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 川向こうへ渡る視線、いっちゃんの細い背にのしかかる寂寞に夕陽が差し込んでねじれる。ゆるゆると揺れて、私の頬を伝い落ちていく。

 同じなのだ。ふわふわとしている。私とは別の理由で現実から遊離していて、行き場がない。決定的に違うのは死にたいという気持ちの性質だ。

 私もまた、死にたいと思いながら生きてきた。他人と私との間に広がる心の距離はいつでも断崖絶壁に隔てられていて、向こうとこちらの差がわからない。そんな千尋の底からなんの前触れもなく無形の闇が現れては、絶え間ない恐怖と痛みを与える。

 母親。先生。クラスメイト。ローちゃん。ハルちゃん。なっちゃん。慣れ親しんだ誰かのふとした所作に、何気ない一言に、あるいはなんらかの動きがなくてさえ、驚き、恥じ、責められ、動揺し、困惑し、動転し、そこらを叫びながら転げ回りたくなるほど恐ろしくなる。

 むしろ慣れ親しんでいるからこそ、その心の奥底の窺い知れない領域に、得体の知れないなにかが潜んでいるのではないかと思ってしまう。被害妄想と頭ではわかっていても、そうでなかった時を怖じる気持ちが上回ってしまう。

 そんな厄介な性分と本能的な死の恐怖で矛盾する私を支えていたのは、いっちゃんが隣にいてくれる安心だ。

 もう死んでしまいたい。死んでしまうかもしれない。でも明日になれば、いっちゃんがいつもの交差点で待っていてくれる。そう思うから生きてこられたし、あえて死を口にすることもなかった。

 ただこれもはっきりと自覚しているが、私の死にたさの根源はどこまでいっても臆病こそが正体で、現実に暗い影を落とし続けているこの怪物にまったく実態はない。母親もいるし、友達もいるし、帰る家もある。傍目には、そして社会的には、なにひとつ問題がない。

 いっちゃんはまるっきり逆だ。現実を異様なほど面白がるふりをしなければ耐えられないほどの苦痛を与える家族が実在していて、唯一心を許していたお兄さんも行方知れずのまま。

 信じるべきものがわからず、行くあても帰る場所もなく、現実のなにもかもが仇なしていく中で寂しさと絶望に心を磨り減らして、それでも五年もの間、必死で抵抗していた。

 そこへ合法的に死を実現する召集令状が舞い込んだのなら。

「いっちゃんが私にだけ召集命令のことを教えてくれた理由も、召集命令のことをラッキーって言ってた理由も……やっとわかった。頼れる人が誰もいなくて、信じられる人もいなくて……生きたいって気持ちと、死にたいって気持ちに挟まれて、とっくに疲れ果てちゃってたんだ。そんないっちゃんをわかってあげられる人が、他に、誰も……」

 こんなに――こんなにも悲しく、苦しいことが他にあるだろうか。

 あまりの凄惨さに絶望し、あまりに無頓着な自分に悔恨して、涙が溢れて止まらなかった。

 近くにいたつもりで、こんなにもぐちゃぐちゃになっていたことに、まるで気づいてあげられなかった。

 生きるための希望を捨てさせられて、死ぬ理由さえ暈したまま、消え入るように死んでいく。最も残酷で、あまりに空虚な死に方を選んでしまうほど救われず、自己満足と自己完結だけで収束する一生涯。

 そんな逆境で苦しみ、考え抜いた末、ついにいっちゃんが辿り着いたのは〝大人〟になることなどではなく――諦観の境地だったのだ。

 振り向いたいっちゃんは激しい怒りを表情に浮かべ、それでもどこか縋るような気色を瞳に滲ませながら、深く頷いた。

「そう、誰も……。僕を裏切らないと思えたのは、もうゾゾエしか……いなかったんだ」

 その言葉を聞いた瞬間、矢も盾もたまらなくなり、夕闇の寂寥へ消えてしまいそうないっちゃんに遮二無二しがみついた。

「ごめん……! ごめんね、気づいてあげられなくって……。こんないっちゃんに寄っかかってばっかりで、なにもしてあげられなくて、バカで……私しかいなかったのに、本当に、本当に、ごめん……っ!」

 せぐりあげる喉が声にならず、言葉が何度も涙と鼻水に詰まって、上手く謝れない。

 私こそ、いっちゃんを傷つけた残忍な人間のうちの一人だ。

 恐れと、臆病と、現実逃避。そんなもので自分の心ばかりを守って、一番大切な人の心を理解できなかった。その愚かしさに腹が立ち、こんなに傷ついた人が横にいなければ道を歩くことさえままならないほど弱い自分を忸怩して、それでも――後悔は先に立たない。

