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 翌朝、私のほうが先に目覚めた。昨夜泣いた後遺症が頭に残響する痛みとして残っていて、高熱を出した時のようにぐわんぐわんしている。

 朝日がいっぱいに差し込む窓に目を遣ると、青々とした山とよく晴れた空が見えた。

 すぐ隣には、いっちゃんがあどけない表情で眠っていた。涙の跡が残る白い頬を人差し指の背でなぞると、むにゃむにゃと形を変える。握られた左手は寝ている間もそのままだったようで、肘の辺りまで痺れていたけれど、離せなかった。

「んぁ……ゾゾエ?」

 ちょっかいに気づいたのか、小さい子供のような声をあげていっちゃんも目覚めた。

 ぼんやりした表情で私の顔を見て、握った私の左手を見て、その手に少し力が入った。

「おはよ」

「ん……。おは……っふ」

 おはようが途中から欠伸に変わり、空気になって途切れた。私も大概朝には弱いけれど、いっちゃんはそれ以上らしい。

 二人して布団の上で上半身だけ起こし、たっぷり五分ほどぼーっとしてから、ようやくのそのそと身支度を始めた。

「昨日の夜は、その……取り乱して悪かった。もう大丈夫だ」

 いっちゃんは恥ずかしそうに口籠りながら、寝癖を直すためにドライヤーを当てている。

 昨夜の弱々しさは一夜の夢のように消えていて、すっかりいつもの顔に戻っていた。

「いいよ、無理に強がらなくて」

「もう少しだけ強がらせてくれ。まだ一縷の望みってもんがあるかもしれない。あ、ゾゾエも考えといてくれよ。もしZ地区がなかったら、その瞬間から僕らは反逆者としての人生を送ることになる。世界中にどうやってこの壮大な嘘を暴くか、算段が必要だ」

「おっけー、とにかく行動あるのみだね。それじゃ、今日はまずどこから行く?」

「んー……」

 寝癖を直し終わったいっちゃんはドライヤーを切り、窓からの光に目を少し眇める。

「行く前は暢気にあちこち行くつもりでいたけど……それってたぶん、目を背けたかっただけだと思うんだよな。平気なふりっていうか、余裕を持ちたかったっていうか。日常を続けようとしてさ」

「現実逃避のプロから言わせてもらえば、それこそ正しい現実逃避の手法ですよ、一葉さん」

「あちゃあ……。じゃあ望依プロには全部お見通しなんじゃないの?」

「スッキリしないままじゃどこに行ったって駄目だろうね。行き先はひとつしかない、か」

 Z地区に行く方法を調べるためにスマホの電源を入れると、約半日ぶりに灯ったディスプレイに母からの夥しい着信とメッセージが怒涛の勢いで表示された。一瞬腹のあたりに氷が滑るような感覚が走ったが、ワンタップで通知を消して見なかったことにした。

「その前にご飯食べようか。食堂、八時半までみたいだし」

 遣る瀬無さから逃れようとした私の提案に、いっちゃんが素直に頷いた。

 身支度を終えた私たちは食堂に行き、バイキング形式の朝食を摂りながら手分けしてZ地区へ行く方法を調べた。

 どうやら空白地帯の境界線はこの旅館から十五キロほど北にあるらしく、バスを乗り継いで行けるのは手前十キロ地点までで、そこからは廃止された国道を歩いて行くしかないことがわかった。

「徒歩で十キロかあ……なかなかハードだね」

「いっそタクシーで行くって手も……いや、こんなとこまで行ってくれる運ちゃんなんかいないか。ゾゾエ、行けるか?」

「大丈夫、これでも元陸上部だし心配しないで。真夏じゃないし、頑張れば行けるよ」

「そうだな。よし、そんじゃ、さっさとチェックアウトしようぜ」

 頬張ったご飯をずずずと味噌汁で流し込み、部屋に戻って手早く荷物を纏め、チェックアウトを済ませて旅館を出た。

 すると門を出た辺りで、ぱたぱたと足音が聞こえた。なにかと思って振り返ると、女将さんが息を切らせて追いかけてきていた。

「あ、あのっ!」

 声に応じて立ち止まると、女将さんも少し離れた飛び石の上で立ち止まった。

「あれ、忘れ物とかありました?」

 いっちゃんの問いかけに答えず、女将さんは少し肩を上下させながら俯きがちに言った。

「あの、実は私もお客様たちと同じ年の頃に姉が招集されて……あの時も姉妹でなんの準備もしないで最後の思い出旅行に出てしまったことがあって……。お客様たちを見た瞬間、その時のことを思い出してしまって……」

 急に身の上話を始めた女将さんの言葉は大人のそれとは思えないほど纏まらず、要点らしきところをふわふわと飛び回る。しかしチェックインの時に見せた、不可解な表情の意味を理解できた。私たちの身分について訝しんでいたのではなく、同じ理由で失ったお姉さんをいっちゃんに重ね合わせていたのだ。旅行サイトで適当に決めた先の女将さんがまさか応召者の遺族とは、事実は小説よりも奇なりである。

