#16 汚れちまった哀しみを、彼は背負っているのだろうか
右腕と身体の隙間に桔花の左腕がある。
こんなにも細い腕が育ち盛りの男子高校生を易々と支えてしまうのだから、体型を維持する目的もあってインナーマッスルを鍛えているのかもしれない。
筋肉については専門外なもので自信はないけれど、インナーマッスルでいいんだったかな。
「ともちーさ、もっと食べたほうがいいと思う。軽すぎて普通にヤバい。これじゃあ見た目も中身も完璧に女子じゃん。――ともちーってやっぱ女子じゃね?」
「なんでそうなるの」
「だってウチより軽いとかシャレにもなんないしー」
桔花とぼくでは身長差があるしー、その分だけ体重にも差が出るのは当然だろう。そこに文句を付けられてもな。
余談だが、ぼくは三食しっかり食べないと気が済まない質だ。それともう一つ、ぼくは断じて女性ではないと付け足しておきたい。
看護師みたいに手厚くフォローされてベンチに腰を下ろす。あまりにも手慣れているものだから、深く考えずに「介護の経験あるの?」と尋ねてみた。
「ウチはおばあちゃんっ子だから家にくるヘルパーさんに習ったんだ。バリテクだったっしょ?」
と、自慢げに鼻を鳴らす。
なるほど、桔花のインナーマッスルは同居しているおばあちゃんを介護しているうちに身に付いたものだったようだ。
こういうのをギャップって言うのだろうか。桔花のギャップの多さには驚かされてばかりだ。ついさっきも物理的に驚かされたばかりだしー。
「楽だったよ。――将来は看護師に?」
「え、違うけど」
違うのかよ。話の流れからもう「看護師にウチはなる!」だったじゃないか。ハートフルストーリーに感動したぼくの気持ちを返してほしい。
「じゃあ何になりたいの?」
「……お花屋さんかお嫁さん」
――はい?
「ごめん、聞き取れなかったからもう一度いい?」
「子どもの頃からお花屋さんかお嫁さんになるって決めてんの!」
「あ、ああ、そうなんだ」
「文句あんの?」
「いえ、ございません」
これ以上、桔花のギャップにいちいち驚かない、と心に強く誓いを立てた。
どれだけ設定を盛れば気が済むんだ、このギャルは……。
* * *
ぼくが購入してきた『つぶつぶオレンジサイダー』を両手で包むように持って飲む姿に、派手な外見からは想像できない育ちの良さを感じた。
おばあちゃんっ子というのは本当らしい。躾がよかったのだろう。別に疑っていたわけじゃないが、おばあちゃんっ子というのも本当のようだ。
ならばどうして「ギャルになろう」と決めたのだろう。
おばあちゃんっ子であると自ら公言しているからこそ、どうしてもこの疑問にぶつかる。
躾に厳しいおばあちゃんが、歌舞伎役者のような派手なメイクに服を着る孫娘を見て、「ハイカラねぇ」と微笑むとはさすがに思えないのだが――でも今はその疑問をぐっと呑み下した。
「小谷野くんと何があったのか説明してくれるよね」
「ジュース奢ってもらったからね。話さないわけにもいかないじゃん」
どうやらジュースは奢りになったらしい。まあ、百円玉一枚で情報が買えたと思えば安い買い物だろう。それにしてもこの梅サイダー、濃い見かけどおりで梅感が強い。超梅ぇ。
「告られたの」
口に含んだ『こいつは誠に梅ぇ!』を吹き出しそうになった。
「え、告られたの?」
「うん。普通に。入学式始まる前に」
「入学式当日に!?」
「玄関前で」
「公衆の面前で!?」
「だからウチ、冗談かと思って」
そう思うのも無理はない。
目と目が合った瞬間に恋に落ちるなんて、それこそ少女漫画かラブソングの歌詞の中でしか起こり得ないと思っていた。
図書室の本棚にある本を同時に取って手が触れたり、トーストを咥えた少女と曲がり角でぶつかったり、「ハンカチ落としましたよ」から始まったりする古き良きテンプレラブコメかって、ぼくは思った。
「……で、しつこいからメッセージアプリのIDを交換したんだけど、ひとこと欄に『汚れちまった……』って書いてあったから思わず、『中原中也とか渋すぎマジウケる』ってツッコんじゃった」
ああ、そのやり取りはぼくも記憶に残っている。そうか、あれは小谷野純平にナンパされた苗代桔花との遣り取りだったのか。
小谷野くんがメッセージアプリのひとこと欄に『汚れちまった……』と書いていた理由は定かじゃないにしろ、文芸に精通している者がそれを見れば『中原中也』の名前が出てきてもおかしくはな……いや、どうだろう。多分、いろいろと間違っている気がする。




