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 夕暮れていくボックスシートに沈み込み、徐々に建物が増えていく車窓の景色をぼんやり眺める。平和な街並みは他人事のように日常を描いていて、平和そのものだ。

 でも元の街に帰ったところで、そこにもう日常はない。行きに分水嶺と感じられた運命の分かれ目に対する感覚は正しかったが、その自覚は遅すぎたようだ。

 この列車に乗った時から、いっちゃんの告白を受けた時から、いや召集令状が届いたその日からいまに至るまでの出来事はすべて決定づけられていて、揺るがしようがなかったのだ。スーパーパスポートの意味を悟った時に浮かんだ、陰惨な二文字がまざまざと蘇る。

 鳥籠。私たちはどこまで行っても、どこにも行けなかった。

 急行列車を降りて中央駅の雑踏を抜けて電車を乗り継ぎ、最寄り駅から自転車を引いて歩く道すがらすれ違う他人が纏う空気は、昨日と変わっていない。どこまでも平和で、いつもどおりの光景だ。

 これを薄情と感じるのは筋違いかもしれない。悲劇のヒロインぶっているのかもしれない。

 それでも何食わぬ顔をして談笑し、明日が来ることを当然のものと信じ切って、先々のために行動し続ける無辜の他人にもはや憧憬も羨望もなく、怪物にしか見えなかった。

 希望とは、暴力だ。それに目を窄めることでしか相対することができない弱虫のことなんて考えもせず、真夏の太陽のように容赦なく照りつけてくる。

 さあ、前向きに。ほら、明るく元気に。頑張ろう、頑張ろう、頑張ろう。

 ああ、道行く皆様、この子は今週末に死ななければならないのですが、そういう時はどのように気を持たせたらよいのでしょう。

 私はこの子がいないと、この先に希望を見出すことはできそうにありません。そういう時はどのように希望を探せばよいのでしょう。

 からから、からから。こんな滅茶苦茶な問いに答える存在などあるはずもなく、自転車の空転音だけが虚しく耳に響く。

「なあ」

 玉川橋の途中、後ろを歩いていたいっちゃんに呼び止められた。振り返る。

 怒っているのか、悲しんでいるのかわからない表情のまま、ぬるい風に吹かれている。

 喜怒哀楽が行方不明で、能面のような顔だった。

「僕は――なんのために生まれて、なんのために死ぬんだ?」

 奈落の底から響いているかのような低い声から、ひしひしと怒気が伝わってくる。

 無色透明な表情は感情がないのでなく、ただぶつけどころのない強い怒りが臨界を超え、どのようにも形作れていないだけだった。

「今日まで蹴っ張って生きてきた。一生懸命生きてきたんだ。でも結局クソみたいな家族に負けて、政府や大人に負けて、〝世界の真実〟にも負けて……意味なんてなんにもなかった。そんで誰も彼もにバカにされたままあんなクソ砲台に詰め込まれて、さっきみたいなクソ共が楽しく暮らせる世界を救うために死ぬのか? 僕が生まれた理由はそんなんなのか?」

 いっちゃんはそう吐き捨てるやいなや自転車を放り出し、狂ったように野太い叫び声を上げた。長く、悲痛に、頭を抱えて叫ぶその様を見てはおれず、手を差し伸べたが、鋭く振り払われた。

 理不尽と恐怖に耐えに耐え、叫び出したいのをずっと我慢していたのだろう。

 張り詰めた糸のように細くデリケートになった理性をなんとか保ち、この瞬間まで冷静に振る舞っていたいっちゃんの強さには畏怖さえ感じられる。

 それでも数々の不条理に、ついに耐え切れなくなったのだろう。

 いっちゃんは泣きながら半狂乱になって、欄干を滅茶苦茶に蹴りつけ、喚き散らす。

「限界だ、限界だ、もう限界だ! 全部全部クソだ、クソッタレだ! 死にたいって言や神妙ヅラで駄目だって抜かして、生きたいって言や召集令状! どいつもこいつも僕に背負わせるだけ背負わせて、なのになんの責任も取らないで……なんなんだよ、ちくしょう!」

 金属のごいんごいんと響く音が大切なものの壊れていく音みたいで、ひどく胸が痛んだ。

「僕のこれはただの中二病か、メンヘラか、それとも悲劇のヒロイン気取りか⁉ 誰だってこんな目に遭い続けりゃこんなんにもなるってんだ、そうだろ!」

 奇異の目で通り過ぎていく人々と、じんじん痛む手を見比べながら、触れることすらできなくなった絶望を目の当たりにしても突っ立っているしかない自分に、燃えるほど慚愧した。

 生まれてきた理由を奪われ、死ぬ理由さえ満足いかない人が、ここにいる。

 そこに侘びも感謝もなくのうのうと暮らす人の浅ましさを知って、それが今日までの自分の姿だったことを知って、恥と後悔を散々噛み締めて、その上で相も変わらずただ親友の前に立ち尽くすだけの薄馬鹿には、答えられることも、できることもなかった。

「もういい。なにもかも押し付けられてクソみたいに死ぬくらいなら、バカにされたままこんな世界を救わされるくらいなら……バカの極みを選択してやる。どんなに強い力でも、選ぶ意思までは止められないってことを見せつけてやる」

