18
座ってからしばらく、いっちゃんはなにも言わなかった。
蒸した草と、土と、少しどぶ臭い川の匂いに満たされながら、その横顔をじっと見つめる。
言葉を、話の端緒を選んでいるのか、頭を掻いたり、しきりに喉を動かしたり、それでも視線はずっと遠くを見たままだ。対岸で散歩をしているおじさんがいるけれど、きっとあれを視ているわけじゃない。
どこに思いを馳せているのか不明なまま、いっちゃんはようやく話し始めた。
「昔さ、兄ちゃん、いたじゃん」
「うん、そうだね」
「まあ、いなくなっちゃったけど」
言いながら、踵でざりざりと地面を削る。その仕草を見て思い出した。いっちゃんが座っているところはいつもお兄さんが座っていた場所で、こうして意味もなく地面を削っていた。
いっちゃんのお兄さんは少し歳が離れていて、私たちが遊んでもらっていた頃にはすでに高校生だった。倍近くも背が違っていたのに優しい笑顔が印象的で、鬼ごっこでもポコペンでもよく負けてくれていた。それが子供心にとても大人びて感じられていた。
そんな優しいお兄さんは、私たちが中学に上がった頃、忽然といなくなってしまった。
その時、書き置きのような、メモのような、くしゃくしゃになったチラシの端っこが、居間のテーブルの上に投げ出されていたらしい。殴り書かれていた最後の言葉は『こんなくそみてーないえ にどとかえってくるか』だった。
たった二十文字になにもかもを詰め込んで、お兄さんはいなくなった。この手紙をきっかけに、いっちゃんの口癖に〝クソみたい〟が加わった。
なんで全部ひらがなだったのか。なにが〝くそ〟だったのか。柔和だったお兄さんが、どうしてそんな激しい言葉を吐いたのか。暗号じみていて、ひどく抽象的で、人が消えるにはあまりに寒々しくて、本当の意味は一切、誰にもわからなかった――。
「っていう、ふりをしてたんだ、あいつらは」
「ふり、って……?」
「メモの〝くそみてー〟の意味がわからなかったのは、僕だけだったんだ。ジジイもババアも兄ちゃんがなんで出てったのか、知ってるはずだった。なのに警察呼んで大騒ぎして、怒鳴ったり泣いてみせたりしてたんだ。たぶん世間体のためにさ。あいつらは、あいつらだけは……全部知ってたはずなのに」
初めて聞く話だった。いっちゃんが憎々しげに顔を歪ませる。怖い顔だ。
「実は出てってから一週間くらい後になって、僕の携帯にメールが届いたんだ。兄ちゃんのアドレスで、すげー長いのが。携帯は置いてってたから、たぶんネカフェとかから送ったんだと思う。それを読んでやっとメモの意味がわかったんだ」
いっちゃんはスマホを取り出し、メールボックスを開いて、一通の削除防止ロックのかかったメールを見せた。
それによると、事の発端は出て行く前日のこと。
お兄さんは当時ここの最寄り駅から五駅離れたところにある大学に通っていたが、その日は教授が体調を崩してしまい、半日で帰ってよいことになった。
急な休講だったので遊ぶ友達も捕まらず、特に用事もなかったお兄さんは家に直帰した。
そこでお兄さんは玄関に見知らぬ男物の靴があること、そしてリビングから聞き慣れない女の嬌声が上がるのを聴いた。
回数を重ねて油断したのか、はたまた経験によって驕りが生まれたのか。
いっちゃんのお母さんはよりにもよって自宅で浮気相手とまぐわう愚を犯し、間の悪いことにお兄さんはそこへ鉢合わせてしまったのだ。
そのままリビングへと上がり込んでいく勇気は湧かなかった。ショックと混乱が大きかったお兄さんは扉を叩きつけるようにして踵を返し、夕飯の時間まで帰らなかった。
その夜、何事もなかったかのように夕飯を並べるお母さんと、珍しく早く帰宅したお父さんが同席し、久しぶりに家族揃っての食事を摂った。
「僕、嬉しかったんだよ。久しぶりにみんな揃ったなって思ってさ。ジジイはいつもと変わんない仏頂面だったけど、ババアがなんか上機嫌っぽくて、よく笑って、喋って……兄ちゃんだって笑いながら冗談カマしてた。ほんとに楽しかったんだよ、久しぶりにさ」
その翌日――お兄さんはくしゃくしゃのメモを一枚残し、家を出た。長いメールの前半は、そういうあらましが書かれていた。
