前編
「エミリア・イスマイール、貴殿との婚約を破棄させて貰う」
そのように言い放ったのはわたしの婚約者、リカルド・アウグストであった。
彼はなんの感情も感慨も込めずにわたしを冷酷に切り捨てる。
その言葉を聞いたわたしはとてつもない喪失感を味わう。
リカルドとの婚約は政略結婚であった。親同士勝手に決めたものである。しかも両家の繁栄を願って結ばれたものではなく、アウグスト家がイスマイール家に服属を求めるために交わしたものであった。
エミリアはいわゆる人質というやつなのだ。
リカルドはセレス王国の第三王子であり、わたしは隣国マルタ王国の王女であった。
セレス王国とマルタ王国は数年前に戦争を行ったのだが、そのときにセレス王国は一方的な勝利を収めた。マルタの国はセレス王国に服従の意を示すため、イスマイール王家に〝人質〟を要求されたわけであるが、そのときに選ばれたのがわたしであった。
もしもマルタ王国がセレス王国に刃向かえばわたしは人質として死を賜るわけであるが、どうやらその日がやってきたようである。
わたしは唇を噛みしめると、婚約者に問うた。
「リカルド様、セレス王国とマルタ王国で戦争が起きたのですね」
「正解だ。先日、マルタ王国が我が国の砦を陥落させた。明確な条約違反だ」
「無知なわたしに政治のことは分かりません」
「戦争に良いも悪いもない。互いの既得権益の奪い合いだ」
この戦争はマルタ王国の奇襲から始まったが、セレス王国の手が清らかなわけではない。セレス王国はたびたび、マルタ王国の国境線を侵し、挑発を繰り返していた。さらにマルタ王国産の農産物に重税を課し、経済戦争を仕掛けていたのだ。マルタ王国が戦争を仕掛けるように仕向けたのである。要はわたしは嫁ぎ先であるこの国からも母国からも見捨てられたのだ。
「……婚約を破棄されるのは承知しました。わたしはどうなるのでしょうか?」
「しばらくは幽閉されるだろう。おまえは人質として扱われる」
「……はい」
元々、そのために嫁がされたのだ。不服はないというより、他に選択肢はなかった。
「もしも我がセレス王国が戦争を優位に進められれば見せしめのため、おまえは処刑されるだろう」
「……はい」
「万が一、おまえの所属するマルタ王国が戦争の主導権を握ればおまえを交渉材料として和睦となる」
「もしも戦争が膠着したら?」
「そのときは――」
リカルドは分からない、と首を横に振る。
「どちらにしろ、アウグスト家とイスマイール家の縁はこれで絶たれた。婚約を破棄することに変わりはない」
「…………」
沈黙するわたし。リカルドはそんなわたしに氷のような視線を送る。セレス王国にやってきて三年、その視線には馴れきっていた。
婚約者としてこの国に送られて三年、リカルドはわたしのことを空気のように扱った。
毎月のように催される王宮の夜会でも一緒には踊ってくれなかった。
月に二度、婚約者として茶会が開かれるが、そのときもリカルドは政務や軍務に掛かりきりでろくに会話もしなかった。
先月の誕生日、わたしが結婚できる年になってもなんのプレゼントもアプローチもなかった。ただ、彼のメイドが気を利かせて花束を事務的に贈ってきただけであった。
要はリカルドの中には恋愛感情も思慕の念もないわけである。
しかし、それはリカルドの中だけであった。
わたしはリカルドのことを愛していたのである。
黒曜石を溶かしたかのような黒髪と瞳、彫刻のように整った顔立ちに、軍人らしいしなやかで力強い肢体。彼の容姿は年頃の女性を魅了するに十分であった。
もちろん、内面にも惹かれていた。
彼はわたしに特別優しくしてくれたことはない。前述したとおりダンスさえも断られたが、それは他の令嬢も同じことであった。夜会でリカルドを狙うものはたくさんいたが、そのたびに彼は、
「俺には美しいフィアンセがいるのでな、遠慮しておこうか」
と断っていた。
今にして思えばわたしがいい〝虫除け〟になっていたのかもしれないが、それでもそのように断ってくれるのは嬉しかった。
それに一度だけ。たった一度だけ、リカルドはわたしの手を握ってくれたことがある。恒例の茶会の日、その日は珍しく政務に追われておらず、リカルドは乗馬に誘ってくれた。彼の操る馬の後ろに乗り、周囲を散策したのだ。
美しい湖畔にやってくると、ふたりはどちらかとなく手を握りしめた。
そのとき、リカルドもわたしも顔を真っ赤にさせたことを覚えている。
「…………」
しかし、もうあのときの気持ちは戻ってこないし、時間を遡ることは出来ない。
わたしは婚約を破棄され、王宮にある貴人専用の塔に幽閉されるのだ。
リカルドは名残惜しむことなく、兵士を呼んだ。
わたしは大人しく連行されるが、最後に最愛の婚約者にこのように声を掛けた。
「リカルド様、月に一度でいいです。一分でもいいのでわたしに逢いに来てください」
そのように叫ぶ。リカルドは眉ひとつ動かさなかったが、僅かに頷くと、わたしを見送った。
幽閉生活が始まる――。
