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「……はは、なんだ、こりゃ」

 隣のいっちゃんが乾いた笑いを漏らした。

 ネットで真しやかに囁かれるZ地区の噂は、誰かが空想した三文SF小説でも、中二病の拗らせた妄想でもなく、やはり現実だった。

 十キロか、二十キロか――高台になったこの場所から彼方まで見渡せる。

 そこから望む景色には、ぽっかりと空いた穴のように無残な灰色が広がっていた。

 私たちが立つ場所と、遠くに見える街との中間くらいに大きな円の境界線が引かれていて、そこまでは緑が続いている。しかしその向こうにあるものは、峻険な峰々も、それに囲まれた盆地の街並みも、なにもかも灰一色だった。荒々しく切り立ったその峰々が、元はどれも青い山だったのだろうと気がつくのに少し時間がかかった。

 あの田舎町は十数年前に打ち捨てられたはずだが、いまもしっかり原型を留めている。しかし遠い距離感のせいか、それともなんの色彩もないせいか、ジオラマのような作り物めいた雰囲気で満ちていて、かつて誰かが住んでいたとは思えなかった。

 灰色で塗り潰された大地には見渡す限り草木一本すらなく、空には鳥の一羽も、雲の欠片さえも見当たらない。

 嘘であってほしい。政府、秘密結社、宇宙人、そういう抽象的な悪による馬鹿げた陰謀であってほしい――そんな他力本願で子供じみた解釈や願望を差し挟む余地はどこにもない。

 目が眩むほどなにもない空の青。

 丸い死の境界線が分かつ、此方の緑と、彼方の灰。

 あまりに不自然な極彩色で描かれた極端なコントラストと、僅かに風の音だけが鳴っている静かな情景は、腹の底を揺するような不安を掻き立て、足を竦ませる。

 一切の生命が排除されて、無機物だけが佇むうらぶれたこの場所は、確かに比類なきこの世の最果て、行き着くべきところに行き着いてしまった最奥の地――〝世界の真実〟という大仰な言葉で語るに相違ない。

 その時、吹き上がった向かい風に乗って漂ってきた、妙な臭いが鼻腔を刺激した。

 トンネルに入るまで噎せ返るほど感ぜられていた土や草の匂いではない。ひたすら不気味な、得体の知れないなにかが香る。

 これは、なに? 燃え尽きた灰のような、何年も積み上がった埃のような――。

 違う。経験の中にこんなおぞましい臭いはない。

 燃えた灰のように煙たく、積もった埃のように黴臭く、それでいてなにかが腐ったように酸っぱくもあり、熟れ過ぎた果物のように甘ったるくもある。吸う度にころころと感覚が変わり、纏まりかけたイメージをバラバラに分解されるようで、ひどく不愉快だ。

 まさか、これは世界が死んでしまった時の――あの世の臭い?

「おい、走るぞ」

「えっ……?」

 いっちゃんがやにわに、手を強く引っ張った。

「走れ、ゾゾエ――こんな場所、いちゃいけない!」

 言うが早いか、私たちはトンネルの方へ踵を返し、脱兎の勢いで逃げ出した。物凄まじい恐怖が雷のように身体を駆ける。それが命の危機による脳からの警報ということに気がついたのは、走り出した後だった。

 わけのわからない悲鳴を上げながらもつれそうになる足を懸命に抑えて走る中、あのユーチューバーが動画の最後で見せていた不可解な行動の意味を理解した。

 筆舌に尽くし難いほど奇怪で異質で、ただ知覚するだけで総毛立ち、あらゆる感情を吹き飛ばされる臭い。彼もこれを嗅いだから全力で逃げたのだ。生命を揺るがすほどの恐怖を味わわせる、あの臭いから一刻も早く離れるために。

 写真だの動画だのをいくら見たところでこの恐怖はわからない。あの場所に立たなければ、どれほど恐ろしいものなのかを実感することはできない。

 私たちはトンネルを一気に抜け、入り口に着いた瞬間ほとんど同時に倒れ伏した。

 それからしばらく、お互いに荒れた息を抑えつけるので精一杯だった。

 仰向けで見る空は青く、雲がゆっくり流れていて、柔い風が鬱蒼と茂る木々を揺らす。

 トンネルが隔てる現世と幽世の差に苛まれ、正常なそれらを見ても恐怖が消えない。

「なんでここに警備員もバリケードもないのか、わかった……」

 いっちゃんは荒い息を吐きながら、空を睨みつけるようにして言う。

「そんなもの、必要ないんだ。どんなバカでもこの先に行けばわかる。誰だって引き返してくる。わざわざ塞いでおく必要がないんだ。この看板はバリケードなんかじゃない。この先が〝もう終わった世界〟だってことを示す、ただの……標識なんだ」

