#23 昔々、とあるバーで、職を失った男とチンチクリンな女性が出会いましたとさ
カウンター奥の壁掛け時計を見ると十二時半を過ぎていた。
ススガクで授業を受けていれば、そろそろ四限の授業が終わりを迎えてお昼休みが訪れる頃合いである。
道理でお腹が空き始めたわけだが、これから大神さんの話を聞くとなると昼食は暫くお預けになりそうだ。
階段からぼくの右隣に移動してきた桔花はカウンターテーブルに突っ伏すように両手を伸ばし、アイスティー入りのストレートグラスに刺さったストローを唇で軽く咥えたままのだらけ切った姿勢で、「まだ?」と言いたげにアイスティーをぶくぶくしていた。
「役者が一人足りねぇが……小さいの、話を始めていいか?」
「――ちょっとだけ待ってください」
「つかっさんは呼ばないんじゃないの?」
「それはそうなんだけど」
ぼくとしてはこの場につかさがいないのが心残りというか、つかさ抜きで話を進めるのはどうなのだろうと考えてしまう。
後で「こういう事情があったんだ」と説明してもいいのだけれど、一応、声だけは掛けておくべきかな。
そう思って立ち上がり、
「ちょっとすみません」
断りを入れて階段手前まで進むと、
「ともえ、それ以上進んだら私の生足が見えちゃうけど、見たい?」
階段の上からつかさの声がして、ぼくは天井を仰ぐように目を向ける。
声が聞こえたのはこの辺りだよな、とつかさの姿を探していると、くの字に曲がった踊り場の物陰からつかさの片足がひょっこり顔を出した。――美脚だ、と思った。
「そこで聞こえる?」
「大丈夫、ちゃんと聞こえてるよ」
つかさがいる場所にまで声が届いていれば問題はないだろう。聞こえづらかったり聞き取れなかったところがあれば、後々に補足をすればいい。
そのためにも聞く姿勢を整えなきゃなと席に戻って、深く腰を下ろす。
「お願いします」
「まあ、改まって聞かせるほどの話じゃねぇけどな」
そう言って、大神さんは大きく深呼吸をした。
* * *
「この店を開くまではゼネコンで働いていた。給料の羽振りもよくてな。力任せの強引な仕事を押し付けられたりもしたが、今風で言うブラック企業ってほどじゃあなかった」
ゼネコンとは、建築、及び土木工事を一括して請け負う総合建築業者のことだ。総合工事業者とも言う。
単に『ゼネコン』と言っても、そのランクは売り上げによって三つに区分される。
『スーパーゼネコン』と呼ばれる企業ともなれば売り上げは一兆円超えだ。その下の『大手ゼネコン』でも四千億円を超えるし、更に下の『準大手ゼネコン』であっても三千億円を超えるのだから、『ゼネコンで働く』というのは勝ち組の称号を手にするようなものだ。
「辞めてしまったのはどうしてですか?」
「会社が談合しやがったんだ」
「だんごーって?」
アイスティーをぶくぶくしていた桔花がストローから唇を離し、みたらし団子でも想像していそうな表情で訊ねた。
「各ゼネコンが集まって『工事費用』と『工事期間』を競り合うんだ。安けりゃいいってもんでもなくて、予算内でどれだけ高品質を確保できるかがポイントになってくる」
それを『入札』という。
「へー、なんか楽しそう」
「楽しいなんてもんじゃねえぞ」
「なんで?」
「どの企業も上から『何がなんでも絶対に勝ち取ってこい』っつう相当な圧力を受けてんだぞ。昇進降格が懸かっているといっても過言じゃねえ。遊び半分でその場にいたら直ぐに蹴落とさるシビアな世界だ」
一粒の砂糖を囲んだ蟻たちを如何にして出し抜き自分の巣穴まで砂糖を運ぶか、しかし、その方法は公平でなければならない。
そう考えると、入札にきたゼネコン各社が神経を尖らせ、自社アピールに尽力を注ぐ様子が浮かんでくる。
桔花が想像しているのはネットオークションや魚の競り、若しくは競馬やボートレースであって、見ている分には観光客気分を味わえるが、ゼネコンの入札現場は緊張感漂う殺伐とした胃が痛む空間だろう。エンターテインメントとはわけが違う。
「談合っつうのは、競争入札の参加者同士で『何処が・いくらで』を予め決めておく不公平な話し合いのことで、入札談合等行為防止法に違反する。個人的なツテで発注を優遇したりすんのもアウトだ」
主に有名な談合事件として取り上げられるのは、宮城県汚職事件、茨城県汚職事件、埼玉土曜会事件の三つ。
どの事件にも共通しているのは、ゼネコン幹部と政治家が逮捕されていること。逆を言えば、それだけ競争入札は不正を働きやすいデメリットを孕んでいる。
「いくら給料がいいっつっても裏で不正を働く企業に身を置きたくねえからな。上司に退職届けを叩きつけてやった」
義理人情に熱い大神さんらしい豪胆な行動だ。
「この店を始めたきっかけは職を失ったのが理由ですか?」
「これからどうすっかと悩んでた頃にな、常連だったバーで飲んでたところに、俺を探して『アイツ』がきたんだ」
「アイツ?」
ぼくと桔花の声が重なった。
「ゼネコン時代に知り合った日下部萌っつうこれまたチンチクリンな女で、俺が働いていた会社の不正でとばっちりを受けたらしくてな。俺を探していたのも文句を言うためだときたもんだ。久しぶりに会って第一声が『ふざけんなバカ! 責任取って私を養え』だと。変わってるだろ? 俺もそう思う」
迷惑そうな口調でも、大神さんは何処か軽やかに話す。
「うわやば。養えってつまり結婚しろってことっしょ? そこに愛はあるんかって感じじゃね?」
女将さんかよ。
「ま、愛はねえわな」
「言い切っちゃったよこの人!?」
大神さんも大神さんだった。
知り合いだったとはいえ、いきなり馴染みのバーに乗り込んできて「私を養え」と言われてもなぁ。
それまでの関係なんて良くも悪くも『知り合い』だったのであれば、大神さんの言い分も納得してしまう。
「話を聞くと萌……日下部も職を失ったっつうんで、じゃあ二人で何か始めるか、それが責任でいいか? って提案したんだ。そしたら『喫茶店じゃなきゃ嫌だ』とか抜かしやがる。こっちは素人だ馬鹿野郎って反発したんだがな、日下部の両親が小さな洋食屋を営んでいるらしく、そこで修行しろだとよ」
詰将棋を見させられている気分になった。でも、某異世界ファンタジーアニメの超有名な迷台詞は言わない。言ったところでスリップするのが目に見えているからね! ――ほらね、こういう寒い感じになるじゃん。




