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 月明かりが差し込む部屋で、まんじりともせず寝返りを打ち続ける。布団を頭からかぶっても、どこかから聞こえてくる刻々とした秒針の音が、いつまでも眠気の定着を阻害する。

「眠れないな」

 温泉からずっと無言だったいっちゃんが口を開いた。

 もそもそと布団を退けると、月に照らされた浴衣姿のいっちゃんが弱々しい微笑を浮かべながらこちらを見ていた。

「ごめん、ゴソゴソしてたの、うるさかった?」

「ううん、さっき日付を意識したら……ちょっとリアルな感じになっちゃってさ。何度も気にしないようにしたんだけど、やっぱ無理だわ」

「いっちゃん……」

 布団から左手を差し出し、いっちゃんの布団に潜らせて、手探りで探し当てた手を握った。

 するといっちゃんも身を捩らせて、こちらへ寄ってきた。

「死にたい、って言いまくってたけどさ、嘘だよなあ。ちっともわかってやしなかったんだ。本当に……死ぬってことの意味なんてさ」

 明るい調子で言うものの、すぐにその明るさは作り物であるとわかった。

 月明かりに浮かぶ瞳は、風に揺られる水たまりのようにゆらゆらと潤んでいた。やはり不安で堪らなかったのだ。

 かける言葉を見つけられず、どう慰めるべきか迷っていると、突然握っていないほうの手を私の胸に押し付けてきた。

「ちょっ⁉ いきなりどこ触って……」

「なあ、生きてるってなんだ? メンヘラくせー質問だけどさ、心臓を動かすことか? ここをドキドキさせてれば、生きてるってことになるのかな?」

 驚きと緊張で戸惑ったが、すぐに言わんとすることに思い至った。

『弾丸』にされる人は特殊な手術によって脳死に近い状態されるが、心臓は動いている。それは生きているといえる状態ではある。

 しかし正しい言葉で表すなら、それは〝生存〟であって〝生きてる〟とは違う。私たちが求める〝生きてる〟とはもっと形而上のものであり、心臓や脳が動いていればそれでいいというものではない。それらが正常に働くのは前提で、自分を見つめる自分がちゃんといて、楽しいことも辛いことも認識できる必要がある。

 ここをドキドキさせていれば――なにかを感じていれば〝生きてる〟ということになる。逆説的にはここがなにも感じていなければ〝死んでる〟ということになる。

 ならば生かすことも殺すこともしない『弾丸』とは、そのどちらをも他人の手によって否定する、悪魔的な行為に他ならない。

 いっちゃんが孤独を突きつけ続ける世界に対して踏ん張った意味も、家族の裏切りと戦って悲愴に耐え続けてきた意味も、全部踏み躙られる。

 たった一人にこんな暴挙を振りかざさなければ、こんな苦悩を背負わせなければ、この世界は一日たりとも続いていかない。

 それなのに感謝も謝罪も配慮も同情もなく、なにもかもを奪い、ただ死を告げる。

 仮にそれをすべて伝えたからといって、悲しみは消えないのに。

 でも私とて、別の誰かにそうやって生きている一人だ。そんな世界で生きていく一人だ。そんな冒涜を押し付ける同罪の悪魔だ。いっちゃんがいつか言っていた〝全人類がいじめっ子体質を共有する〟という言葉が切れ切れに思い浮かぶ。

 残酷な――あまりにも残酷な現実に、目の前が真っ暗になる。

「生きるも死ぬも、僕が決められるはずだったのに……。僕は、なんのために生まれてきたのかなぁ……?」

 言い終わらないうちに、水たまりから大粒の涙が流れ始めていた。一度そうなると、堰を切ったように次から次へと溢れ出した。

 いつもの超越した雰囲気も、中二病の刺々しい言葉もなく、身も世もなく泣きじゃくる姿は等身大の少女そのものでしかなくて、あまりに弱々しく、見ていられないほど痛々しく、私まで泣けてきそうだった。

