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 蒸し上げられた気温が一巡して、勢いを失っていく。伸びた紅霞(こうか)に溶け出して、薄まりながら昇っていく。望洋と窓の外に広がっていた私の意識が、ゆるゆると胸の中に戻って押し込まれていく。

 午後の授業内容は、ほとんど頭に残らなかった。いっちゃんと新潟から亡命する船旅で、反吐を戻したり、荒れた日本海に放り出されたりする妄想を膨らませていたせいだ。

 気がつくと騒がしかった教室はすっかり静まり返っていて、いっちゃんと私だけになっていた。

 埃と、汗っぽい匂いと、夕暮れが綯い交ぜになった空っぽの教室。

 休み時間の喧騒が斑に浮遊しているような幻聴が耳腔に残響していて、でも誰もいなくて。

 消しきれていない薄く白んだ黒板は、今日がもうすっかり終わってしまったのを告げながら、終着駅に置かれた停止板のようにのっぺりと張りついている。

 ここはもう時間の行き止まり。行き止まりの教室。

 それらを背にしたいっちゃんが自分の席の机に座り、私と同じように開け放たれた窓の外を眺めながら、ぼうっとしていた。

「あ……付き合わせちゃってごめんね、毎度毎度」

 ようやくしっかりとした意識を取り戻した私は、慌てて教科書を鞄に詰め込む。

「お前は昔からそーゆー感じだし、もう慣れた。だがいつもそんなんじゃ、あっという間にボケて老けて後期高齢者までまっしぐらだぜ?」

 とっくに帰り支度を終えているいっちゃんが、呆れたように答えた。

 愛、などと言えば大袈裟だけど、私はこういう時間が好きだ。

 いまこの時間と空間を切り抜けば、一日が終わって、そのまま世界が滅んで、たった二人ぼっちになってしまったかのような錯覚に迷い込む。

 その錯覚は言うまでもなく穴だらけで、窓から流れ込んでくる風には間違いなく誰かの気配や匂いが乗っかっている。

 私たちだけが勝手に居残った、ちっとも隔絶されてない仮初めの密室。あるいは終末。

 空想ひとつで簡単に顕れるコンビニエンスな絶望が心地良いような、どうでもいいような。

 私は手早く教科書やノートを纏め、鞄を持って立ち上がった。

「おまたせ。んじゃ、今日はどうする? うちに寄る? それともどっか行く?」

 けれどいっちゃんは応じず、なにも言わないまま、足をぶらつかせる。

 まさか聞こえなかったはずはないだろう。そう思いながら笑って、肩を指先で小突いた。

「こら、いっちゃんまで後期高齢者なの? それとも難聴ピアニストの真似?」

 いつもなら不敵に笑み返しながら、愚にもつかない屁理屈を言うはずだった。

 それなのに、いっちゃんは笑わなかった。無表情でもなかった。口を横に結んだまま、喉をしきりに上下させている。なにか、迷っているような。

 不安に駆られた私は、一度鞄を降ろした。

「どしたの? 帰らないの?」

 いっちゃんは答えない。視線を泳がせて、足をばたつかせて、なにも言わない。まるで緩やかに溺れているよう。なのに泳ごうとしない。沈みゆくまま、身を任せている。

「あのさ……あのさ」

 なにかを言いあぐねたまま、いっちゃんは溺れ続ける。こんな様子を見るのは初めてだ。

 私はどう反応してよいかわからず、どうすることもできないまま突っ立っていた。

 自分の席でこんなことをしていると、先生に指されて答えようがなかった時の焦りがじわじわと思い出される。嫌な冷たい感覚が背中を伝って、全身を這い回っていく。

 どれくらいの間があっただろうか。いっちゃんはやにわに自分のリュックを開けて、中身を探り始めた。

 不安はどんどん膨らみ、胸の中で重みを増していく。その重りで私まで溺れそうになる。

 いったいなにが出てくるのか。得体の知れない恐怖がゆっくりと心内を占めていく。

 結局出てきたのは、くしゃくしゃになった紙切れ一枚だった。

 どんなとんでもないものを取り出すのかと身構えていた私は、束の間に胸を撫で下ろす。

「もー、勿体ぶって出すからどんなモンスターが出てくんのかって身構えちゃったじゃん。いっちゃん、新しい技を覚えたね」

 不安を掻き消すように私は茶化した。それでも、いっちゃんは一向に笑わなかった。

「モンスターか。言い得て妙かもしれんね」

 紛らわそうとした不安の重りは、倍になって舞い戻ってきた。信じられない速度で私の心に落ち込み、ずどんと叩きつけられる。

 なにも言わないまま、いっちゃんはその紙を私に手渡した。

 そこに書かれていた文字をつらつらと追い、その意味を理解した私は思わず息を呑む。

 文頭には『KA線防護に係る応召要請』と厳めしい言葉が銘打たれ、差出人には『厚生労働省KA線対策室EKA整備課応召要請書送信係』とかいう長ったらしい名が記されていた。

