口のドアは施錠してあった。ドアノブにぶら下げてあった古風な鍵を前嶋さんが鍵穴に挿し、もどかしく開ける。僕たちは庭に飛び出した。夏の薄闇の中に老女、その背後から口を塞ぐフード姿の男の姿が見えた。
「おい、そこで何をしている!」
前嶋さんの一喝に男は老女を放して身を翻す。一目散に駆け出した。
よろけて地面に倒れた老女が叫んだ。
「秋斗さん!」
弁護士は逃げる男の後姿を凝視した。顔を強張らせる。
「秋斗さんだって? まさか、そんな――」
次の瞬間、前嶋さんが男を追って猛烈な勢いで走り出す。僕も続いた。
「待て! 待つんだ……!」
男は邸の表側……煉瓦塀の端……生い茂った茂みの奥の低い木戸を抜けて外へ飛び出した。僕たちもそこを摺り抜ける。
先を行く男を僕たちは懸命に追った。フード付きの黒い上下はトレーニングウェアに見える。これが人通りの多い街の道なら目撃者がいて、あっちへ行った、向こうだ、などと指示してもらえたろう。だが、閑静な郊外の土地ゆえ人影は無く、夏の濃い闇が遠ざかる男の後姿を包んで、僕たちはあっという間に男を見失ってしまった。
「どっちだ? 何処へ行ったんだ?」
無念そうに立ち尽くす弁護士。
「くそっ、もう少しだったのに……」
「仕方がない。邸へ引き返しましょう」
促す僕に、よほど諦めきれないと見えて前嶋さんは歯を食いしばって闇を睨み続けている。
「それにしても、足、速いですね、前嶋さん」
落胆する弁護士へのお世辞ではない。かく言う僕も駆けっこにはそれなりに自信がある。そんな僕よりもスーツ姿の前嶋さんの方が遥かに速かった!
「まぁ、学生時代サッカーをやってたから」
ようやく表情が和らいだ。
「あ、そうなんだ! ポジションはどこです?」
「リベロさ。〈和製皇帝〉ってチームメイトに呼ばれていい気になってた時期もあったっけ」
謙遜の美を思い出したのか、ここまで言って若い弁護士は頬を染めて言葉を濁した。
「忘れてください。古い話です」
邸へ戻ると、中年の婦人が駆け寄って来て頭を下げた。
「この度はまた、母がご面倒をおかけして申し訳ありませんでした」
先日、邸の前で会ったあの婦人だった。
「ちょっと目を離したすきに家から出てったみたいで……家族総出で探し回っていたんですが、まさかお邸に入り込んでいたなんて。本当になんとお詫び申していいか……」
その母は――と視線を走らせると、今、庭の真ん中で朝野姉妹や来海サンに囲まれ、セレストを胸に抱いてニコニコ笑っている。
「大きくなって! こんなに綺麗なリボンを巻いてもらって、良かったねぇ、ユキ! ね、言った通りだろう? 奥様も坊ちゃんたちも、皆、お優しい方だって。おまえは本当に幸せ者だよ、ユキ!」
上機嫌の母親と裏腹に娘さんは恐縮して言う。
「他人様の敷地に勝手に入るなんて、こんなこと初めてなんです。あの、これ、不法侵入ですよね? 警察沙汰になりますよね?」
老女と彼女を取り巻く女性陣を見つめながら前島さんは微笑んで首を振った。
「大丈夫、罪になんかなりません。それよりお母様のお怪我の具合は?」
「怪我はしていません。それに、自分が何をしたか、何があったかなんてもうとっくに忘れているはず。認知症で、記憶があやふやなんです。あの猫だって、自分が何十年も前に雨貝さんの奥様にさしあげた猫だと思ってるんですから」
「そうですか、お怪我がなくて良かった! お母様も落ち着かれたみたいですし、どうぞ、お家へ連れて帰ってあげてください」
「いいんですか、このまま帰って? ありがとうございます。これからは気をつけます。二度とこんな真似させません。約束します。さぁ、お母さん、帰るわよ」
幾度も頭を下げながら、母子は帰って行った。
ふと思い出して僕は陽さんに訊いた。
「そうだ、外で鳴いていた猫はどうなったんですか? 見つけましたか?」
「ううん」
お祖母さんの腕から戻って来た白猫を胸に抱いて陽さんが首を振る。隣りできまり悪げに苑さんが言った。
「というか、あれね、どうも私の勘違いだったらしいの。庭に猫は一匹もいなかったし、私たちが外へ走り出た時、一緒にセレストも飛び出したところを見ると――勝手口すぐ上の階段辺りでこの子が鳴いてたのを私が外からだと聞き間違えたみたい」
来海サンがポンと手を打ち鳴らした。
「セレストはきっと、いち早く侵入者に気づいたのよ。だから、鳴いて警告を発したに違いないわ。ほら、動物って、異変に敏感でその種の勘が鋭いっていうもの」
「なるほど」
その後、一応、警察を呼んで状況を報告した。認知症の老女には罪がないとはいえ、何者かが侵入したのは事実だ。
人相:ほとんど見えなかった。
年齢:わからない。脚力から推定して10代~30代?
背格好:175前後。
服装:フード付きのトレーニングウェアのような黒い上下。
以上、憶えている限りを伝える。
再びテーブルに戻った僕たちに朝野姉妹はもう一度美味しいお茶を淹れてくれた。
「早々に防犯カメラを設置して本当に良かった!」
「でも、あそこは気づかなかった。僕の落ち度です」
弁護士の言っているのは表側の煉瓦塀の端にあった低い木戸のことだ。お祖母さんと男はそこから入ったらしい。どちらが先だったかは、わからない。
「仕方ないわ。あの戸口、屈まないと通れないし、低い茂みの後ろにあってわかりにくい場所だもの。私や苑ちゃんもあんな出入り口があるなんて知らなかった。きっと、お祖母さんは昔の記憶が蘇ったのね」
「じゃあ男の方も、あの出入り口を知ってたってことかな?」
「でなければ、偶然見つけたか……」
「お祖母さん、『秋斗さん!』って叫んでたわよね?」
「秋斗さんって、それ、行方不明の雨貝家の次男さんの名前でしょう?」
「ええ」
前嶋さんは低い声で唸った。
「なんてことだ、今になって、帰って来た? でもまさか、そんなことが……」
雨貝秋斗氏については既に失踪して23年が経過している。また雨宮家の当主本人の遺言状もあり、今更出頭した処で、この邸が朝野姉妹のものであることに何ら変わりはない。とはいえ、人情として、スッキリしないものが残る。
思わず無口になった一同。その雰囲気に気づいてことさら明るい声で前嶋さんは言った。
「今夜の人物が何者にしろ、今後はより一層、警察が邸周辺のパトロールを強化してくれるでしょう。まさに『大きな災難には小さな幸福がついて来る』これですよ!」
「ローラ・インガルスね? 〈大草原の小さな家〉の中の名言だわ」
「あ、よくお解りで」
「フフ、陽ねぇは大の読書家なのよ!」
「そうなんですか? 僕も一番の趣味は読書です。二番目は筋トレ」
「では、仕切り直しを!」
僕は立ち上がった。
「今度こそ、先刻中断した謎の手紙の2通目〈熊と焚火〉と3通目〈シャレコウベとミイラ〉の絵から僕が読み取ったことを説明します」




