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寝袋持参というのは実に賢明な提案だった。僕と前島弁護士は台所兼居間の、掃除の行き届いた隣室で爆睡したし、来海サンは姉妹といっしょに(僕ら以上に)快適な一夜を過ごした。翌日、フルーツ添えパンケーキの朝食まで御馳走になって僕たちは余裕を持って市内に戻ることが出来た。
朝野姉妹が桑木画材屋にやって来たのは不法侵入騒動と絵の解読披露から三日後のことだった。
ちょうど学校帰りの来海さんもいる午後5時過ぎ。画材屋入口から賑やかなさざめきが聞こえて来る――
「……ここが、苑ちゃんが見つけた探偵さんたちの棲家なのね? なるほど、とっても素敵なお店ね!」
「でしょ? でも、あの日はどんなにドキドキしてこのドアを押し開けたことか……!」
思えば、姉の陽さんは初めての来店だった。
「あ、いらっしゃいませ!」
「いらっしゃいませ!」
「突然、ごめんなさい」
まず陽さんが畏まった様子で膝に手を重ねて挨拶する。
「今日はお二人にお伝えしたいことがあってやってきました。まず一つめが――」
スマホを取り出して写真を掲示した。
「昨日、4通目の手紙が届いたんです。これがそれです」
〈薬(カプセル?)、象と宝石〉
「新しい絵柄ですね?」
「はい」
うなずいて陽さんは続ける。
「電話や転送ではなく、こうして私たち自身が出向いて来たのには理由があります。直接、お伝えしたいことがあるんです」
いったん妹と顔を見合わせてから、
「私たち、決心したんです。一昨日、桑木さんが解読なさった絵柄の答え〈ザンクト・ガレン修道院図書館〉へ行ってこようと思います」
「え?」
「わかっています。私たちがそこへ行ったところで何かが変わるわけじゃない、真相が突き止められるわけでもない、もう少し腰を据えてこの新しい絵柄や更なる侵入者からのリアクションを待つべきだって。でも、どうしてもじっとしていられないんです。少し早い夏期休暇としてそれぞれの勤め先にはOKをもらいました」
妹、苑さんが言葉を継いだ。
「ぜひともその場所をこの目で見てみたいの! 私たちの決心は変わりません。あ、どれだけ本気かと言うと――実は今朝、広畑さん――例の庭に入り込んだお祖母さんのお名前よ。その娘さんが菓子折りを持って改めて謝罪にいらっしゃったの。お祖母さんね、うちのセレストが凄く気に入って、その話ばかりしてるって。それで私たち、ザンクト・ガレン行きで留守の間、セレストを預かってもらうことにしたの。広畑さんも、お祖母さんが喜ぶと言って快諾してくださったわ」
再び姉。
「それでですね、この旅にぜひ、お二人も同行していただきたいんです。もちろん、費用はこちらで全額負担します」
「ち、ちょっと待ってください、流石にそれは――」
驚く僕を遮る陽さん。
「既に話しましたが、私たち『将来、姉妹でお店を持つ』というのが夢でした。その夢の実現を目指して、私はしっかり貯金して来ました。ところが、最も資金が必要な土地と建物が祖父の遺産としてあっさりと手に入ったんです。ですから、お二人の渡航費用なんて安いものです。充分に出せます」
「いや、いや、いや、流石にその申し出は受けられません。僕たちが本物の探偵ならいざ知らず、こちらはあくまでもお遊びのアマチュアですし」
姉妹は同時に同じ動作――胸の前で両手を組み合わせた。
「心からのお願いです。私たちは〈その場所へ行ってこの目で見る〉が目的ですが、でも、お二人なら――」
「実際、何か、手紙の主の意図――秘められた想いを読み解けるかもしれないわ! 手紙の絵柄から場所を特定したようにね」
「しかし……」
「QED!」
店内に響き渡る来海サンの声。
「陽さん、苑さん、ご要望、しかと承りました!」
「待て、来海サン――」
「但し、経費は私たちが自分で持つ、という条件で。私たちは自称探偵の名において、自らの謎解きの渇望を満たすため、ぜひともそこ、ザンクト・ガレン修道院図書館へ同行したいと思います。ねぇ、新さん?」
クルリと僕を振り返る。
「中途半端に謎の答えを提示してそのまま放置する、なんて我慢できないわよね?」
再び姉妹に向き直った。
「お金のことなら心配ありません。こちら、新さんはれっきとした画材屋の三代目店主。さほど繁盛していないとはいえ、例えば夏休みに恋人から海外旅行に行こうと誘われた時、その旅費が出せないほど、経営が破綻しているとは思えません。そうよね?」
「う」
「そして、私は――こう見えて私、しっかりした子で幼稚園の頃から親戚にもらったお年玉はキッチリと貯金して来ました。小学高学年以降は、趣味の悪い兄からのバースディプレゼントは〈物〉ではなく〈現金〉に代えてもらっています。それで足りない分は兄に前借りすればいいだけの話。以上、QED!」
早速、兄の了解を得て来ると言って、画材屋を飛び出した来海サン。朝野姉妹には店で待ってもらうことにして、流石に僕は追いかけた。来海サンの自宅、城下印章店における兄妹の激突は、この際、割愛する。唯、名犬アルバートが間に入って最終的に納めた、とだけ記しておこう。
その後、僕たちは、この急遽決まった欧州旅行を4人揃って弁護士事務所へ報告に赴いた。
「ご姉妹と、桑木さん、城下さんがそう決心したのなら、僕としては反対する理由はありません」
ここで少々間が空いた。前嶋さんは視線を外し、チラリと棚の真鍮の鰐を見てから、
「それに正直なところ、ああいうこと――正体不明の人物の侵入事件があった後では、しばらくあの邸からご姉妹が離れるのはいいことだと、思うんです。留守の間、邸の方は毎日、僕が様子を見に行くことにしますので、どうぞご安心ください」
海外渡航に必須の諸々の手続き(パスポートの申請etc)を最速で終える。
ところで今回の欧州行きについて、僕は現在パリ在住の両親に連絡をしていない。事後報告にしようと決めた。余裕のない短い旅程の上、妙齢の女子3人連れというのが説明しづらいというか、勘繰られたくないというのがその理由。
こうして、意思が強く、決断力と実行力を兼ね揃えた3人の女性陣に導かれて僕は機上の人となった。一点集中3泊5日の弾丸スイス旅だ。
行くぞ、待ってろ、ザンクト・ガレン修道院図書館……!