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「今朝遅れた理由を神妙に述べよう」

 握った手をするりと離したいっちゃんはまた自分の机に座り、苦虫を噛み潰したような表情で語りだした。

「今朝遅れたのは、第七惑星エルトリオンの先遣調査班に妨害されたわけでも、萌豚アニメのヒロインばりに食パンが中々口に入らなかったわけでもなかった。武士がハラキリする時だって、躊躇っちゃってすぐに斬れないだろ? そういう感じ。こいつをゾゾエに見せるかどうしようか……玄関でずっと悩んでたんだ」

 私は呆気に取られて、しばらくなにも言い返せなかった。

 いっちゃんの顔と、その手元で夕日に鈍く光る令状を交互に見比べて、たまに意味もなく窓の外を見てみたりして、何度も文章の意味合いを追う。

 令状の発布日は、半年も前だった。

 ――ずっと一緒にいたはずなのに、私はちっとも気がつかなかった。半年も。

「どうして、隠してたの?」

 私の声色は、明らかにいっちゃんを咎めていた。

 いっちゃんが悪いわけではないのに、そうわかっていても、自分のあまりの脳天気さとこの世の不条理に苛つき、冷静になれなかった。

「隠してたわけじゃないよ。なんつーか、わかるだろ? 悩んでたっつーか……」

 ばつが悪そうな表情で頭を掻きながら、ぼやけた言い方をする。いつもはっきりと物事を言い切るいっちゃんらしくない。

 様子を見るに、もしかすると半年もの間、毎朝同じ問題を考えていたのかもしれない。隠そうとしていたのではなく、迷いに迷った結果がただ、今日だったなら。半年間、毎朝玄関に座り込んで迷う孤独ないっちゃんの姿を想像したら、それ以上責められなくなった。

 それにしても、当のいっちゃんが妙に落ち着いているように見えて仕方ない。

 見も知らない誰かから二週間後、何百万人を救うための『弾丸』になって――死ねという手紙が届いているのに。

「ねえ、どうしてそんなに落ち着いてるの?」

「そう? そんなに落ち着いてるように見えるか?」

 まさか、いっちゃんはもう全然、別のことを考えていて。

 いっちゃんの落ち着きを余裕と受け取った私は、にわかに希望を見出した気になった。

 手の甲でぐしっと涙を拭い、その希望に飛びつく。

「もしかして、これをなんとかする方法とか、作戦とかがあるの⁉」

 そうだ、いっちゃんは頭がいいんだ。中二病だしサブカルの権化だけど、それは知識人でもあるということ。世の中の仕組みについてもきっと詳しいはずだ。

 しかし、その答えはにべもなかった。

「そんなもん、あるわけないだろ」

「じゃあ、なんで、そんな……」

「いや、なんつーかさ」

 いっちゃんは、視線をすっと窓の外へ移した。

「まあ、これはこれで、ラッキーなんじゃないかな、って思ってさ」

 開け放たれた窓から風がさわ、と入り込み、いっちゃんの柔い前髪を揺らす。いっちゃんの発した言葉は、私がまるで知らない言語のように聞こえた。

 地上三階からの景色は高く、どこまでも見慣れたもので、見渡す限りつまらない。

 けれどそれが嫌ではなくて、むしろなにひとつ変わっていないように見えて、その実まったくそんなことはなく、視力の限られた私の目が届かないところで、日々なにかが変わり続けている。それが嬉しいような、怖いような。

 ちっぽけで、ありふれていて、どうでもいい。何億何兆という日常の一コマが、誰かにとって喜劇で、悲劇で、穏やかで、激しくて、波瀾万丈で、どうにもならない現実そのものだ。なにもかもを殺す世界の病魔なんて、忍び寄る足音さえ聞こえず、所詮テレビやネットの向こうの話でしかない。そうやって忘れたふりをして、日々誰もが、なにもかもが、産まれて、生きて、足掻いて、藻掻いて、死んで。あまりにも当然で、あまりにも自然なこと。

 学校の狭い教室で風景が目に焼き付くほど同じような毎日を繰り返し、机に向かって漫然と勉強をしている限りでは、そんな横並びの自然さえずっとずっと遠い出来事だった。だってそれはきっと人生の全部というとてつもなく長い時間をかけて、ほんの少しずつ思い知ってゆくことのはずだ。