続く後半に、お父さんの浮気についてはその前から気づいていたこと、玄関を飛び出す時、叩きつけるようにして扉を閉めたので、いっちゃんのお母さんは間違いなく誰かにその淫行を気づかれたのを知っているはずだということ、なのに平然と振る舞う姿を見て、とても耐えられなかったこと、それまでお母さんだけはと思って信用しようとしていたが、決定的に裏切られて人間不信に陥ったこと、それゆえに両親がなにを思い、なにを考えているのかまったく理解できず、恐怖し、信じられなくなり、家を飛び出したと綴られていた。
「そのメールのちょっと後に、僕の携帯に一回だけ公衆電話からかかってきたんだ」
いっちゃんが電話を取ると、相手はやはりお兄さんだった。
ひどく憔悴しきっていて、ほどなくして泣き出したらしい。
「一葉ごめんな、弱虫な兄ちゃんでごめんなって、何度も何度も謝るんだ。どう答えたらいいのか、なんで謝ってるのかもわからなかった。僕もわけわかんなくなって、ぐしゃぐしゃに泣きながら、とにかく何度も帰ってきてくれって頼んだ。兄ちゃんから真相を知らされて、僕もあいつらを信用できなくなって、もう家族は、僕にとっての家族は……兄ちゃんしかいないと思ったから。でも兄ちゃんは帰るとは言わず、ただあいつらを信じるなって言った。いまの俺は全然冷静じゃない、だから人間不信なのもそのせいかもしれない。でもあいつらだけは本当にどうしようもないクソ嘘吐きだから、信じるなって」
そしてお兄さんは最後にこう言った。
必ず迎えに行くから、そこから必ず救い出してみせるから、と。
しかしその言葉が本当になることは、なかった。
「あれから五年も経つけど迎えになんて来ないし、僕に召集令状が届いたことをメールで何度送っても、なんの返事もなかった。いまどこでなにしてるのか、全然わからない」
あまりにも凄絶な話に、胸の左に寄ったあたりがぎちぎちと軋んだ。吐き気を伴う緊張と恐怖が内側から刺して、残夏が漂う気温に相反するように手足が冷えてくる。
他人の心に無尽の闇を感じる私には、お兄さんが感じたであろう混乱や不信がどれほど計り知れない恐怖だったのか想像できる。最も信頼すべき家族がそんな闇を宿していると悟った時、談笑しながらご飯を食べていたりしたら、同じように逃げ出していたかもしれない。
それでも私は、お兄さんが許せなかった。
必ず救うとまで約束して、こんなに追い詰められても最後まで信じようとしたいっちゃんを裏切り、呆気なく消えたまま、たった一言すらもないなんて。
「勝手な奴ばっかりだ。普段は法律を振り回して正義の代弁者ヅラで離婚訴訟の弁護を引き受ける立場の奴も、息子がいなくなったのに平気な奴も、約束を破って消えた奴も、きっとハッピーに暮らしてやがる。狂気の沙汰だ。どいつもこいつもあっさり僕を忘れやがって。あいつらにとっちゃ浮気相手や自分のほうが大事なんだ」
急にいっちゃんが立ち上がった。そして自分の中に決まりきった答えを踏みしめるように、一歩、一歩と、強い足取りで歩み出す。
「だからクソみたいに……僕も消えてやろうと思った。なんでこんな連中にずっと傷つけられ続けなきゃいけないんだって思ったから。人を人とも思わない、誰かを傷つけたってなんとも思わないクソ人間どもが、他にもうじゃうじゃいる。だからこんな世界、KA線なんか湧いてこなくたって滅ぶに決まってるし、勝手に滅べばいい。でもそんな奴らに、世界に負けたって認めるのが悔しくて死ねなかった。どうせ死んだってあいつらは毛ほども傷つかない。僕が消えるように世界ができてるなんて、認めたくなかった。悪いのはあいつらだ」
物事にはべったりとした一色じゃなくて、重なりあった曖昧な灰色の部分がたくさんある。
そんな灰色に白と黒を塗りつけるのは、勇気と決断の差。私に足りないもの。
いっちゃんだって最初から家族を嫌っていたわけじゃない。灰色だった部分が少しずつ黒く染まっていったのだ。家族という形を失った家に帰るたび、少しずつ、少しずつ。
やがていっちゃんは、苦しみからの決別を選ぶようになった。
それこそが消失への願望、希死念慮の正体――〝消えたい〟という思いだったのだ。
「なあ、僕はクソ中二病で散々電波なことを言いまくってて、家にもろくに帰らない親不孝者って思ってただろ? でもゾゾエ、これだけはわかっておいてほしい。そうやってはっちゃけてなきゃ、耐えられなかったんだ。勝手に家族をやめてくあいつらがいる家以外に帰る場所もなくて……とても、耐えられなかったんだ」