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そこは想像をはるかに超えた、物凄い、豪奢な大邸宅だった!
周囲を高い煉瓦の塀で囲んだ、アールデコ様式・鉄筋コンクリート総二階建て。
「ちなみにこの家、地域一帯では〈珊瑚樹邸〉と呼ばれています」
これを聞いて、相棒が目を輝かせて僕を振り返る。
「感激! これって、もろ、ホームズやアガサの世界じゃない?」
「うん、まさしく」
屋敷の名を冠したミステリは枚挙にいとまがない。ブナ屋敷、三破風館、黒死館、臨海楼、月淡荘……新しいところではホロヴィッツのカササギ亭……
「風変わりな味なら僕は孔雀屋敷を押すよ」
「私は夜鳴き鳥荘が好き! ねえ、フィルポッツもアガサもイチイの木がお気に入りよね?」
「イチイは果肉以外全部有毒だからさ」
「フフ……ここがどうして珊瑚樹邸って名がついたかっていうと、弁護士さんの話では屋敷の庭にその木がたくさん植えられているからだそうよ」
「ますます素敵!」
苑さんは、まず庭から先に案内してくれた。
邸を傭兵のごとく取り巻いた珊瑚樹は、今は真っ白な花を初夏の風に揺らしていた。
「この白い花の実が赤く色付くのは秋の頃ですって。たわわに実った赤い実は、さながら海の珊瑚みたいに見えるとか。ああ、今から楽しみだわ!」
頬を紅潮させて苑さんが微笑む。
「ね、こんな素敵な大邸宅をいきなり譲られるなんて、夢みたいでしょ?」
僕らは勝手口から入った。裏階段を上り2階へ。自室の鍵を開けドアを開くや苑さんが叫んだ。
「あ、やっぱり今日もだ――ほら、見てください!」
真正面に大きな窓がある。その窓からやや離した位置、ドアから見て左側の壁に横向きにベッドは置かれている。
駆け寄って苑さんが指差したそのベッドの表面には、確かにヒトあるいはそれ以外の何かが寝たような痕跡が残っていた。部屋の中にサッと視線を巡らした後で僕は来海サンを傍らに呼んで小声で言った。
「僕は男だから支障がある、君、確認してくれないか?」
「OK」
察しの好い我が相棒はニッコリと微笑んで即座にベッドの下を覗く。
ほとんど同時に廊下から大声が響いた。
「あなたたちは誰? 妹の部屋で何をしてるの!」
「あ、陽ねぇ、帰ってたの?」
小走りで部屋に入って来た人物を苑さんが紹介してくれた。
「姉の朝野陽です。陽ねぇ、こちら画材屋さんの桑木新さんと相棒の城下来海さん」
「画材屋さんがどうしてここに? 部屋に似合う壁紙を選定してくれてるとか?」
「そうじゃなくて――桑木画材屋さんは探偵業もしてるの。謎を解いてくれるっていうのでお願いしたのよ」
姉、陽さんの顔が強張った。
「謎って、いったい何の?」
「心配させたくなくてこの件は陽ねぇに話すより先に画材屋探偵さんに調べてもらおうと思ったの。実はね、私の部屋でここ数日ちょっと変なこと――怪異現象が起こってるの」
「怪異……」
「うん、私の不在中にね、何かが私のベッドに寝てるの。その痕がハッキリと残ってるのよ」
「そんな馬鹿な」
真っ青になる姉。この時、来海さんが僕の側に戻った。小さくOKサインを出すのを見て僕は一同に告げた。
「一応、調査は終わりました」
耳元で僕にしか聞こえない声で来海サンが囁く。
(あったわ)
(そうか、やっぱりな)
思いのほか簡単だったな! 後はこの結果をどう説明するかだ。
「兎に角、一階の台所へ戻りませんか?」
こう提案したのは姉の陽さんだった。気丈にピンと背を伸ばして言った。
「お茶をお出しします。詳しいお話はそこで」
「素敵!」
またしても感嘆の声を上げた来海サン。その言葉通り、そこは素晴らしい場所だった。
「褒めてくださってありがとうございます」
先に立って僕たちを招き入れた陽さんの蒼ざめていた頬がポッと薔薇色に染まる。
「ご覧の通りこの台所は旧式で設備などはかなり扱いにくいんですが……弁護士さんの話だと建物自体は昭和初期にお祖父様の父に当たる方がお建てになったそうです。お祖父様が後を継いだ際、水周りや台所は新しくしたらしいんですが、それからだってもう50年は経っていますから」
「素晴らしいです、憧れちゃいます。レトロなところは勿論、置かれているこのテーブルと椅子……雰囲気がピッタリで絵になってます!」
「あ、これは、私たちの父と母の唯一の婚礼家具なんです」
苑さんも声を弾ませた。
「ずっと暮らした狭いアパートではこれだけで台所ギュウギュウでした。でもこのテーブルセットが私たち家族の1番の居場所――世界1居心地の良い場所だったんです」
出してもらったお茶とパイがまた最高だった!
