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「もう頑張らなくていい、この日になったら死んでいい、キッチリした理由がつけてもらえて、おまけになんかの役に立って死ねるなら……それもいいかなって。それに、うちのクソどもを見てると、どうしても考えちゃうんだ」
いっちゃんがもぞりと身動ぎする。座っている机が甲高い軋みを上げた。
「あいつらだってたぶん、十七年前に僕が生まれた時は、そりゃあ手に手を取り合って喜んでくれたはずだと信じてる。でも時間は人を変える。十七年経ったいまを見てみろ。あいつらの目に僕のことなんか、もう一ミリだって映ってやしねえ。お前らだっていまはダチでいてくれるのかもしれない。でもそれはぶっちゃけ、あと何年有効な関係なんだ?」
「そんなの、これからだってずっと……!」
言いかけて、みなまで言えなかった。
昨日と変わらない今日を薄ぼんやりと待ちぼうけるだけで、授業を受ける意味さえわからないほど曖昧な私が〝ずっと〟だなんて、どうしてそんな適当なことが言える?
時間が人を変えるのは事実だ。そうでなければ永遠を誓い合ったはずの人たちが崩壊し、こんなにもいっちゃんを追い込み、苦しめることなんてなかった。
言うだけなら易い。軽い。浮ついていて、なんとでも言えばいい。
けれど崩れゆく関係を目の当たりにしてきたいっちゃんになんのあてもない、宙でふらつくような言葉を突き刺したその後の、その先の責任は誰が取る?
その在処を見失ったからこそ、いっちゃんはこんなことを言うしかないのに。
「ごめん、お前を責めたいんじゃない。そういうつもりじゃ、ないんだけど……」
いっちゃんは沈みきった声で絞り出すように謝り、俯いた。窓から流れこんだ強い風が、強張ったその声を揺らす。無理矢理に自分を圧縮するようにどこまでも小さく、硬く、萎縮していく。
いっちゃんの気持ちが理解できていながら、いやできているからこそ、これ以上なにも言えない。言うべきではないはずだ。なにを言ったって無責任だ。
慰めるにも励ますにも都合のいい魔法の言葉なんて存在しない。口先だけでこの状況をなんとかすることなんて、できやしないから。
私は無知で、無力だ。悪者になろうとしているいっちゃんを引き留める術さえわからない。止まらない涙を流すまま、ぎりと奥歯を噛み締める。
そんな私を憐れに思ったのか、いっちゃんは急におどけたようにけらけらと笑った。
「おい、そんなにマジになるなよ。とどのつまり、現実逃避がついに極まっただけだって話だぜ。中二病を拗らせまくった挙句、どっかのビルから飛び降りるオチよりずっといいだろ。ここらのご町内を救ったスケールの小せえヒーローとして、永遠に語り継いでってくれよ」
いっちゃんは、誤魔化そうと笑っている。
この場を、自分の感情を、私の辛さを、全部誤魔化そうと笑っている。
笑って、嗤って、嘲笑って――。
「その顔、やめてよ!」
机も椅子も押しのけ、いっちゃんに飛びついた。いまにも消えてしまいそうで、怖かった。いっちゃんの座った机が悲鳴を上げて、倒れそうになった。
本当は横っ面を引っ叩いてやりたかった。急に笑ったりして、きっと本音を吐き切らないままでいるつもりのことを。そうやってすべてを抱えたまま、死のうとしていることを。
けれどいっちゃんは、もう十分過ぎるほど打ちのめされている。これ以上鞭を打つなんてできなかった。
「一人で全部、抱え込まないでよ」
私はなんて脆いのだろう。弱く、いい加減で、悪質だ。無責任なことは言えないと、いましがた胸の内に留めたはずの言葉が、ほんの数秒のうちに吹き出してしまう。
