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それから何事もなかったかのように平穏な一週間が過ぎ去り、あっという間に金曜日――十月二日が訪れた。
みんなにとってはまだまだ日中は暑いのに、せっかく直った教室のクーラーが『十月に入ったため使用禁止』というバカらしいルールに辟易するだけの日だったかもしれないが、私にとっては〝秘策〟がついに発動する日だった。
秋という季節を無視して未だに居残る暑さは下校時刻になっても衰えず、蒸した教室には誰も残っていなくて、ブレザーを放り出した私たちだけになっていた。
「さあいっちゃん、教えてよ。秘策ってなんなの?」
「よくぞ訊いてくれた。ガチの秘策ここにあり。昨日の夕方に届いたこいつを見よ」
ででん、と効果音を口で言いながら鞄から取り出したのは、一枚のカードとマッチ箱くらいの白い端末だった。カードにはいっちゃんの顔写真がプリントされていて、学生証や免許証にも似ているが、禍々しく銘打たれた『特配券』という文字が異様な雰囲気を放っている。
一方、端末はモバイルバッテリーのようにのっぺりとしたボディに赤いランプがひとつ灯っているだけで、なにに使うものなのか検討もつかなかった。
「これ、なに?」
「このカードがいわゆる『スーパーパスポート』ってやつだ。知らない?」
「うん。これがなにに使えるの?」
「なんでもだ。電車、バス、船、飛行機、コンビニ、飯屋、宿屋、他にもあれこれ。政府が提携してるところなら、なにしてもタダ! 応召日までに帰ってこれるなら、監視員付きだけど海外だって行ける。しかも同伴者三人まで有効だ。うちは戸籍上、四人家族だから」
「それってつまり……どこへでも行けるってこと?」
「そうだ。飛行機だぜ、飛行機! あのどちゃくそ高えAKAジェットにだって乗れる!」
いっちゃんは上気した顔で息巻いた。今の御時世、防護措置による電波障害がいつどこで起きてもおかしくないため、航空機はKA線発生前のように自由には飛べない。なので〝AKAジェット〟と呼ばれる特殊な防護加工を施された旅客機だけが市民の翼なのだが、これの運賃は目玉が飛び出るほど高い。それさえも叶うなら、どこへでも行けるという言葉に偽りはないだろう。ならば月曜日に思いついた馬鹿げた考え――隣県の山奥にあるZ地区に行くことも容易いはずだ。
これさえあれば〝世界の真実〟を掴みに行くことができる。
私は得意げに差し出されたカードを受け取って、食い入るように見つめた。
「すごい……本当に魔法のカードじゃん」
「と思うじゃん? 残念ながら、世の中そんなに甘くないんだぜ」
そう言ったいっちゃんは少し肩を落としながら、小さな冊子を差し出した。
表紙はいかにも役所が作ったことがわかる面白みのないデザインに、ダサいポップ体で『特配券を発行された日からのすごしかた』と書かれていた。
ペラペラとページを捲ってみると、まず特配券とは『政府提携施設特別配給券』の略称であること、応召日の一週間前が有効期限の開始日であると定められていることが書かれていた。それから開始日の午前零時から国民の三大義務を解かれること、応召日までは犯罪に係ることでない限りなにをしていてもよく、そのために必要な費用は特配券――スーパーパスポートを活用することですべて賄われると記されている。
ただし、その使用には制限もある。正式名称が示すとおり、政府が提携しているところでしか使えない。使用時には同時に支給されるGPS端末――この白い端末も持っていないといけない。スーパーパスポートを使う施設の座標と端末が発信する座標が一致してないと、使えない仕組みになっているのだ。
他には事故によって応召者に危険が及ばないように、自家用車などで自宅より三キロ以遠に連れ出すことはできない、旅行などで長距離を移動する際は公共交通機関を利用し、可能な限り安全な選択によって行動しなければならない、スーパーパスポートは応召者本人が応召日までに処分が可能な物品や目的に使用するものとし、他人に資するための使用はできないなど、ずらずらと禁則事項が続く。
