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「あの邸は1933(昭和8年)にあなた方の曽祖父に当たる雨貝季一郎(あめがいきいちろう)氏によって建てられました。季一郎氏は1902(明治35年)の生まれです。元々資産家だった季一郎氏は欧州の大学で学び、ドイツ文学・評論・翻訳家として名を残しました。東京外国語学校/学習院/一橋大学等教授を歴任。各種新聞社主催の賞や翻訳文学賞にも輝いています。その息子であなた方の祖父、雨貝季教(あめがいすえのり)氏は1943(昭和18年)生まれ、1972(昭和47年)29歳で邸を受け継ぎました。その際、邸内の水回りや台所等に手を入れて新しくしています。翌年の1973(昭和48年)、左藤芙美(さとうふみ)さんと結婚。芙美さんは1953(昭和28年)生なので氏とは10歳違いですね。1974(昭和49年)長男冬悟(とうご)氏、1975(昭和50年)次男秋斗(あきと)氏、1977(昭和52年)三男春揮(はるき)氏誕生……

 冬悟氏が1996(平成8年)22歳の時、趣味のバイクで事故死しました。元々心臓が悪かった母親の芙美さんがショックから後を追うように亡くなり、その同じ年にあなた方のお父さん春揮氏が家を出て独立……」

「独立っていうか、駆け落ちしたんですよね?」と姉。妹が頬を膨らませる。

「それで勘当された!」

「いえ、現代の日本では法律上〈勘当〉という手続きは存在しません。誰でも結婚して婚姻届けを提出すると親の戸籍から抜けるのですが春揮氏はその際、妻――あなた方のお母さんの姓を選択しました。とはいえ、その新しい戸籍にもそれぞれの父母の名は載ります。ですから、あなた方については、捜すのは容易でした。その後、春揮氏に続いて秋斗氏が失踪。秋斗氏は現在まで消息は不明です」

「長男が事故死、妻が急逝、末子が駆け落ち、最後に次男が失踪して行方知れず……同じ年にそんな不幸が続けざまに起きるなんて……お祖父様、お可哀想」

 涙目の妹にうなづき返してから姉は再び弁護士に質問した。

「お祖父様はそれからずっとあの広いお邸に独りぼっちでお暮しだったの?」

「ええ、その様ですね。俗に言う隠遁生活というか――ここ数年は派遣会社のヘルパーさんと契約されていて、邸内で倒れているのを見つけ救急車を呼んだのもこのヘルパーさんでした」

 弁護士はネクタイの結び目に手をやった。

「僕が弁護士になる際、大変お世話になった恩師は数年前勇退しましたが、TVなどでも活躍した著名な弁護士でした。実はその方が雨貝氏の大学時代からの友人で、その方の紹介で今回の件は僕が担当することになりました。僕としてはもっと早く会っていればと悔やまれてなりません。病室で数回お会いしただけで、あまりお話を伺えないまま雨貝氏はお亡くなりになってしまいました」