 そんな私をいっちゃんは優しく抱き留め、頭を撫でながら嘯いた。

「いいんだ、僕だってこうなるような気がして……ゾゾエを悲しませるような気がして、言い出せなかった。これは本当に最後の手段というか……お前を頼るのは万策が尽きた時にしようと思ってたからさ」

「最後の手段って……?」

「やれることはやり尽くそうと思って、悪あがきにこの半年、あいつらに色々言ってみたり、兄ちゃんにメールしたりさ。でも全然駄目だった。一位以外の言葉なんて意味ないんだよ。その一位の席がとっくに取られてるんじゃ、あいつらがどんな生き方してたって、それがどんなに間違ってるって思ったって……僕にはどうしようもなかったんだ」

 いっちゃんは最後まで諦めなかったのだ。

 どうにか自分の生きた証を刻もうと、懸命に努力した。

 しかしそれさえも叶わず、報いるための一矢は外れていった。

 その絶望がどれほど深いものだったか、理解しようとしても余りある。

 いっちゃんの声から、私を撫でる手から、抱き留める腕から、次第に力が失われていく。

「人間、自分が知ってる人物には内心で全員、順位をつけてあるだろ? その中で一位に陣取ってる奴だけが意味のある言葉を言えるんだ。それ以外の、二位以下の言葉は、全部聞き流せる程度の、都合のいいBGMだ。耳触りのいい言葉だけを選って聞くもんだ。一位ってのは、たとえ明日隕石が落っこちてくることになっても……一緒にいる相手だろ?」

 一位ということは、誰よりも大切ということ。

 明日隕石が落っこちてくる――世界が滅ぶことになるとして、誰と一緒に過ごすか。一位とはまさしく、そういう人間を指すのだろう。

「僕は、家族の中の、誰の一位にも……なれなかった」

 いっちゃんの声が、途切れ途切れになって潤んでいく。しがみついた私の腕の中で、消えていこうとしている。どうにかしてあげたいと心から願ったが、どうしてあげたらいいのか、まるでわからない。

 いまこの場において、私のところに来て欲しいなどと無責任なことをほざくべきか否か。

 あるいは、私の一位はいっちゃんであると、出鱈目のようにほざいてしまうべきか否か。

 隕石で頭の天辺から燃えてなくなりたいと願ういっちゃんには、相応の理由がある。口先だけでその絶望を少しでも和らげることは可能なのか。

 なにか言わなくちゃ。なにか言ってあげなくちゃ。気持ちがせっつく。咳をする。

「いっちゃん」

 私はいっちゃんを離して涙を拭い、真正面に立った。

 寂寞に揺れる瞳。悲愴と夕暮れに染まった顔。

 このままでいいわけがない。でもどうする。

 場当たり的に呼んだ名前。先のない言葉。どうすればいい。

 わからない。正しいことなんて、なにもわからないけれど。

「私は――」

 私には、この世に滅んで欲しいと願うその理由も。

 いっちゃんの人生が、消えたくなるほど面倒なことも。

 なにひとつ、どうにもしてあげられないけれど。

「私は、いっちゃんの友達だよ。隕石落ちてもさ」

 家が燃えても。学校が砕けても。空が燻されても。地殻が割れても。海が蒸発しても。

 たとえば目の前でそうやって、世界がうっかり終わっちゃっても。

「もし隕石で全部ぶっ飛んでも、いっちゃんの隣にいられるなら……」

 そんな時でさえ、いっちゃんが中二病のまま、世界なんてくだらないって笑ってくれるのなら。そんなふうに、いつでも、いつまでも、いっちゃんが変わらないでいてくれるのなら。

「私は他に、なにもいらない」

 とにかく、いまの私に言えるすべて。

 いっちゃんは虚を突かれたような表情をして、ぷいと向こうを向いた。

 柔い風が川辺の葦原を撫ぜて、ざわざわと音を立てる。

 ざわつく戸惑い。私の感じる焦りと同じもの。風が止めばなくなる音。焦りは消えない。

 あの葦のようにしっかりと根を張って、次の風までただ待っている。焦燥がじくじくとひりついて、無能な私を責め立てる。

 なにひとつどうにもならないのなら、せめてなにかひとつでもしてあげられたら。

 時間がない。あと数日しか一緒にいられない。

 なにをしてあげられる? なにをしたらいい?

 いっちゃんの人生が、こんなにも痛ましいままで終わってはいけない。

 なにかひとつでも、楽しいことがないといけない。

 楽しいことがないのなら――つまらないことを、面白がってやらないといけない。

 いっちゃんの見つけた〝中二病〟という処世術なら、こんな時どうする。

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