わたしの母国マルタが勝てばこの幽閉生活は終わるが、小国であるマルタが大国セレスに勝つ可能性は低いだろう。
唯一の希望は戦争が膠着し、和睦に持ち込まれるときであるが、それも奇跡を願うに等しかった。
軍事大国セレスの勝利は疑いなかったが、問題はいつ勝利するかであった。
一ヶ月後か、二ヶ月後か、あるいは半年後か。
どんなに遅くても一年以内にはセレス勝利の報告がもたらされるだろう。そのときこそ見せしめによってわたしが処刑されるのだが、わたしは母国の奮戦を願った。
勝利をしてくれなどとはいわない。
ただ、一年間粘ってくれれば愛するリカルドと一二度も会えるのだ。それは死が定まったわたしにはなによりもの褒美であり、生きるよすがでもあった。
一ヶ月目、リカルドが現れる。
彼は鉄格子越しにチョコレートを差し入れてくれた。王都でも有名な菓子店のものでメイドが気を利かせて持たせてくれたことは明白であった。しかし、それでもリカルドから貰うとなると嬉しくて仕方ない。一二個入りなので毎日一粒ずつ食べ、そのたびにリカルドの顔を思い出すことにした。
二ヶ月目、リカルドがやってくる。
戦争はセレス王国が優位なようだ。開戦当初に奪われた砦は奪還され、戦線は国境沿いまで後退したとのことであった。ちなみにわたしの身柄と引き換えに国土の三分の一を要求したが、なんの返答もなかったとのことであった。
三ヶ月目、リカルドは野に咲く花を持って現れる。
戦場から戻ってくる際に摘んだそうだ。植物図鑑にも載っていないような名もなき花であったが、とても綺麗であった。幽閉生活の気鬱が少し慰められた。
四ヶ月目、リカルドの表情が思わしくない。
戦争によって大切な部下を失ったらしい。幼い頃からともに武芸に励んだ幼なじみであったそうだ。リカルドは珍しく悲しみを表情に出していた。わたしは彼の背中を抱きしめ、慰めてあげたかったが、鉄格子越しではどうにもならなかった。
五ヶ月目、リカルドの表情はさらに思わしくなかった。
セレス王国がマルタ王国との会戦に勝利したとのことだった。セレスはマルタに決定的な痛打を与えたのだ。その余勢を駆ってセレス王国はマルタ王国の中心部まで軍を進め、王都を包囲しつつあるらしい。――つまり、勝利目前ということであった。
「……それではもうじきわたしは処刑されるのですね」
「そうなるな。すまない」
「いえ、気になさらないでください。戦乱の世に王家に生まれ落ちたものの宿命でございます。ただ、ひとつだけお願いがあるのですが」
「なんだ」
「わたしの処刑、リカルド様が行ってください」
「…………」
「ご存じないかもしれませんが、わたしはリカルド様のことを愛しているのです。最後は愛するものの手に掛かって死にとうございます」
「……分かった。それでどのように死にたい」
「……できれば痛みを感じない方法で」
「それでは部下に毒を用意させよう。なるべく苦しまないで済むような毒を探させる」
「ありがとうございます」
両者、淡泊に事務的に会話を進める。この期に及んで命乞いをしたり、いやなことを引き延ばそうとしたりする気持ちは両者にはなかった。
六ヶ月後、リカルドは沈痛の面持ちでやってくる。その表情を見てわたしはすべてを察した。
「マルタ王国が陥落したのですね」
「ああ、そうだ。城下の盟を強いることに成功した。イスマイール家の人々は隣国に亡命し、国土を放棄した」
「セレス王国がマルタの新たな支配者となるのですね」
「イスマイール家は二度とマルタの地に足を踏み入れさせない」
「イスマイールの血を引くわたしも処刑されるということですね」
「そうだ」
端的に言い放つと、リカルドは二種類の薬を用意した。
ひとつは睡眠薬、もうひとつは毒薬。
睡眠薬を飲んだあとに毒薬を飲めば眠るようにあの世に行けるらしい。
「ありがとうございます。どこまでも配慮して頂いて」
「すまないな。今の俺にはこれくらいしかできない」
「分かっています。リカルド様は第三王子、この国の王や兄上に逆らうことはできないでしょう」
それどころか今日まで生かしてくれた上に月に一度逢ってくれるだけでも望外なことなのだ。婚約を破棄した敵国の娘としては最大限の配慮をして貰っていた。だからわたしはリカルドを恨む気持ちなど微塵もなかった。
鉄格子越しに渡された二種類の薬品を順番通りに飲み干す。
すぐに脳が麻痺し、急激な眠気がやってくる。
胸の奥が焼けるように痛み出すが、それと並行するように痛みが鈍化していくのも分かる。睡眠薬の効果だ。リカルドは動物や囚人を使って実験をしたと言っていたが、その配慮もとても嬉しかった。
わたしの意識は失われつつあるが、最後に吐血すると、指を伸ばした。鉄格子越しにリカルドの指先を求めた。リカルドはなんとも言えない表情でわたしと指を絡める。
わたしは指先に温かみを感じた。
あの日、初めて手を握った日のことを思い出しながら、死のときを迎えた。
こうしてマルタ王国の第二王女のエミリアは死んだ。
そしてわたしは転生をする。
次の人生もまた王女として生まれ落ち、なんの因果かリカルドの婚約者となる。