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昼休みに入った教室が、明るい喧騒と熱気を思う存分に膨らませる。そこにぐんと上昇した気温が混ぜ合わさって、いよいよ最高点に達しようとしていた。
先週の火曜日、新学期が始まって早々の五時間目。一番暑い盛りに古びたクーラーは異音を立てて活動を停止し、それ以来この教室に快適な冷気はもたらされていない。学校も早急な修理を望んでいるようだが、業者が来られるのは来週の水曜日とのことだ。
そんな悪報にてんで勝手な文句を垂れながらも、制服を着崩したり、下敷きを振り回したり、冷感グッズを持ち込んでみたり、思い思いのスタイルで九割方のクラスメイトは教室に居残っている。律儀というか健気というか、涙ぐましいものを感じる。どうのこうのと言いながらも、やっぱりこの時間と場所が嫌いではないのだろう。
かくいう私たちも、いつも顔を揃える五人でテーブルと椅子を寄せ合っていた。一際文句の声が高いローちゃん、マイペースなハルちゃん、無口気味のなっちゃん、そしてスマホを弄ってばかりのいっちゃんも、みんな当たり前の顔をして座っている。
誰も口に出さないし、約束したわけでもないのに自然と集まってくる。涼しさの保証された図書室やら保健室やらに避難してもよさそうなのに、そうする人はいない。
私はそんな〝当然〟が、なんだか嬉しかった。
「ねー、これ見てぇ」
教室の湿気てべたつく暑さにひととおり文句をこぼしたローちゃんは少し気が晴れたのか、ニヤニヤしながら右腕に巻かれた安っぽいブレスレットを見せびらかしてきた。
「昨日ねえ、翔くんに買ってもらったんだ。付き合って二ヶ月記念だって! エモいよねえ、こういうことにマメな男ってさあ」
「はー、二ヶ月記念ねえ。それはなんというか……めでたいね?」
得心できるようなできないような気持ちのまま、曖昧に相槌を打った。いかにもぞんざいな同意だったけれど、ローちゃんは嬉々として表情を綻ばせた。いい意味でも悪い意味でも裏表がなく、単純な人だ。
翔くんとはローちゃんが夏休み前に作った彼氏だ。十七歳の夏を完璧に満喫すると意気込み、夏祭りやら海やらに行くため数々の男子を吟味して勝ち取ったその恋人と、それはそれはリア充全開の夏休みを過ごしたらしい。今月で晴れて二ヶ月目ということだが、その喜びがどれほど素晴らしいものなのか、色恋の機微に疎い私には想像できなかった。
けれどそこは人それぞれ。ローちゃんが幸せなら結構なことだ。
「でしょでしょ、そーでしょ! こういう小さな日々のヨロコビ? って言うか、発見って言うか……なんてーの? 気づき? やっぱさあ、あれこれ多くを求めるより、こういうことのが大事なんじゃないかなって最近は思うわけ。じゃない?」
「ま、そういう幸せもいいんじゃないですかにゃ。ねえ、なっさん?」
「せやな」
きっと私と同じ胸中だったのであろうハルちゃんの適当な頷きに、なっちゃんも言葉少なに続いた。漫画やアニメが好きな二人は現実の色恋沙汰より紙上の白や黒にときめくタイプで、やはりローちゃんのはしゃぎように理解が及ばない様子だ。
そんな中でただ一人、水を差したのは言わずもがな。
「ふん、男に媚を売りケツを振り、ヘラヘラ迎合することが幸せかね。それで掴める幸せってのは何ドルくらいの価値なんだい。教えてつかあさいよ、ゴーイングマイロードさんよ」
スマホを超高速でフリックする指を止めないまま、いっちゃんはにべもなく切り捨てた。〝ゴーイングマイロード〟とはいっちゃんがローちゃんの本名である路子の路という字から勝手につけた蔑称で、主に喧嘩を売る時に使っている。(私たちも語感が気に入ってしまい、そこからローちゃんと呼ぶに至っている)
「あーん? なんだって、中二病?」
いっちゃんにケチをつけられたローちゃんは目を三角に釣り上げ、剣呑な視線で睨めつける。ああ、今日も始まってしまった。