 もう終わった世界――皮肉なほどファンタジックなその言葉の意味を、苦く噛み締める。

 人の手を離れた人工物は、自然の状態で放置されれば草木や動物が脅かす。それはここまで歩いてきた国道を見てわかったことだ。

 しかしきっぱりと引かれた死の境界線の向こうは、あらゆる有機物――すべての生物がKA線によって残らず消滅していて、これからも芽吹くことはない。だからなんの力も加わらず、壊れることもなく、時間が止まったように静止していたのだろう。

 ならば、KA線の真の作用とは破壊ではなく、加速なのではないか。

 生きる者に与えられた時間を刈り取り、強制的に死へ、終滅へと導くもの。

 だとすれば、あの光景は終滅まで時間を加速させられ、もう進む先がなくなって静止した世界の姿だ。だからKA線を止めるには『弾丸』を、生きた人の時間をぶつけて、相殺する必要があるのではないだろうか。

 熱っぽく乱れる思考も呼吸も収まらない。嘘も真もくるくる踊り、あらゆる考えが戦慄に染まって、脳裏を掠めて飛び去っていく。

 それでもあの強烈な光景と香りは、いくつかの事実を私に知らしめてくれた。

 世界はやはり、犠牲という名の切り札を必要としていて。

 世界はやはり、ぎりぎりの薄氷の上に成り立っていて。

 世界はやはり、ゆるゆるとした終末の真っ只中で。

 世界はやはり、それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれっきりの場所だった。

 もう、どんな現実逃避も、しようがない。

「どうしようね、いっちゃん」

「どうしような、ゾゾエ」

 それだけ呟いて、お互いに顔を見合わせてみても、考えらしい考えはひとつも思い浮かばなかった。ただ同じ絶望に打ちひしがれていることだけ、わかった。

 やがて整った息を薄く吐いて立ち上がり、私たちは力なく山を降り始めた。

 中二病はなんの役にも立たなかった。面白がれる余地なんてどこにもなかった。

 いっちゃんは死ななければならない。

 あの大いなる絶望を止めるために、世界と人々を救うために死ななければならない。

 苦しみや痛みに抗ったいっちゃんのかけがえのない人生を握り潰すことになろうとも、世界にはそうするだけの理由がある。何百万もの人をあの灰色で塗り潰さないようにするには、一人の事情を慮っていられない。

 だから――いっちゃんの死を認める? それを受け入れる?

 頭も身体も疲れ切ってしまっていた。突きつけられた拳銃のような現実から目を背けるのが精一杯で、そんな大事をどう受け入れるかなんて考えられなかった。

 横を歩くいっちゃんの背は丸く、怪我でもしているかのように足取りが重い。キャップの庇はずっと下向きで、小声でなにかを呟き続けていた。

 掛ける言葉が見つけられない。断頭台の上でギロチンが落ちようとしている人に、どんな言葉を掛けたら正解なのか。その解は存在するのだろうか。

 こんな場所来なければよかった。根拠もなく大人と社会を疑い、あてのない希望を抱いて、そんな浅学と浅慮だけで私はなにを見て、なにを覚悟しようとしたのだろう。

 心が弱く頭も悪く、ただでさえ怯えるものの多い世界でこのうえ恐ろしいものを増やしたところで、できることが増えるわけないのに。残り少ないことがわかっている時間を、ただ親友を傷つけるために浪費してしまった。この責任をどう取ったらいいのだろう。

 かつてない罪悪感に震え、申し訳無さで反吐を戻しそうになりながら歩いていると、遠くから虫の羽音のような甲高い音と、男の人の声が聞こえてきた。

 顔を上げると、緩いカーブの向こうに、行きにはいなかったおじさんが二人、それぞれに乗ってきたらしいバイクの傍らで楽しそうに談笑していた。

 いっちゃんもそれに気がついたようで、少し立ち止まった。なにも言わなかったが、表情と視線の動きだけでいまは誰とも関わりたくないという意思が感じられた。顎でしゃくって道の反対側を示したので、それに従っておじさんたちを避けるように大回りで歩き出した。

 おじさんたちはガードレールの向こうの方に視線を向けたまま、大声で熱っぽく喋り合っているので、私たちには気づかないようだった。手元を見ると二人ともコントローラーのようなものを握っていて、視線の先には二機の小型ドローンがぶんぶん飛び回っていた。虫の羽音の正体は、どうやらあのドローンの羽音だったらしい。

「いやー、ここほんと穴場っすね先輩。電波感度めっちゃいいから飛ばしやすいですよ」

「だろ? この辺は誰も住んでないから建物もないし、電波を出すものもないからな」

「空白地帯の外縁なんて、目の付け所が通ですよねえ。線量もアプリでちょこちょこチェックしとけばいいですし」

「そうそう、KA線なんかチェックさえしとけば平気だよ」

 KA線なんか? そのKA線のためにいっちゃんが死ななきゃいけないのに!

