プロローグ
朝、目が覚める。知らない天井、知らない世界。天蓋付きの豪勢なベッドに寝転がる私は、上質な布質で着付けられたパジャマを身にまとっている。状況へ追いつかない思考が、パニックを誘発する。
「ここは…?」誰に向けるわけでもなく、純粋な不理解から言葉が漏れる。
当然、答えを返してくれる人は誰もいない。部屋はひたすらに広く、タンスと化粧用らしき鏡がぽつんと置かれている。ここまで広い部屋にこれだけというのも、どこか不気味さを感じさせられるが、その不気味さが一周回って私の冷静さを取り戻させたのかもしれない。あるいは、部屋に焚かれたアロマのおかげだろうか。空間はどこか中世的で、先進国たる日本の現代的生活空間とはとても思えないものがある。
這うようにしてベッドから降りると、無造作に置かれたスリッパへと足を差し込む。
「え?」思わず、声が出る。
足が、幼い。もしやと思い、自分の手を見る。
足に合わせたように幼い手。爪はきれいに整えられ、傷ひとつない美しさすら感じられる手。
鏡へ走る。スリッパなんて律儀に履いてなんかいられない。一歩が小さい。体重が軽い。
まさか。そう思った。まさか、まさかまさかまさかまさかまさかまさか——。
鏡に映るのは純然たる、一点の曇りもない美少女であった。
誰だよ、こいつ。鏡で自分の姿を見て、真っ先に考えたのはそんなことであった。
凛とした顔立ちに、白い肌。鋭い目つき。それを良いものとして際立たせる、気品ある金髪。誰がどう見ても美少女である。理想、という表現がまさに正しいような、そんな美少女。身長からして年齢は10歳前後ぐらいだろうか。胸は出ていないが、それ以前に基本の姿勢が然としているおかげで、それが短所でなく長所であるかのように錯覚させられる。幼さはあるものの、成長するにつれて、より美しく、より凛とした姿へと成長することだろう。
「私、めっちゃ美人じゃん…」鏡に向かって、またしても言葉がこぼれ落ちる。
…ん? 今、私、なんていった? 私、めっちゃ美人じゃん…って。わたし、めっちゃびじんじゃん。そう言ったよね?
——『私』って? 私の一人称は『俺』だったよね? あれ? どうなって…。
返事の帰ることのない問いかけで、少しだけ頭が回るようになってきたように思う。そこでようやく、私は思い出したのだ。
自分の記憶が、一切ないということを。
いや、記憶はある。ただ、それは自分の記憶ではないというか——。そう、きっとこれはこの少女の記憶なのだろう。なぜなら私には、『俺』であったという個別の確信がある。意識が、記憶が、まるで一つの大鍋の中で混ぜられているような、そんな感覚すら感じさせられる。気持ち悪い。本当に気持ち悪い。
自分が自分で無くなっていくような、それでいて『俺』が少女の片隅に残っているような、そんな感覚。
——あ、ダメだ。本能的なものだったのかもしれない。ただ、そう察した瞬間の自分は、覚悟を決めた。決めるほかなかった。これからくる地獄へ備えて、歯を食い縛る他なかったのである。
嗚咽。嘔吐。慟哭。生理的な嫌悪感。冷静な思考などできない。正しいものを正しいと感じれない。倫理が、理性が混ざり、溶けていく、絡まっていく。
鏡に先ほどまで写っていた美少女は、首を絞められて死んだ死体の如く醜い顔立ちへと変貌する。
「イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛」悲鳴のような、何か。吐瀉物を吐き出しながら、どうにかして理性を保とうと、脳が、『俺』が戦う無為の時間。永遠とも思えるその一瞬に、理不尽への忿怒すら掻き立てられる。
「あ゛っ゛あ゛っ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ゛あ゛あ゛っ゛あ゛」今、『私』と『俺』の記憶が、意識が、一つのものへと変化しようと蠢いている。
拒否権などなく、無慈悲に、運命を受け入れるほかない。自分が誰なのかわからない。『私』が『俺』に、『俺』が『私』に。
この瞬間——私は、俺は、自分が『コーデリア』であると、理解したのである。
お付きの侍女に、髪を結わせる。結わせながら、先日、自分に巻き起こった出来事を整頓していた。
実時間は何秒だったのか。体感時間でいえば丸一日ぐらいであったようにも思う。あの地獄にも似た苦しみの果てに、私は様々な自覚を得たのである。
大声のおかげで、侍女が部屋へ駆けつけてくれた。半狂乱でのたうちまわる姿を見て、ただ事ではないと察してくれたらしく、しばらく自室療養の時間を取らせてもらうことができた。