 弁護士は小さく首を振ってファイルを閉じた。

「以上――こんなところですね」

 ゆっくりと顔を上げる。

「それでは、僕から今日これからの予定について提案させていただきます――」

 ここでいきなりドアが開く。

一星(いっせい)クン! 差し入れよ!」

「お母さんっ」

 弁護士が立ち上がった。顔が真っ赤に染まっている。

「か、勝手に入ってもらっちゃ困るじゃないか! 今、大切な話の最中なんだから」

「まぁ、ごめんなさい! どうしましょう――でも、だって、お客様がいるなんて思いもしなかった、ほら、ここ、いつも空っぽじゃない、だから、私」

「いいから、出てってくれ!」

 母と呼んだ小柄な女性を必死でドアの向こうへ押し出す前嶋一星氏。

「失礼しました!」

「いいじゃない、お母様なの? 凄くお優しそう」

「ほんと、可愛らしい方ね! やだ、そんなに気にしないでよ、前嶋さん」

 フォローする姉妹の声など耳に入らない様子。若い弁護士は汗びっしょりだ。

 冷静沈着、一分の隙もないさっきまでより、はるかに人間的で僕は一層彼に好感を持ったのだが。

「えーと、何の話をしていたんだっけ、そ、そう、今後の予定ですが――」

 ハンカチで額を拭いながら早口で言う。

「朝野さんお二人は僕が付き添いますのですぐにお邸の管轄の警察署へ出向いて、直接、手紙の件を相談することにしましょう」

「そうだ、よろしかったら、その後で雨貝家の墓所も教えてくださいませんか?」

「私たち、お祖父様やお祖母様や息子さん……ご家族のお墓参りをしたいんです」

「了解しました」

 ここで僕と来海サンは立ち上がった。

「それでは、僕たちはこれで失礼します」

 警察や家族のプライベートな件に関しては僕たちが関わる必要はない。


 事務室を退出すると待合室のソファにさっきの女性がちょこんと座っていた。小鳥のように飛び上がって深々とお辞儀をする。フワフワの巻き毛が肩先で揺れている。

「先ほどは大変失礼しました。どうかお許しください」

「前嶋弁護士さんのお母様ですね、すぐわかりました」

 しょげかえっている小柄な婦人に明るい声で話しかけたのは来海サンだ。

「だって、そっくりですもの、お写真と」

「え?」

「前嶋さんのデスク横の棚に飾ってありました。とっても素敵な写真で思わず見入ってしまったんです」

「あ、私もよ! なんて仲の良い素敵なご家族だろうと思いました」

 ここで、僕たちに続いて事務室から出て来た朝野姉妹が加わる。

「ほんと! 幸せを絵にかいたような三人――幼い前嶋さんとお父様、お揃いのシャツを着てますよね!」

「タータンチェックのあれ、ブラックウォッチっていう柄でしょ? とっても似合ってる!」

「そこまでお気づきですか? ありがとうございます。あれは私の手作りなんです。私が縫いました」

「えー、ウソ、お手製なの? 凄い!」

 恐るべき女性陣の観察眼。僕も家族写真だとは気づいたが着ている布地の模様にまでは、正直、目が行かなかった。

「お母様、服飾関係のお仕事なさってるんですか?」

「いえ、あの時はまだ趣味の段階で……でも、若い時からお洋服作りが大好きだったの。それで、今は私、お店を持ってるんです。こういう――」

 素早くバッグから名刺を取り出し、僕たち全員に配った。

〈ウェブ洋装店*十絵(とえ)のお針箱〉

 ネットのオンライン洋裁店だ。

「マンションの自室がアトリエです。でも、けっこう人気があってご贔屓にしてくださるファンも増えてるの。よろしかったら皆さんも検索して覗いてみてくださいね。今までに作った服の数々も掲載しています」

「お母さんっ!」

 よもや前島さんがこんなひきつった声を上げるとは……!

「僕の事務所で――そう言う真似は――やめてください!」

 直角に腰を曲げて、謝罪した。

「重ね重ね母がご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 それに対して、陽さん、苑さん、来海サン、一斉に、

「あら、全然迷惑じゃないわよ!」

「楽しみ! 後で必ず検索してみます!」

「私もです!」

 文字通り追い出すように、まず母親を、続いて僕と来海サン、朝野姉妹を外へ出し、最後に弁護士自身が出て事務所のドアを施錠した。

 エレベーターには女性たちを先に乗せる。この時に至っても前嶋さんがあまりにも動揺してるので気分を変える意味で僕は声を掛けた。

「鰐がお好きなんですね?」

 一瞬、ポカンとした顔から一転、弁護士は照れたように笑う。

「ああ、あの置物? そう、好きですね。何故かわからないけど物心ついた時から鰐好きで鰐グッズに囲まれてると幸せなんです。僕のラッキーアイテムです。今は、子供の頃約束した鰐が訪ねて来るのを楽しみにしているんです」

 今度ポカンとするのは僕だった。何かの比喩? はたまたジョークなのか? 出典がわからない。前嶋さんはしゃべり続ける。

「桑木さんは美大卒と聞きました。新装開業した僕の事務所に絵を飾りたいんですが、推薦の鰐の絵ってないですか?」

「え」

 鰐限定? それはハードルが高い。

「そうですね、たしか18世紀に描かれた〈長靴を履いた猫〉の挿絵で、猫が相談に行く魔法使いの部屋の天井に鰐が吊ってあったな。でも黒一色の線画で地味ですよ」

「鰐が吊るしてある?」

「ええ、当時西洋では知識人の書斎の天井に鰐を吊り下げるのが流行ってたんです。その絵もそのクチです」

 真心を込めて僕はアドバイスした。

「事務所に飾る絵ということなら、アントネッロ・ダ・メッシーナの〈聖ヒエロニスムの書斎〉なんかがいいんじゃないかな。原画はロンドンのナショナルギャラリー所蔵なんですが、お勧めです。1474年頃の作――現代人の眼にはイラスト風にも見え、のびやかで穏やかで心が落ち着く……僕が大好きな一枚です」

「その絵に鰐は描かれていますか?」

「いえ、鰐もライオンも描かれていません。孔雀は描かれているけど」

「そうですか……」

 露骨にがっかりした顏。どれだけ鰐押しなんだよ? とはいえ、彼が気分転換できたなら幸いだ。

 ここでエレベーターが戻って来た。

 賑やかな週末の町の通りに降りてから僕たちは皆と別れた。

 中区本通か。せっかくだから近くにある童話作家と同名の人気のレストランで、僕は石窯(いしがま)ハンバーグステーキ、来海サンはサーモンのムニエル・ハーブバターソース添え(ともに自家製ブレッド付き)のちょっと張り込んだ美味しい昼食を取り、画材屋に戻って、いよいよ二人して腰を据えて手紙の謎に取り組んだのである。



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