そして最後に、スーパーパスポートによって衣食住はもちろん、あらゆる遊興が無償で提供される代わりに、当人が所有する一切の財産が凍結されると書いてあった。
つまり自分の口座からお金を引き出せないし、仮に超お金持ちでプライベートジェットやクルーザーなどを所有していたとしても、その使用は禁止だ。(ちなみに凍結された財産は没収されるわけではないので、通常の手続きで譲渡や売買、相続ができる)
これらの制限に触れた時やカードの不正利用が発覚した時、GPS端末を破壊して意図的に信号を認識できないようにさせた時などは当局によって直ちに拘束され、応召日まで収容施設で過ごすことになる。
あくまでもスーパーパスポートが使用できる範囲内での自由。
どこまで行けたって、これでは――。
「――まるで鳥籠みたいじゃん、こんなの」
思わず溢れた一言に、いっちゃんが拍手する。
「相変わらずキレの良い詩的センスだ。そう、全財産を取り上げられた上にGPSで居場所は筒抜け。位置情報が同期できなきゃただのプラスチックでしかないもんを一枚持たされて、自由もクソもない。ゾゾエの言う通り、僕はもう鳥籠の中ってわけ。まあ万が一にも『弾丸』に逃げられちゃ困るからこうなんだろうな。かといって仮にもお国のために命を捧げさせる奴をいきなり拘束するわけにもいかねえ。これがソシャゲでいうところの〝詫び石〟的なもんでさ、政府の最大限の譲歩ってとこなんじゃないか」
「確かにこれは……ちっとも甘くないね」
冊子には『特配券による決済に限度額はありません』という文言がいやらしいほど強調されていた。確かにこれさえあれば無限の財産を手にしたようなものかもしれない。
しかしいっちゃんがかつて言っていたように、なにかを引き換えにしなければなにもできないのが世の摂理というもの。魔法を使うならMPを、世界を救うなら生贄を、無限の財産を手にするなら――寿命を引き換えにするだけのこと。魔法のカードでもなんでもない。
心臓に嫌な痛みが走る。このカードで決済することは、いっちゃんの命で決済するということだ。こんな手を使ってまで半丁博打に出るべきなのか。
「監視なんかされるのは癪だし、クソどもと思い出旅行なんぞまっぴらだったから捨ててやろうかと思ってたけど、そんなことしたら拘束されるし、使えるだけ使わないと損だ。ゾゾエ、明日は暇?」
「そりゃ暇だけど……こんなのを使ってどこかに行くつもりなの?」
私の逡巡など露ほども知らない当人は、そんな暗澹たる事実を気にする素振りさえ見せず、いつもとまるで変わらない調子だ。
「使えるだけ使わないと損だって言ったろ? さて、どこに行こうかね」
いっちゃんはチョークを持ち、楽しげに次々と候補地を黒板に書いていった。
熱海、東京、北海道、沖縄、中国、韓国、北朝鮮、ラバウル、アメリカ、ドイツ、イラク、ソマリア、ヨハネスブルグ、シリア、スーダン、イエメン、月、火星、金星、土星……。
「うーん、ロケットも乗れんのかな。NASAとかJAXAとか行ってさ、このパスポートが目に入らぬか! ってさ」
ふざけ半分で水戸黄門の真似をしながらけらけら笑っている。どうやら本当にスーパーパスポートを使うことへの躊躇いはないらしい。
ならば――この提案をしてみる価値はある。
「あのさ、ちょっと聴いてほしいことがあるんだけど」
「お、どうした。なんか面白いとこでも思いついたか?」
おちゃらけた笑顔のまま渡されたチョークを受け取り、真剣な顔でいっちゃんを見る。するとすぐにその笑顔は消え、困惑したような表情が浮かんだ。そんないっちゃんの横で、土星の下に単語をひとつ書き加える。
Z地区。
「お前……」
いっちゃんが目を丸くする。私もいざその単語を目にすると、少しだけ震えた。
妄想にも等しい馬鹿げた思いつきに賭けるなんて、ナンセンスかもしれない。
それでも、たった一分でも可能性があるのなら、いま行きたい場所は他にない。




