17
この言葉が優しいものなのか、この行動が本当に勇気を出すきっかけになるものなのか、はたまた、いっちゃんに対してもそうなのか、それはわからない。自信がない。どきどきと心臓が跳ねる。やはり間違っているんじゃないのか。もっと他にいい言葉があるのでは――。
石ころを詰め込まれたような喉の痛みに負けそうになり、挫けかけた時、やっといっちゃんが顔を上げてくれた。それはいまにも泣きそうで、それでもひどく淡く、些細な衝撃で壊れてしまいそうなほど薄く、笑っていた。
「なんていうか……なんだろうな。どっから話し始めたものやら、と思ってさ……」
その笑顔は先週の金曜日、告白をしてきた時と同じ顔だった。駄目な自分を、その場を誤魔化そうとする、呪いのような嘲笑い。
はっきりしない、断定しない、直視しない。そんな曖昧さを、私のようなグズが抱くそれを、いっちゃんもまた抱えている姿を目の当たりにしているようで、悲しくなった。
「それならさ、訊いてもいい?」
私の問いかけに、いっちゃんは浅く頷いた。
「この前の金曜日に言ってた言葉を思い出して、今朝までずっと考えてたんだけど……いっちゃんが最近死にたいって言ってたのって、それは言葉の綾っていうか、ほんとはそうじゃなくて……ずっと、消えたいって思ってたんじゃないの? 招集命令のことをみんなに隠すのも、黙って消えちゃうためじゃないの?」
決死の覚悟で、正解かどうかもわからない答えに踏み込む。
まるで的はずれなことを言っていたら、触れてほしくないことに触れていたとしたらどうしよう。でも口から出してしまった言葉を、今更飲み込むことはできない。
臆病で崩れそうになる足へ懸命に力を込め、いっちゃんの答えを待った。
少しの間の後、いっちゃんは頬を掻きながら、乾いた笑いを漏らした。
「そっか……やっぱゾゾエにはわかっちゃったか」
その肯定は、今日までいっちゃんが見せてきた言動の意味を理解させるものだった。また私の考えが正しいということでもあった。
中二病でカモフラージュして言い続けた滅亡の言葉。一緒に下校した後、どう過ごしても最後にはふいと消えてしまう行動。そうしてこの世から自分をもぎ取ろうとする絶縁と消失の欲求。それが誰にも知られなかったとしたら、闇から闇へ、存在が消えてしまうのに。
そんな消えてしまうための真意なんて、理解したくなかった。
「どうして……? そんなの、わからないよ……。全然、わからない。消えたいだなんて、誰にも自分のことを覚えててもらいたくないってこと? そんなの、怖くないの? 悲しくないの?」
「だからゾゾエには教えたじゃないか」
「それはっ、そうだけど……じゃあローちゃんたちは? どうしてみんなには教えないの?」
そこでまた、いっちゃんは押し黙ってしまった。
次はどんな恐ろしい真実が飛び出すのかと思うと、逃げたくて堪らない。
でも、それを聞くと決めた。いっちゃんがどんな思いを持っているのか、どうしてこんなに追い込まれてしまっているのかを知るために。
ひっくり返りそうなほど緊迫する鼓動に痛みを感じながら、いっちゃんの言葉を待つ。
「うまく、言えないけど……よくわかってない奴に、妙な同情をされたくないんだ」
やっと答えたいっちゃんは眉根を寄せながら唇を少し噛み、肩を震わせる。
そうして千切れそうな言葉を、懸命に紡ぐ。
「召集命令のことを知ったら、僕のことを知らない連中は、これから死ぬことを同情するかもしれないだろ? それがどうしても嫌なんだ。僕の人生は……これから死ぬことが決まったから辛かったんじゃない。そんな軽々しい理由でずっと消えたかったわけじゃない。令状なんかが届くもっと前から、ずっと、ずっと……消えたかった。安い同情なんかで、僕の人生の辛かったことを全部召集命令にすげ替えられるなんて、絶対に嫌なんだ」
言葉にしてもらってようやく明瞭になる、複雑な思い。