「こんなことをお客様に、いえ、あなたに伺うのは大変失礼な……酷なことと重々承知しているのですが……ひとつだけ、お訊きしてもよろしいでしょうか?」

 嫌な予感がした。応召者の遺族であるこの人がこんな言い方でいっちゃんに訊きたいことなんて、どう考えてもろくなことじゃない。私はいっちゃんの袖をぐいと引っ張った。

「ねえ、行こうよ、いっちゃん」

「いや、いいよ。なんです? 訊きたいことって」

 私を制しつつも応じるいっちゃんの声が、僅かに固さを帯びた。嫌な予感がしているのはきっと同じなのだろう。

 逡巡しているのか、女将さんは目線をうろうろさせたり、そわそわしたりして、すぐには口を開かなかった。

 ややあって心が決まったのか、衿元の辺りに拳を当てて、思いつめた声で問うた。

「召集されることって、どんな……どんなお気持ちなのでしょうか。もちろんお辛い気持ちでしかないとは思いますが、その中になにか別の思いは……使命感というか、無理矢理にでも納得というか……なにかあるものなのでしょうか」

 予感は的中した。女将さんの無神経さで怒りが瞬時に全身を巡り、かあっと熱くなった。

 横のいっちゃんを見ると、なにかに痛むように顔を顰めていた。

「行こう、いっちゃん」

 怒りを抑え切れなくなった私はいっちゃんの手首を掴み、強引に歩き出した。

「でも、ゾゾエ……」

「いいから」

 いっちゃんは戸惑いを浮かべ、なにかを言いたそうにしていたが、構わず引っ張った。

 いっちゃんは優しいから、こんな問いにも女将さんを安心させるように、納得できるように答えるだろう。でも心を削ってまで、こんな不躾に身を曝す必要なんてない。

 いっちゃんは正面から襲い来る悪意には強いが、心の隙間を縫うような姑息が絡むと途端に鈍くなる。私はその逆で、後者に対しては人一倍敏感だ。そういうものから逃げる心得は私のほうが長けている。

 だからこんな所からはさっさと立ち去るべきだと判断した。後ろで女将さんの短い声が漏れたのも微かに聴いたが、無視してぐいぐい歩いた。

 昨夜布団の中でいっちゃんが泣き縋りながら吐露した恐怖や絶望、そして希死念慮に苛まれながら戦ってきた孤独を知るいま、女将さんの無神経は断じて許せなかった。

 そしてなにより、訊くべきでないことを訊くべきでない相手に訊いてしまう弱さ、そこに情やもっともらしい理由を絡める姑息――それがどうにも言い訳ばかり考える性分に重なって、にわかに湧き出た自己嫌悪に耐えられなかった。

 旅館を出てから赤塗の橋の手前まで、黙ったままいっちゃんの手を引いて歩き続けた。

「落ち着けよ、ゾゾエ。もう大丈夫だ」

 諭すようないっちゃんの静かな声を聴いて、ようやく冷静さを取り戻した。

「ごめん、引っ張ったりして……」

「いや、まあ……気持ちはわかるよ。気にすんな」

 いっちゃんは少し手首を擦りながら、控えめに笑った。

「ごめん、痛かったよね。大丈夫?」

「平気だって。にしても、いきなりぶっこんできたよな? ちょっとビビったわ」

 謝る私に手を振りながら、屈託なく答えるいっちゃんの姿が心に沁みる。

 怒りに任せて行動してしまった結果は、落ち着きを取り戻すほど幼稚に思えた。自分と重なった女将さんの言動に共感性羞恥めいたものも感ぜられてきて、だんだんと空恥ずかしくなってきた。

「なんだったんだろうね。あんなこといっちゃんに訊いて、どうするつもりだったんだろ」

 恥ずかしさを掻き消すように、少し大きな声で言った。

 するといっちゃんは風に攫われかけたキャップを直しながら、ふわりと答えた。

「あの人もいろいろ訊きそびれたことがあったんじゃねえの、お姉さんにさ。なまじ身内だからその時は訊きづらかった、でも他人の僕になら……みたいな」

「そんなの……勝手だよ。ちっとも大人じゃないじゃん」

「大人、ねえ……。難しい問題だよな。実際大人になり損なっちゃった奴って、いつどうやって大人になったらいいのかねえ?」

 いっちゃんは事も無げに言ったが、その言葉で恥や嫌悪が生じた本当の原因に気づかされて、とても他人事とは思えず、暗然で息が詰まった。

 大人になり損なった大人。そのきっかけを失い、大切な人の死を乗り越え損ねた大人は、いつも厭悪する自分とよく似た姿をしていた。

 誰かやなにかを喪うことを受け止める方法。それを自らでは考え切れず人任せに、他人の中に答えを探し求める姿の、なんと情けないことか。

 そうして他人と他人の間を這いずり回るうちに大人になり損なって、何年経ってもなにも見つけられないまま、喪ったその日から一歩も前に進めなくなる。

 私もいっちゃんの死と向き合えなければ、いつかはああなる――恐ろしい未来予知だ。

 さっきより少し膨らんだ自己嫌悪を重く抱えながら、いっちゃんより半歩遅れて歩く。

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