さて、あの半発狂で、自分が何者であるのか、私とはいったいなんなのかを知った。さて、自分の自覚を整理しよう。
結論から言うと、私はいわゆる『乙女ゲー』の世界へと転生を果たしていたらしい。混濁し、混ざり合う意識の中で、私は自分が何者であるのか、前提となる様々な知識を理解した。
私の名前は『コーデリア』。コデーリア・グレイスである。ギリッシュ王国の大貴族・公爵位を継ぐ領主・バーゼント・グレイス卿の娘が一人。上には年の離れた兄が一人、下には今年生まれる予定の弟がいる。
そしてテンプレ通り『悪役令嬢』の役割を与えられた、悲劇の少女。それが私。現在が9歳であるから、折り返し——つまりは、あと9年で私は殺される。断罪される。別段、私自身乙女ゲーというものの知識が特別他よりある、というわけでもないが、動画サイトで実況動画をいくつか見た程度の知識量だ。それでも、この乙女ゲーがどんな物語であったのかは覚えている。数ある作品の中でも、際立っていたからだ。
この乙女ゲーは、人が死ぬ。大勢死ぬ。時代背景は戦争真っ只中、策謀と暗殺が跋扈する、風雲の時代。グロ描写こそ際立ってはいないものの、コーデリアという少女は身近な人が殺された恨みから利己の怪物と成り果て、主人公に断罪されて死刑台へと送られるのである。
正直、同情の余地はあるように思う。親を殺され、友を殺され、兄が見捨てた。それがコーデリア。悲劇の少女。ただ、この少女のすることはよくある乙女ゲーのイジメとか、そんな生易しいものじゃない。コーデリアは作中、主人公の仲間を何人かその手で殺しているし、それを愉しんでいるような描写すら存在していた。公爵という立場を隠れ蓑に、復讐の牙を研ぎ続ける、そんな少女。それが18歳にして『悪女』たる、コーデリア・グレイスの生涯として、作品では描かれていた。
同情の余地はあっても、余地があるだけ。同情には値しない、そんな評価をプレイヤーが与えられるように、そう計算されたキャラクター。それが『俺』の見解であった。
今では『私』と『俺』は、完全な混合体になっている。なんというか、意識の中にコーデリアが住んでいて、それを『俺』が包み込んでいるような、そんな感覚だ。何がどう変化したかと言うと、仮に『俺』が他人から「バカ」と言われたとして何も感じないが、今の状態で「バカ」といわれると、コーデリアとして純粋に傷ついてしまう、といった感じである。
乙女ゲーの内容こそうろ覚えではある。ただ、それでも私は私がコーデリアである以上、そう自覚し、納得してしまった以上、そのように動くしか選択肢はない。
混合体となった意識が覚醒してから、はじめの数時間こそ『俺』とコーデリアとの意識を切り離す術を考えていたが、当然ながらさっぱりわからない。一日経ってしまった今では、もう諦めているのが本音なのだ。
この世界で生きていく。そう決意したのは、そんなことを考えながら自室で療養を始めてから3日間を過ぎたあたりからであった。
そうと決まれば、私と俺は一心同体である以上、未来が分かっているからこそできることもあるだろう。コーデリアを悪女になんかさせないし、ましてや処刑なんて絶対にさせやしない。
ある種の決意にも似た感情が、私の中で沸き起こる。ゲームでは悪女として、同情に値する理由を持っていた。しかし、この少女はいまだ何の罪も犯していない。何の悲劇も起きていない。
未来は、きっと変えられるのだ。この子を、コーデリアを幸せにしてあげたい。俺がそう思い、未来を知るからこそ純粋にコーデリアを助けたいと思う気持ちは間違いであるはずがない。俺の——私の幸せは、コーデリアにとっての幸せでもあるのだ。この子が正しい幸せを感じられるところまで、私が未来を剪定しよう。これは決意だ。そう思うのだ。
だから私は、コーデリアになったのだ。
「幸せな人生を送る」
口に出して、目標を確認する。
いいじゃないか。きっとこれが、私の転生した理由だ。未来を知ってるってことは、伊達じゃない。やってやる。この子を幸せにしてみせる。それが私の生き方だ。
「ミリィ! 体調が戻ったわ! 食事はある?」専属の侍女を呼びつける。
一年後だ。一年後、事件は起こる。父であるバーゼントが、私の誕生日に殺される。悲劇の連鎖の、始まりの特異点。
一年後まで呑気に暮らしているわけにはいかない。今からできることだって、たくさんある。
やらなくちゃいけないこと、やるべきこと。必要になるであろうこと。知識、技術、体力——。
「やってやろうじゃない! 未来なんて、変えてみせる!」
決戦は一年後。私の誕生日パーティ。その当日。
『私』は、運命に向かって、そう吠えたのである。