 軽率な言葉を吐いてへらへら笑う能天気に腸が煮えくり返り、思わず大声を上げそうになったが、拳を握り締めてなんとか堪えた。こんな場所を遊び場にしているような人たちに、私たちの気持ちなんてわかるはずはない。

「まあ今日日ドローンを飛ばすのも、高度制限やら使用制限やらがある街中じゃ一苦労……」

 先輩と呼ばれていたおじさんがドローンを手元に戻し、バイクの荷台からなにかを取り出そうと振り返ったので、私たちに気づいてしまった。やはりこんな場所を他人が歩いているとは思わなかったようで、うおっと声を上げながら少し仰け反った。

 胸の内に湧いた不快感を隠し切れず、眉を顰めながらもその視線を無視して通り過ぎようとしたが、案の定その人に話しかけられてしまった。

「おいおいおい、君たちどっから来たの? まさか、この上まで行ってきちゃったの?」

 その声に反応して、もう片方のおじさんもドローンを操作しつつ、こちらに振り返った。

「わっ、女子大生……女子高生? なんでこんなとこに?」

 私たちが気になるのか、近くを旋回させていたドローンをバイクの側に着陸させて、不躾な視線でこちらをしげしげと眺め回す。

 嫌だ、なにも喋りたくない。そう思いながら横のいっちゃんの顔を見ると、病人のように真っ青な顔をしていた。

 いま他人に構う余裕なんてまったくない。私はいっちゃんの手を引いて足を速めたが、その後ろからおじさんたちはなおも声を投げかけ続ける。

「おーい、こんなとこ子供が来ちゃ駄目だよー。この先が空白地帯だって知ってるだろー?」

「君たち、徒歩かー? よかったら、おじさんたちが麓まで送ってあげようかー?」

 うるさい。その言葉が優しさからなのか、それとも野次馬根性からなのかを判断することさえ煩わしい。どうだっていい。

 私たちはなにも答えず歩き続けているのに、おじさんたちは送ろうかだの、どうしてこんなところにだの、同じ問答を繰り返す。

 うるさい、うるさい。お願いだから構わないで、ほっといて。

 全力で遠ざかろうとしているのに、その意味が伝わっていないのか、無視しているのか。

 いつまでも私たちに話しかけようとし続ける声に、ついにいっちゃんが振り返らないまま、大声を張り上げた。

「うっせーな! てめえらは一生ドローンで遊んでろよ、クソが!」

 その刺々しさはいつもいっちゃんが中二病で演出したものとは違う、本物の怒りによる棘だった。それに刺されておじさんたちはようやく引いていった。後から不満げな声が聞こえたが、無視した。

 いっちゃんの瞳には僅かだが、確かに涙が揺れていた。激しい怒りの表情を浮かべ、ほとんど泣きかけていながら、唇を固く噛んで堪えていた。

 この世の理不尽は暗殺者のようにどこにでも潜み、どこからでも飛びかかってくる。

 なぜ、このタイミングであんな人たちがこんな所にいたのか。

 なぜ、追い詰められたいっちゃんに止めを刺そうとするのか。

 あれに人の心があるのか。もしあるのだとしたら、全人類が無邪気な理不尽を常に孕んでいて、暗殺者足り得る殺傷力を持っていることになる。誰からも、いつでも刺される。

 そんな理不尽に抗う方法も、どん底まで深まった絶望を忘れる方法もわからず、これ以上傷つきようがないほど傷を負ったいっちゃんの手を、ただ引くことしかできなかった。荒れた山道に何度も足元を滑らせながら、黙りこくって歩いた。

 私はやはり、無知で無力だった。無能で無価値だった。

 いっちゃんが秘密基地で絶望を吐露して泣いた時、なにかひとつでもしてあげられたらと思った。たとえ現実を変えることはできなくとも、その心を少しでも救えたらと思った。

 しかし私ではなにひとつ、どうにもしてあげられない。ほんの少し護ることも救うこともできない。あらゆる方向から襲い来る理不尽と相対するには、私は役に立たない。

 私たちは無言のままバスを乗り継ぎ、電車に乗って帰路に着いた。

 たった一日限りの反抗期。非日常。

 思いつきだけで飛び出した日常の外側は、残酷な場所だった。

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