「流石、パテシェ!」
「凄く美味しいです!」
調査報告も忘れて齧り付く♪僕ら食いしん坊画材屋探偵団。
「あ、それは私じゃなく姉が作ったの。パイ作りでは未だに陽ねぇには勝てないのよ。私の得意分野はケーキです。言い忘れたけど、姉は調理師の免許も持ってます。姉のタンシチューを食べたらぽっぺたが落ちるわよ」
「タンシチューは父親仕込みなんです。父はずっと料理人として働いて私たちを養ってくれました」
姉妹は顔を見合わせた。目がキラキラ輝いている。こうして眺めると二人はとてもよく似ていた。違うのは髪型だけ。妹がボーイッシュなショート、姉は腰までの長い髪をうなじで束ねている。
「私たち、いつか姉妹でレストランを開くのが夢なんです。速攻でこのお屋敷に移って来たのはそれもあって――ゆくゆくはここでオーベルジュを開業したいなって思ってます」
そこまで言って思い出したように苑さん、
「そうだ、調査結果を聞かなきゃ。さっき、終了したって言いましたよね?」
僕はカップのお茶を一口飲んだ。それから、ゆっくりと切り出した。
「お二人は読書がお好きですか?」
場違いなこの問いに一瞬、面食らった顔でまず苑さんが答える。
「私はあんまり。でも、陽ねぇは本の虫よ。司書の資格を取るか、調理師免許か、迷ったほどですもの」
僕は姉、朝野陽さんに視線を向けた。真横で来海サンが膝の上で両手をギュッと握る。
「依頼された今回の件は怪異ではありませんでした。コナン・ドイル作ホームズシリーズの傑作〈まだらの紐〉をご存知ですか?」
姉が「もちろん」
妹も「それなら、私も読んだわ!」
「まさにそれです。隙間から隣室へ蛇を放ってベッドの上へ落とす」
僕は一気に言い切った。
「相棒の来海サンが確認しました。普段は塞がれているのですが、ベッドの下に開閉できる小さな穴(通気口?)があるんです。お二人は、何か飼っていらっしゃいますか?」
「陽ねぇが猫が好きでセレストって名の猫を――え? 待って、まさか……」
息を飲んだ後で苑さんは大袈裟に肩を揺らせて笑いだした。
「あー、なんだ、陽ねぇったら、私をからかってセレストを忍び込ませて面白がってたのかぁ! やだ! それを私が取り違えて大騒ぎしちゃったんだ! ほんと、冗談の通じない、私が馬鹿! ごめーん、陽ねぇ」
「謝る必要はないわ、苑」
陽さんは顎を上げ、言った
「私が意図的にやったのよ。あなたを怖がらせようと」
「え? 怖がらせるって――何故?」
「あなたをここから追い出したかったからよ」
沈黙。
しばらくして妹がかすれた声で言った。
「うそ……陽ねぇがそんなこと考えるはずがない。私たちずっと大の仲良しだったじゃない。だから、これは姉さんのジョークよね? その悪戯を勘違いした私のせいよ。ゴメンナサイ! そうなの、私ってば、いつも早とちりで軽はずみなことばかりやらかして」
これはやばいぞ。絵のような台所は一瞬にして険悪な様相を呈して来た。この場をどう切り抜かるか、必死に考え始める僕。こんなことになるなら、むしろ怪奇現象だった方が良かった?
「謝る必要はないわ、苑ちゃん、あなたはいいことをした――」
キリリと眉を上げて陽さんは、いたたまれない思いで座っている僕と来海サンを振り返った。
「こんな風にあっさりと謎を解いてくれる人たちを見つけて、連れて来てくれたんだもの」
「え」
「画材屋なのか探偵なのか知りませんが、私が妹をこの屋敷から遠ざけようとした理由をお話します」
祈るように胸の前で両手の指を絡み合わせて僕たちを見つめる。
「独りで途方に暮れていたんです。怖くて、不安で、でも、妹だけは守りたかった! どうか、助けてください! 私が直面している〈本当の謎〉を解いて、真実の〈正しい答え〉をお教えください。私と妹のために……!」
話が妙な方向へ転がり始めた――
偽りの怪異? だが、これは序章に過ぎなかった。
☆オーベルジュ:宿泊設備付きレストラン