性格上、考え方が真っ向から対立するいっちゃんとローちゃんは、毎日なにがしか言い争っている。議題のスケールはしょうもないが、目の前で見るとそれなりに迫力がある。
とは言え、見慣れたいまとなってはもはや日常の一コマ。我らが二年四組の名物である。今日も今日とて口火を切ったいっちゃんに、ローちゃんが食って掛かった。
「そーゆーあんたの幸せこそなんなの? 毎日毎日ネットでワケわかんないことばっかり調べて、ご高説を垂れ流してる場合? 青春はいま一度っきり! 十七歳っていうプレミアはいまだけ! 男と遊ばずして、なにが幸せだっての? あんた、夏休み中なにしてた?」
「やれやれ、驚くほど単純明快かつクソみたいな幸福論だ。いっぺんイマドキ十代女子に絶大な人気を誇る、とかいう胡散臭いエッセイストのツイッターでもフォローしてお友達になってこいよ。人工甘味料全開のクソ甘ったるい自虐自慢風のエモツイートがどんどん流れてきて、さぞ気持ちがいいだろ。見せかけと思い込みの幸せなんぞ、すぐに底が見える。先行きの見えない恋愛ごっこが、世界の真実を追求するより尊いとはとても思えんね」
「セカイのシンジツう~? 部屋に引きこもってネットの闇と戦う人生が? そんなもんよりハラハラドキドキの恋愛ごっこのほうが、よーっぽど幸せだと思うけどねえ?」
「またまた、こいつは面白いご冗談だ! それはなんていうド三流女性雑誌の、何月号に載ってた言葉だい? 素晴らしいねえ、人類みな穴兄弟ってか! 少子化対策のプロパガンダにノせられた分際でなにほざいてやがんだ、脳味噌スイーツめ!」
「はいはーい、今日も中二病全開サンキューでーす。まっ、この問題はロクに男と喋る予定もないお子ちゃまじゃ、ちょーっとハードル高かったかなってカンジ?」
「な、なんだとお……。大人しく聞いてりゃ、クソ脳味噌ハッピースイーツ野郎がっ!」
炸裂したニトロのような怒りを燃え上がらせ、いっちゃんは椅子から猛々しく立ち上がった。私とハルちゃんとなっちゃんは被害を受けないように、弁当箱を膝の上に退避させる。
見解の相違というだけで、どちらも正解ではないだろう。趣味が違えば視点が、生き方が、人生が違う。なにに比重を置くかで人の価値観はいかようにも変化するのだから、彼氏との恋愛こそ人生における至上の楽しみであると考えるローちゃんと、マスゴミ(いっちゃんはマスコミのことをこう表現する)の偏向報道をくぐり抜けて世界の真実を暴き出すことを至上命題とするいっちゃんとでは、意見が噛み合うはずもない。
口さがなく、歯に衣着せない性格で正論に特化したローちゃんは、いっちゃんの過激な論理武装と並べるとまさに犬と猿、水と油、ハブとマングースだ。避けようのない衝突によって爆発してしまったいっちゃんは戦争演説をする独裁者のような威容を放ちながら、怒涛の勢いで畳み掛ける。
「なあーにが『ちょっとハードル高かったかな』だ! いいか、世界に蔓延する代理戦争の悲劇がなくならないのは、お前みたいな能無しが取りも直さず軍事主義の構造的支配という屈辱的かつ暴力的かつ一方的な陵辱に疑問を持たないせいなんだ! 第二次世界大戦からの鬼畜米帝と悪辣ソ連の冷戦はまだ続いている、いや、そもそも終わってすら……」
小難しい単語をありったけに並べ、正誤も定かではない渾身の大演説を身振り手振り、口角泡を飛ばしてべらべらと捲し立てる。しかし誰も聴いていない。ハルちゃんとなっちゃんはお弁当をぱくつきながら、週刊の漫画雑誌を開いてそれぞれに感想を言い合っているし、論戦相手だったはずのローちゃんも早々に飽きてしまったのか、リップを塗り直しつつ鏡とのにらめっこを始めている。
せめて私だけでも、と合いの手などを入れてあげたいところだが、如何せんなにを言っているのかわからない。
そんな私たちに構うことなく、いっちゃんの論調は無限にヒートアップしていく。もはや元気にぶっ壊れるその姿を、穏やかな気持ちでぼんやり見守るしかなかった。