 翻って内容は短く、ほんの数行でいっちゃんが『指定遺伝子情報保持者』――『EKA構造体』であること、厳正な抽選の結果であること、応召先は『第八七塔てんくう』であること、そして応召の日付が記されていて、最後に大臣の名前と印があるだけだ。

 その応召日は、十月九日――今日から二週間後だった。

「なに、これ……。いっちゃん、なんなの、これは……」

 悪い冗談だと思った。いや、思いたかった。

 いっちゃんが二週間後に死ぬ。そんな恐ろしいことを命令する令状の存在なんて。

 たった一枚の紙切れが放つ重圧に手が震え、うっかり取り落としてしまった。

 いっちゃんは机から立って静かな動作でそれを拾い上げ、なんでもないもののようにペラペラと振りながらいつもの調子で嘯いた。

「見りゃわかんだろ、召集令状だよ。お国の為にくたばるのが決定したんだ。スーパーSレアな大本営発表だろ? ったく、またとないガチネタだってのに、間の抜けたアホ面しやがって」

 いつもの放言も、辛辣な非難も、まるで耳に入ってこない。

 私はただ言われるとおり、アホのような鸚鵡返しをするしかなかった。

「召集命令って、そんな……いっちゃんが……?」

 思わず身体から力が抜けて、自分の席にまた座り込んでしまった。

 無様な私を目の当たりにしたいっちゃんは、どんな振りにも対応できないのを察したらしい。大仰に溜息を吐きつつ両手で私の顔を引っ掴んで、ぐいっと近づける。

「こんなにわかりやすいネタで大喜利の一本もできんようじゃ、将来この国を担う社畜になった時、上司の無茶ぶりに応えられないぞ。それともお前の将来はニートか? それにしたってクソスレに書き込む時に求められるのは、三行以内で収まるエッジの利いたユーモアだ。どっちの道に進むにしろ、話のつまらねえ人間にロクな末路はない。さあ、一度しかない人生に二度目のチャンスをくれてやろう。さん、はいっ」

 目の前数センチに迫ったいっちゃんが、若干早口でべらべらと言葉を羅列する。幼馴染だからそんなのとっくに慣れちゃってて、いつものこと。

 しかしあまりにも情報量が多過ぎて、受け付けられない。いつもは合わせられる調子が合わせられず、狂ってしまっている。雀の涙ほどしかないキャパシティが、一枚の紙切れによってとっくに決壊しているせいだ。

 それでもいっちゃんはほとんど真顔のまま待っている。超至近距離の瞳が、夕焼けを反射しながらほんの少し潤んでいる。

 期待しているのだ。私の口から逆転満塁ホームランの如く、土壇場を返すほどのエッジが利いたユーモアとやらが劇的に飛び出すのを。情け容赦なく、勇気を持って、この紙切れを冗談にして笑えるような、驚天動地のユーモアとやらを。

 しかし私が辛うじて言えたのは、三行どころかたった三文字だけだった。

「嘘だ」

 怒涛の現実に呆気なく追い込まれ、カラカラと空転する脳味噌にそんなユーモアを絞り出すほどの強さなんて、あるわけがなかった。

「残念、その答えじゃ座布団はなしだな」

 いっちゃんが私の顔を離し、溜息をこぼしながらすっと一歩退いた。それがどこか遠くに行ってしまいそうな気がして、慌てて立ち上がり、縋り付くようにその手を掴んだ。

「嘘だ……嘘だ、こんなの。十月九日って……再来週じゃん。嘘でしょ、こんなの」

 私はいっちゃんの手を固く握り締めながら、頭を振ってひたすらに理解を拒絶した。

 こんなものの存在も事実も、断じて認めるわけにはいかなかった。

 だってこんなものをもし認めてしまったら、私は。

「ねえ、嘘だよね? どこからこんな機密文書のテンプレをダウンロードしてきたの? 最近のネットにはこんな危ないものまで落っこちてるの? ネタにしてもヘビー過ぎだよ。こんなの偽物でしょ。偽物だよね?」

 いっちゃんの口からこそ、これがびっくり仰天のユーモアであると、ただ私の間抜け面を見るための、他愛もない新趣向のおふざけであるという言葉を期待した。

 しかしいっちゃんは目を背けたまま、なにも言ってくれない。

 頭と心臓がひたすらに痛くて、でも、なにも言ってくれない。

 重い沈黙に窒息してしまいそうだった。理性的に振る舞うには、心が限界だった。

 私は、ついに叫んだ

「こんな冗談……嫌だよ、信じない。嘘なんでしょ。ねえ、こんなの嘘だって……言ってよ。はやく偽物だって、言ってよ!」

 しかしいっちゃんは首を振り、静かに断じた。

「嘘でも冗談でもない。正真正銘、本物だ」

 一分の期待さえも失われた瞬間、脳裏に黒々とした砲台の姿が呪いのように思い浮かんできた。床に着けているはずの足が感覚を見失い、奈落の底に墜ちていくような気色悪い浮遊感に襲われて、ぐうっと涙が溢れ出した。どれだけ拒絶しようとも不定形の魔物のように滑り込んでくる恐怖が、私の頭脳に揺るがしようのない現実をありありと刻みつける。

 いっちゃんが――二週間後に死んでしまう。

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