 その時間を急激に早められ、突きつけられたいっちゃんの瞳は、ぼんやりと夕陽に照らされ、揺れている。

 私と変わらない長さの時間しか人生を過ごしていない。住んでいる場所だってすぐ近所だ。地図の縮尺をちょっと合わせたらスマホの一画面に収まってしまうほど狭い世界で、幼稚園から小中、高校のいままでずっと一緒に過ごしてきた。

 なのにいっちゃんの発した言葉は、私がまるで知らない言葉のように聞こえた。とんでもなく高く、分厚い壁の向こうにいるような気がした。

「死ぬのがラッキーって、なに?」

 私の言葉は情けなく、縋るようだった。

 いっちゃんは押し黙り、俯いている。その時間はひどくゆっくりに、長く感じられた。

 待って、待って、いっちゃんはようやく、ぽつりと呟いた。

「……隕石でも、落ちてこねえかなあ」

 沈みゆく西空が、幽かに笑ういっちゃんを斜めに照らし続ける。

 隕石なんて落ちてこない。くるわけがない。

 それはつまり、本当に隕石が落ちてほしいという意味ではなくて。

「もういろいろ、めんどくせえ。頭の天辺から燃え尽きて、なくなっちまいたい」

 つまり、そういうことだ。いっちゃんは死にたがっている。言葉としては知ってはいたけれど、そういう冗談だとずっと思っていた。

 中二病のあらわれ。数ある方便のうちのひとつ。面倒だけれど、まだまだ生きたいということへの反語的応戦の証なのだと。

 けれど、いっちゃんは本当に本気だったのだ。

 私が現実から目を背けている間、ずっと、ずっと。

「それって……家に帰りたくないから?」

 言葉を選ばず、直球で問い質す。

 いっちゃんの家庭が随分前から厄介な状況にあることは知っていた。ずっと両親が不仲で喧嘩が絶えず、不満を抱いたお兄さんは五年ほど前に出て行ってしまっている。いっちゃんもそんな状況に辟易してしまい、最近はほとんど家に寄りついていないことも聞いていた。

 寂しい笑みのような歪みを頬に湛えたまま、いっちゃんは嘯く。

「帰る場所……いや、帰りたい場所がねえってのは存外虚しいもんだぜ。どこにいたって蚊帳の外っていうか、余所者の気分なんだ。このままなんとなく何十年も生きなきゃならないなんて、考えるだけで疲れちまう。そこへこの召集命令だ。渡りに船ってもんだろ?」

「家のことなんて、家を出ちゃえば関係ないよ。あと一年辛抱して、高校を卒業したら私と一緒に家を出ればいい。そしたら……!」

「確かに……ゾゾエとか、ミチコとか、ハルとか、ナオとか、そういう仲の良い連中と一緒なら、こんなクソみたいな人生もまあまあ楽しいし、それでもいいと思ってたんだけどさ。実際に召集令状を受け取った時に……なんかがぷっつり切れちゃったんだ」

 私の言葉はいっちゃんの自嘲に逸らされて、彼方へ飛んで行った。

 疑問を口にすることができない。確かめることが怖い。直視することが怖い。

 そんな私に構わず、いっちゃんは虚ろで薄まった笑顔のようなものを貼り付けたまま、容赦なく言い放つ。

「つまりさ、そんなに頑張って生きていく気が……なくなっちゃったんだよ」

 鋭利に澄まされたいっちゃんの絶望が、私の心を深く抉り抜いた。

 放課後はほとんど毎日一緒にどこかへ行ったり、うちでご飯を食べたりして過ごすけれど、いつも適当な時間になったらふいとどこかへ行ってしまう。そういう日は家に帰らず、大体ネカフェで寝泊まりしている。ネカフェを転々とする身を案じ、うちに泊まることを勧めたこともあったけれど、迷惑をかけるからと毎回断られ、そうすることは一度もなかった。

 断られるたび、そして不意に別れるたび、そのままいなくなってしまうんじゃないかという不安は常にあった。その予感はどうやら、最悪の形で実現してしまったようだ。

 頭のどこかで、いっちゃんがまだ召集令状だなんてわけのわからない死を受け入れていないことを期待していた。たとえ一人では生き辛くとも、私と一緒なら、みんなと一緒なら生きていたいと思ってくれる。そう信じていた。

 それは、一方的な自惚れだったようだ。


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