軽々しい人生だ。貫徹できない滑稽な意思が揺れ続けている。ひらひら、ふわふわ、ぐらぐら、途切れ落ちていく木の葉のように、情けない涙声が潤んで震える。
「一人で決めつけないでよ。私も一緒に考えるから」
なにを? 漠然としている。
「そんな顔しちゃだめだよ。いっちゃんが笑うなら、私も一緒に笑うから」
どうやって? ずっと泣いているのに。
「私が一緒にいるから。期限なんてわからないけど、一緒にいるから」
いつまで? 曖昧だ。
支離滅裂な上、確証なんてどこにもない。保証なんてできやしない。これは実際、何年有効なたわごとなんだろう。わからない。
泥を被ってまで私たちと決別しようとするいっちゃんの強さの前に、脆く崩れ去っていく私の弱さと甘さ。無様な往生際の悪さを味わうほど、自分勝手な嫌悪感が押し寄せてくる。
けれど本当は泣きたいはずのいっちゃんが無理矢理に笑おうとする姿に、どうしても耐えられなかった。耐えられなかったのだ。
「バカだなぁ、そんなに真っ赤になっちゃって。もっと煽り耐性をつけるべきだぜ」
口から雑言を滑らすことしかできなくなったはずの小生意気な中二病患者は、すっかり悪意と憎悪を失った、まったく純真な子供の声をしていた。いまにも泣きそうで、けれどそれは意地が許さなくて。そんな狭間に縛られた孤独な声色に、胸を締め付けられる。
私はほとんど力のこもらない拳を、それでも目一杯にいっちゃんの背中に叩きつけた。
「バカでいいよ。数学も社会も苦手だよ。足し算も引き算も苦手だし、尊い犠牲で社会がどうとか、そのおかげで現代の日本がなんとかかんとか、そんなの全然わかんないよ。知ったこっちゃないよ。いっちゃんには生きてて欲しいんだよ!」
学校が教えてくれたこと。それと現実との間に開く、あまりにも大きな乖離。
無責任。無作為。無秩序。らりぱっぱ。
国家が保障しなければならない〝国民の恒久的な安全〟とかいう、なにか。
未来に不可欠な、不可避な、誰かが生きるための〝尊い犠牲〟とかいう、なにか。
何度も学校で習ったはずなのに、むにゃむにゃしていて、掴みどころがなくて、視ているようで、見えているようで、普段は誰も直視していない事実。
とかいう、なにか。そういう、なにか。
空を自由に飛べるプロペラ。時空を超える机の引き出し。どこにでも繋がるドア。そういった超常的で子供じみた手段でもない限り、いっちゃんが召集命令から逃れる術はない。
とか、馬鹿馬鹿しいことを、考えてみたり。
もっと具体的に。もっと現実的に。なんかないの。なんでないの。
ああ、なんて。私はなんて、なにもない世界で生きていたんだろう。
ごく当たり前の平穏を、希望を、焦燥を、危機を、絶望を、まるっきり地球の裏側の他人事、そんなものと同じ距離で感じていたのだ。誰しものすぐ隣に迫るこの世界の病が止められないことなんて、わかりきっていたのに。
いざ目の前に顕れなければ、この悲しみがわからないなんて。
「こんなに悲しませるなら……やっぱ言わなきゃよかったかな」
「遅いよ、今更。もう十分、悲しいっての」
私はゆっくりといっちゃんから離れた。
窓の外を風が渡って、校庭の周りに生えた木々を揺らしていく。ざわざわ打ち鳴る。
世界の軋む音。不吉な死神の気配。暗雲を纏う現実の呼び声。
夕日に佇むいっちゃんは、きっぱりとした声で言い切った。
「逃げようはない。泣き土下座しても、耳の聞こえないふりをしても、北行きの工作船に乗り込んでも、お迎えは必ず来る。この紙に書かれてる時間に、必ずだ」
「あと、二週間しか……ないの」
「そう。二週間しか……ないよ」
不意に訪れた死神の姿は、たった一枚の紙切れ。
それはどんな死刑宣告より軽く、尊く、鋭く、揺るがしようもなく。
私たちの日常は――あと二週間しか、ないのだ。