#8 厭な夢
その日の夜は何故だか寝付けなくて、読書でもすれば眠気がくるかと本を捲ってはみたものの、ふと時計を見遣れば深夜の三時を過ぎていた。
隣の寝室では両親が寝ている。父のいびきは昔からだと思っていた。しかし、十年前は寝息も浅く、死んだように眠る人だった――と、この煩いいびきを聞く度に遠い昔を懐かしむような表情で、母は繰り返し語る。もう何度聞いたことか。
リモコンのボタンの『小』を押し、部屋の電気を点灯させる。橙色の淡い光が部屋を照らすと、あと一歩で床に放置しっぱなしだったライトノベルを踏みつけるところだった。
危ない危ないと手に取って本棚に戻し、小学校入学時に父が買ってくれた勉強卓の椅子に座った。
何かをしなければならない、又は、忘れているのではないか、という漠然とした焦燥感のようなものを、喫茶『ロンド』の帰り道から現在に至るまでずうっと抱き続けている。
何かって、なんだ。
ロンドに忘れ物をしたのかもと電車内で持ち物を確認してみたが、そうじゃない。
忘れ物じゃないとすると、この嫌に胸を締め付けて苦しいもやもやの正体は何だ。
父のいびきを除けば静かな夜。
時々、遠くで、キイィッ――、謎の雄叫びをあげる動物の声がする。サルではない、と思う。タヌキや野良猫は時折見掛けたりする。でも、野生のサルが生息するような土地柄でもない。
ちょっと離れた場所――徒歩だと三十分くらいの距離――に邪龍の頭を沈めたとされる沼があるとはいえ、龍の鳴き声は、キイィッ、じゃないだろう。多分、知らんけど。
話をすり替えてみたが、苦しいもやもやは晴れてくれない。それどころか、余計にもやが身体中を巡ってこれはどうにも耐えられそうにない。
ホットミルクでも飲んで落ち着こうと思い、足元に注意しながら階段を下った。
「ないじゃん、牛乳」
冷蔵庫を開けて、そのまま閉じた。
コップを干す場所に牛乳の紙パックが洗って干してある。流し台の上には、コーヒーリキュール、ヨーグルトリキュール、カシスリキュールの三本が放置してあった。
コップ類は片付けたのに、リキュールをしまい忘れたようだった。
まだ結構残っていた牛乳を飲んでしまうとは。これでは、「どうせホットミルクを作るならホットココアにしよう」とわくわくさんだったぼくの気持ちのやり場がない。お湯で溶かそうか……それじゃあ味気がなさすぎる。
気を取り直して再び冷蔵庫を開いた。
ビールが三本、エールが二本、発泡酒と缶チューハイが二本ずつ……どれだけ飲むの?
一本くらいジュースを買ってくれてもいいんじゃない? などと文句を吐き、残り僅かな烏龍茶のペットボトル――カシスリキュールを割るために購入した物だと思われる――を取り出して、用意したコップに全て注ぐ。
居間の明かりは最小限に留め、テレビ前のソファーに深く座った。身体がソファーのクッションに沈み込んで、ぼくを堕落させようとする。毎日使う物にはお金を掛ける、が両親のモットーゆえに、寝具もそれなりに値打ち物だ。
しかしどうして、今日はぼくの眠気を誘わない。
今更カフェインのせいにするつもりはなかった。多分、原因は他にある。もやもやの奥まったところに、ぼくを眠らせまいとする種があるのだ。
頭痛がしそうな時、その種は気配を見せるけれど、今回は頭痛じゃないのでどうしようもない。
どれだけ眠れずに時間が経過しただろう。
テレビ上部の壁に掛けたアンティークデザインの時計に目を向ければ、まだ三十分しか経っていなかった。もっと長い時間ぐだぐだしていた気がする。
こういう時の体感時間は、遅く流れるものらしい。
こうなったら内なるもやもやと真っ向勝負してやろうと意気込み、残り半分になった烏龍茶をぐいっと喉に流し込んだ。
げほごほ……。
変なところに入って豪快に咽せてしまった。
* * *
気がつけば中学時代の教室を、上から眺めていた。
ぼくは中学生の自分を俯瞰で見ているような視点で、「ああこれは、夢の中だな」と直ぐにぴんときた。
夢の中で『これは夢だ』と気がつくと、見ている夢を好き勝手にコントロールできるって話はガセだったようだ。――それにしても。
嫌な感じだ。教室に充満する悪意が俯瞰しているぼくにまで伝わってくるということは、席に座っている夢の中のぼくはもっと酷い状態だろう。それこそ、今すぐにでもこの場から逃げ出したいはずだ。
『こっち見るなよオトコオンナ』
『お前ほんとは〝――〟付いてねーんじゃね?』
『〝――〟が感染るからこっちくんな』
浴びせられる罵詈雑言に、夢の中のぼくはただただ沈黙するのみ。彼らの声にノイズが混じるのは防衛本能か。とても耳障りで両耳を塞ぎたいのに、俯瞰しているぼくも体を動かせない。
『御門くんが女子だったらねぇ』
『じゃあさ、御門くんが〝――〟取ればいいんじゃん?』
『名案! 海外なら安いって聞いたことある』
もう嫌だ、こんな光景見せないでほしい。
夢の中のぼくに、「早く教室から出ていけ」と叫んだが、声は出ない。口だけ必死に動かして伝える努力はしてみる。
「そんな場所にいる必要なんてない! だから早く逃げ出して!」
『——それで本当に解決するの?』
「……はっ」
夢の中のぼくと目が合った瞬間、ぼくはリビングのソファーで目を覚ました。




