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 どんでんどんでんと揺れる電車のリズムに合わせて、いっちゃんの頭が揺れる。僅かずつ変動する肩の重みが、妙に心地よくて、変にドキドキして、薄れていた現実感をよりいっそう遠ざけていく。

 いっちゃんは流れ行く車窓の景色をぼんやり眺めながら、ぽつりと漏らした。

「別に、将来の夢とかもないし。大人ってのは、将来のことを考えないと駄目だろ。後先がないままじゃさ、いま死んだって、五十年後に死んだって、一緒じゃん」

「将来の夢がないと、生きてちゃ駄目なの? そんなの、私だってないよ」

「ゾゾエは追ってた夢がなくなっちゃっただけじゃん。高跳びすごかったのに、怪我しちゃって……泣くほど悔しい思いしてさ。なにも考えてない僕とは違うよ」

 不意な言葉にずくりと胸が痛んで、反射的に撫でていた手を引っ込めた。

 みんなを騙し続けていた中学時代の私。やりたくもない陸上部で望まない期待を背負い裏切った、あの夏の苦い思いがまざまざと蘇る。

「あれは……夢でもなんでもないよ。ただやらされてただけ。やりたくないって気持ちを正直に出せなかっただけだよ」

「なら、怪我をした時……どう思った?」

 肩に載ったいっちゃんの頭が僅かに動き、上目がちに私を見た。

 にわかに熱が身体を駆け巡り、顔を火照らせる。

「それは……」

 熱っぽい恥が唇に絡まり、言葉を詰まらせる。

 あの日の欺瞞は解かれることなく、二年以上経ったいまでもそのままで、勝手に消えたりしない。額にぐらりと伸し掛かるような熱い罪悪感が押し寄せてくる。そしてまた、いつもの〝どうしよう〟が脳内を席巻しかけた。

 違う――どうしようじゃない、どうしたい?

 ずっと消えないままの嘘を、このままにしておきたくない。

 本当のことを知ってほしい。そして、謝りたい。

 そうだ、謝らなくちゃ。

「あの頃、いっちゃんもみんなも、ずっと騙してたんだ。本当は、本当は……誰かに期待されたり、応援されたりすることが苦しくて、でもみんなをがっかりさせたくなくて、やめたいのにやめたいって言えなかった。あのジャンプに失敗して倒れた瞬間、ああ、もう頑張んなくていいやって思った。そうしたらなんだか安心して泣いちゃっただけで……全然悔しくなんてなかったんだ。勘違いさせて、ごめん」

「確かにずっと嫌だ嫌だって言ってたもんな。ゾゾエは本当に……陸上部、嫌だったんだ」

「うん……。つくづく情けない話だよね。このくらいのこと、すぐに言えればよかったのに。とにかくあれは努力とか夢とかじゃなくて、ただみんなをがっかりさせるのが……いっちゃんをがっかりさせるのが怖かっただけなんだ。だから、本当に……ごめんなさい」

「そっか……」

 気の抜けたような返事が、窒息するほど寒々しく感じた。

 脳が溶けそうなほど頭は熱いのに、指先が氷のように冷え切っていく。荒れ狂う恐慌に耐えきれず、自然と身体が震えだす。

 私の人生とは、ただこの一瞬を恐れるだけの時間でしかない。

 死にたい。比喩でもなんでもなく、いますぐ蒸発して消えてしまいたい。

「なら、僕も謝る。ごめん、ゾゾエ」

 いっちゃんの手が、私の手を包み込むように優しく握った。

「え、あ、謝るって……?」

「ゾゾエが重荷に感じてるってのを知りもしないで、無責任に焚きつけてただろ。僕はただ、学校が離れ離れになるのが嫌なのかなってくらいにしか考えてなくて……ほら、近所だからいつだって会えるじゃん? 大会で活躍するとこも見たかったし、なにより跳んでるところがほんとにカッコいいなって思ってただけで……そんなに辛かったなんて思ってなかったんだ。だから、ごめん」

 いっちゃんの言葉を聞いて、私はまた嘘を吐こうとしていたことに気がついた。

 なにかの折衝、なにかのすれ違い、なにかの願望に対して素直に受け止める力があったなら、謝ることも、反論することも、なにより許容してもらうこともできたはずだ。

 だから〝謝りたい〟なんて殊勝な考えは嘘に違いなくて、本当の願いは〝許されたい〟だったのだ。

 避けることと逃げることが芯から身についてしまっているから、またしても無意識に嘘を重ねようとしていた。二年前から私は心底、なにも変わっていない。

「いっちゃんが謝ることなんてないよ。私が悪かっただけなんだ。いつも嘘ばかり吐いちゃう。だから他人の考えも……自分の考えすら、よくわからなくなっちゃうんだ……」

 さっきまでは〝どうしよう〟の嵐から脱却できた自分を、少しだけ見直したような気がしていた。しかしその僅かな前進さえ誤った方向だったのだから、これ以上の馬鹿話もない。