 しかし最後の防波堤を懸命に抑え、ぐっと耐える。私まで負けて泣いてしまったら、こんなに弱ってしまったいっちゃんを誰が支えるのか。

 私ごときが誰かを支えるなんて大それた考え、普段なら及び腰になっているだろう。

 でもいまはそんな〝私ごとき〟しか、ここにはいない。

 明るい言葉を、元気の出る言葉を、希望をもたらす言葉を、頭の中で必死に探した。

「少なくとも、私たちは死ぬために生まれてきたんじゃない。青春するために生まれてきたんだ。そうでしょ? 中二病だっていい。妄想だっていい。楽しければ、なんだっていい。青春って……生きてるって、そういうことじゃないの?」

 心にもないことだ。こんなことを本気で考えていたなら、弱虫の人生なんか送ってこなかったはずだ――そんな弱音をおくびにも出さないよう、強い口調で言ったつもりだった。

 さりとて思いつきで作った美辞麗句では、やはりいっちゃんの悲しみや絶望を和らげられなかった。涙は止まることなく、傷んだ心が溢れ出るかのように滔々と流れ続ける。

「そんな前向きに……なれないよ。死にたい死にたいって言ってみたって、結局は口先だけだったけど、心の中はずっと消えたいとか、逃げたいとか、そういう感情ばっかりだった。生きていきたいって思ってなかった。死ぬ勇気が固まらないだけだった。ただ死ぬのが怖いから……死ねなかった」

 いつも私が考えていることと大差ないことだ。そのはずなのに、棘のない無垢な弱さを曝け出すいっちゃんの声で伝わると、胸が張り裂けそうなくらいに痛かった。私がこんなに痛いのなら、いっちゃんの痛みはいかばかりだろうか。

 それをなんとかしてあげたくて、思いつく限りの言葉を頭の中に並べて、勇気や希望に繋がるものをかき集め、絞り尽くす。

「死にたくないから生きてるだけって、なにが悪いの? そうやってうだうだ生きてるだけだって、別にいいじゃん。辛いことから逃げて、痛いことは避けて、怖くないことだけ考えて、楽なことだけして、仲のいい人とだけ楽しく生きて……それでいいじゃん」

 それでも元々希望の欠片もなく、鬱々と生きてきた人間の浅い限界はここまでだった。

 これ以上はもうなにも思いつかない。なにかを言ってあげたくてもなにも言えない。

 貧弱な語彙を呪い、消極と悲観しか生み出せない性根を悔いた。

 そんな情けない私の左手を、いっちゃんは両手で縋りつくように固く握り締める。

「でも、現実は……こうだよ。死ぬために生まれてきた奴だっているんだ。僕みたいに」

 がたがた震えて、怯えも、絶望も、この一箇所に圧縮されていくかのように縮こまって、指がちぎれてしまいそうなほど握力が強くなる。弱まる声と相反するように、強く、強く。

「ゾゾエが友達でよかった。みんなと出会えて楽しかった。それは嘘じゃない。でも、それでも……生まれてこないほうがよかったって、思っちゃうんだ」

 声も絶え絶えなその言葉に止めを刺され、ついに私の防波堤は破れてしまった。

 私ごときではやはり、いっちゃんの恐怖や絶望を拭い去れなかった。

 当たり前だ。今日までを強く生きて、なにかを成し遂げた人間ならいざ知らず、何事からも何者からも逃げに逃げ、恐ろしいことをひたすらに避け続けた私は無力で無知で、たとえこの場を舌先三寸で丸めたとして、結局いっちゃんを救えやしない。それを自覚した途端、もう駄目だった。私も両手をいっちゃんの手に重ねて、くうくうと泣いた。

 私たちはきっと、世界で一番不幸な人間ではないのだろう。

 当たり前で、当然で、日常で、よくあるあれやこれやのひとつでしかなくて。

 けれど。

 世界で何番目の不幸なのか、わからないけれど。

 だとしたら、これ以上の不幸があるかもしれないこの未来(さき)なんて、生きていく自信がない。

 生きていけない――とても、生きていけそうにない。

 そんな気持ちは〝死にたい〟という気持ちと、どれほどの差があるのだろう。

 急行電車に乗って、夜道を歩いて、こんな田舎まで逃げてきたのに、現実は呆気ないほど簡単に追いついてしまった。

 悲しくて、悔しくて、恐ろしくて、ただただ、泣き続けた。

 何時間泣き続けたか、やがて私たちは泣き疲れて、砂が崩れるように眠ってしまった。

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