 バカの極み――それがどんなことを意味するのか。

 そういうことだけはおそらく、私が世界で一番詳しい。

「応召する前に、自殺するってこと?」

 私の問いかけに、いっちゃんはせせら笑った。

「死ぬって結果はおんなじだ。僕の命は誰がどう説教を垂れたって、もう軽くて仕方ない。親も先公も国も世界も、みんながみんな命の尊厳を説くくせに、僕は今週末そんなみんなのために死ねって? 反吐が出る矛盾だ! どうせ死ぬなら、どう死んだっていいだろ⁉」

 烈しい言葉を吐くいっちゃんの頬を伝う涙は、黄昏の緋色に染められて血のように見えた。

 いいも悪いもない。いっちゃんの言うとおり、意思を止めることなんて誰にもできるはずがない。ここで引き留めようがどうしようが、死ぬ結末も変えられない。

 しかしその答えが示された途端、私の頭にずっとかかっていた霧がさあっと晴れていった。生まれてこのかた纏まることのなかった思考が、初めて明瞭になる。

 決して望んではいけなかった禁忌の願望。

 でも心のどこかでずっと燻っていて、それこそが救済だと信じて生きてきた、その願望。

 思わず変な笑いが零れた。身体が勝手に揺れて、どうにも止められない。

 私も狂ってしまったのだろうか。それでもいい。答えがひとつだけ、見つかった。

「おい、なに笑ってんだ」

 いっちゃんが鬼の形相で睨みつけてくる。でも確かな答えを掴んだいま、もう怖くない。

 この答えがどんなに間違っているとしても、いっちゃんを一人ぼっちにさせないために。

 私は自嘲を僅かに漏らしながら、夕空を仰いだ。

「本当に自殺するつもりがある人はね、わざわざそれを他人には言わないっていうのが普通なんだよ。引き止められたり怒られたりするのは、心底面倒臭いからね」

「……なにが言いたい」

 腰を低く落としながら、いまにも噛み付きそうな猛獣を思わせる剣呑さを纏ういっちゃんが睨みつけてくる。

 永久凍土のように冷たく凝り固まって、私の希死念慮を防ぎ止めていた枷が失われていく。喉元に刃を突きつけ続けていた絶望も、生温いチョコレートのようにどろりと溶けて心内を満たしていく。

 私が狂っているのか。いっちゃんが狂っているのか。そんなこと、もうどうだっていい。

 この終わりかけた世界で平然と営まれる人間社会だって、十分狂気の沙汰だと思える。

 そこに住まう不可避の最終兵器〝心〟を持つ怪物たちは、誰も彼も理解不能でただ恐ろしく、逃げることもできず、いつ襲い来るとも知れない矛先を変えることすらできない。

 このまま最低な日々を狂うことなく、真面目に暮らしていかなければいけないのなら。

 ここがどんなに恵まれた場所だとしても――地獄だ。

 仰いだ空から視線を降ろし、いっちゃんの瞳を真正面から見据え、微笑む。

「一緒にいる、って言ってるじゃん。いっちゃんがそうするなら、私もそうするよ」

「お前……」

 いっちゃんが目を丸くする。心底驚いたのか、猛獣のような怒りもすっと掻き消えた。

 いっちゃんが絶望に狂うのなら、私も同じ絶望に染まって狂う。

 いっちゃんが世界を憎むなら、私も憎む。

 いっちゃんが死ぬのなら――私も死ねばいい。

 もはや生きていくために必要だった気力も、条件も、現実逃避も、一切を喪失した。

 地獄を一人で生き抜く力は、私にはない。

「私も別に、いっちゃんのいない世界なんて、生きていたくないよ。クソみたいな依存だし、こんなのが友情って言えるのかわからないけど、でも、ほんと、生きてられないよ。だから一緒にさようならしちゃおう。こんな息苦しい場所じゃなくて、もっと遠いところに行こう」

 自分で放ったその言葉は円錐形になって、胸の内の深くにずぶりと突き刺さった。

 恐ろしいことを口にしているはずなのに、怖いとも、嫌だとも感じない。

 打ちのめされ、疲れすぎてしまって、もう感覚が麻痺しているのかもしれない。

 怒りに猛っていたいっちゃんの威勢は急速に失われ、ふらふらとこちらに歩み寄り、ゆっくりと抱きついてきた。

「……やっぱ、生まれてこなきゃよかったなあ、僕なんて」

 絶望の化身になってしまった親友を受け止め、ぎゅうと抱き締め合う。

 痺れるほどの力でこんなにくっついているのに、どうにも空虚が埋まらない。

 ただ悲しくて、寂しくて、辛い。

 足の裏に地面の感覚がない。生きている実感がない。

 なにもかもがもっともらしく、それでいて嘘くさい。

「そんなことない。私はいっちゃんに会えて、よかったよ」

 もはや声だけが確かな感覚だった。

 私たちはすっかり陽の落ちかかった堤防道で自転車を引きながら歩き、家路に就いた。

「応召は金曜の朝六時だ。だから、その直前に死のう」

「わかった、金曜だね」

 そして薄暗くなったいつもの交差点で手を振り合った。

「じゃあ、またね」

「おう、またな」

 私はきっといつものように、自然な挨拶で別れた。

 そうやって別れて、少しばかり寂しくても、ちゃんと明日もいっちゃんも来てくれると無意識に信じていたから。それがついさっき嫌悪した怪物たちと同じ思考回路であることには、気づきもしないで。

 明日は来ても、いっちゃんは来ないことがわかるのは、月曜日になってからだった。

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