「嘘だなんて大袈裟な。真面目過ぎるんだよ、ゾゾエは。だいたいあの時の連中だって、ノリとか雰囲気とかで応援してただけかもしれないぜ。二年も前のことなんかどうせ忘れてるよ。お前だってそうすりゃいいさ」

 その言葉を聞いた途端、身体中の重圧がすとんと消えた。

 忘れてしまえばいい。なんて気持ちのいい断絶だろう。

 過去は不変のものとして延々と未来に繋がっていて、消すことも変えることもできないから、あの時の失敗を、その時のしくじりを、恥を、恐怖を、いつだって今日に伝えていて、思い出すたびに一歩も動けなくなるほどお腹が痛くなる。その恐ろしき記憶の持続性、連続性は、他人にもあるのだと固く信じていた。

 そうか、他の人は完全とは言わないまでも、忘却と断絶を巧みに操って昨日と今日を分断し、面白くないことは水に流してしまうものなのか。どうせ忘れている。自分の失態も、他人の失態も、なにもかも。

 いっちゃんの言葉がじんわりと心に染み渡る。衝動的に旅へ出てしまったことと、かの夏の苦味で冷え切り、遠のいていた感覚が春風のように舞い戻ってくる。

 ずっと残り続けていたあの夏の残骸は、差し込んできた綺麗な西日の中にふわりと溶けていった。その呆気なさに、思わず笑ってしまった。

「なんか、おっかし」

「なにが?」

「私の人生って、ほんとバカみたいだなって」

「そうかい。でも、いいじゃん。全人類、どうせバカばっかりだぜ」

 この程度の勇気がありとあらゆる場面で出ずに、ずっと生き辛い思いを抱えてきた。それは決して軽いものではなく、この先の人生に対してずっとこらえていけるものなのか、自信を持てたことがなかった。

 しかし思いもよらず、それを克服するきっかけを掴んでしまった。息が詰まるほど恐ろしかった人間関係の機微に、いまなら少しだけ、一歩を踏み出せるような気がするのに。

 このまま日常に帰れるなら、いままでより少しはきっと、明るく生きていける。でも、もはや分水嶺は遠く過ぎ去ってしまった。日常というレールは急行のスピードに乗って、どんどん遠ざかっている最中だ。

 いましも列車はカーブに差し掛かり、西日がより強く差し込んでくる。黄金色に染められていく車窓の向こうにごみごみとした街並みが小さく映り、その真中には黒々と聳える砲台がボールペンのような細さで見えた。世界を救う英雄であり、いっちゃんを殺す魔物の正体とは、如何なりや。

 次第にボールペンのような砲台も、影絵のような街並みも車窓の向こうに霞みゆき、風景はどんどんのどかな田園風景に変わっていった。乗客も時たま停まる度に降りて、空っぽになっていった。目的地の三つ手前の停車駅に着く頃には誰もいなくなって、私といっちゃんだけになった。

 列車がレールを踏みつける音以外になにもない空間へ徐々に夜闇が入り込んできて、電灯が自動的に灯った。真っ暗なままでいいのに、と思った。宵に沈み始めた景色はもう闇ばかりで、明るい車内からはなにも見えない。

 そうして終着駅とひとつ手前の停車駅の間にある八つもの駅を飛ばして、急行列車はゆるゆると辿り着いた。

 山間にある終着駅はまだ夜の八時過ぎなのに人影はなく、まばらに見える商店などもほとんど明かりが点いていない。申し訳程度にある小さなロータリーには鈴虫の声が響いていて、駅がなければほとんど真っ暗な場所だった。

「ミスったなー、まさかこんなにド田舎とは。タクシーもバスも、なんもないな」

 駅前に辛うじて立っている錆びたバス停の時刻表を見ると昼間でも一、二時間に一本しか走っておらず、終発は二時間も前に終わっていた。

「まさか旅館ってここからかなり遠い感じ?」

「適当に旅行サイトの一番上に出たとこに予約しちゃったからな……ちょっと待って」

 いっちゃんは件の旅館をスマホで調べ始めた。バスもタクシーも人影もないのに4G回線はちゃんと届いているのだから日本という国はえらいものだ、とどうでもいいことを考えていると、調べ終わったいっちゃんから歩いて二十分程度の距離であると告げられた。

「歩けない距離じゃなくてよかった。せっかく宿を抑えたのに野宿とか、洒落にならんよな」

「めっちゃ自然豊かなとこだよね。鹿とか熊とか出そうじゃない?」

「鹿はともかく熊はヤバいな。スーパーパスポートでショットガンって買えるのかな?」

 虫の大合唱を聴きながら、私たちは暗い田舎道をてくてく歩いた。幅の狭い道路に面してひなびた商店がぽつぽつと並ぶ様は、いつも帰り道に通る高校近くの旧街道に少しだけ似ていた。たぶん、この辺りがこの町のメインストリートなのだろう。湿った土の香りが混ざった空気はひんやりしていて心地よく、歩きやすかった。

 途中、赤塗の橋を渡っていると、夜闇の中にぽつんと明かりが見えた。

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