確かにいっちゃんが希死念慮を抱いていたことに、召集命令は関係ない。深い事情を知らないローちゃんたちにこのことを知らせても、召集命令を受けたからこその絶望なのかと誤解しかねないだろう。
そして今日この日まで苦しんできた理由を、どこから話し始めればいいのかわからない。そもそも、積極的に話したいことでもない。だから内緒にせざるを得ない、ということか。
「それに……僕がこれから死ぬ、なんて話をして、あいつらがどんなリアクションをすんのかって考えたらさ、怖くて堪らないんだ」
いつも真っ直ぐに前を見据える目が、地面ばかり這っている。
情けなく、弱々しく、孤独なその姿は、あまりにも痛々しかった。
「もし微妙な顔でもされたらどうする? 一生懸命ゆるい励ましのコメントでも考えだしたりしたら? そう考えたら……なにも言えなくなった。僕の苦しさをわかってもらえるかわからない相手には……怖くて、なにも言えなかったんだ」
怖い。いっちゃんが、怖がっている。その言葉を聞くまで、私はそんな感情をいっちゃんも持ち合わせることを、ぽっかりと失念していた。
私の中のいっちゃんはずっと頭がよくて、運動神経がよくて、可愛くて、優しくて、電波で、毒舌家で、短気で、自分勝手で、楽しい、超越的な人だった。
自分のいいところも悪いところもすべてをわかった上で、妙ちきりんな思考と言動を以って日々の退屈を鮮やかに彩ることのできる人。人が最も恐れるべき二つの怪物――世間体と退屈を容赦なく思い通りの色に塗り潰す強さを持っている。そんないっちゃんがなにかを恐れるなんて、露ほども考えたことはなかった。
しかし実際、いっちゃんとて私と同じ、高校二年生の少女だ。趣味嗜好に違いがあるだけの、ちっぽけな存在なのだ。
どんなに世間体を壊し、退屈を塗り潰そうとも、日々なにかに痛み、苦しみ、怖れる。無敵の超人なんかでは、断じてないのだ。至極当たり前のことに今更気づかされて、同時にいっちゃんの怖れを痛いほど理解した。
毎日顔を合わせている人々。母親。先生。クラスメイト。ローちゃん。ハルちゃん。なっちゃん。目をつぶってさえ顔が浮かんでくるほど、知りに知り尽くした人々。
でもそれはあくまで外面だけだ。みんな到底預かり知らない心内のどこかに、魔物や狂信を飼い慣らしているのかもしれない。あるいは清廉な泉のように純粋だけが満ち満ちているのかもしれない。そんなことは、どうやったってわかるはずがない。
だから自分のことを理解してもらうには、まず自分のことを説明する必要がある。しかしそうしたからと言って、必ずしも理解を得られるとは限らず、その上〝正しい〟――自分が期待する理解が得られるとも限らない。
語彙の拙さか、弁舌の下手か、あるいは――心の有り様の違いのせい。誰かとすれ違うことへの臆病が、発言の勇気を奪う。そうして怖じけると突き当たりには恐怖の根源、すなわち下手な真似をして嫌われたくないという究極に行き着く。
かくなればもうおしまいだ。どうにもならない。私の場合は背を丸め、顔色を伺い、同調と保留を使いこなす狡猾さを育てることしかできなかった。
これはひどく生き辛い。本来望んでいる方向とは逆へ逆へと進んでしまう。理想や願望からどんどん遠ざかっていくのに、それを自分で止められなくなる。本当は幸せに向かって行きたいのに、そうすることはきっと簡単なはずなのに、抗うことのできない引力に引かれてしまうようになる。
いっちゃんの人生が消えたくなるほど辛い所以は複雑に縒り合わさっていて、これはその内のひとつにすぎないのだろうが、これなら私でもわかってあげられる。
私は重ねた手の上に、もう一方の手も重ねた。
「嫌なこと訊いて、ごめん。誰かにわかってもらえないかもしれないって気持ちは……それだけは、わかる」
「ゾゾエ……」
「それでも聞かせてほしいんだ。消えたくなった理由を、全部。いますぐにはわかってあげられなくても、わかるようになるまで何度も何度も考えるから。だからお願い、教えてよ。このまま一人でなにもかも抱えたままなんて……いっちゃんが辛いままなんて、嫌だよ」
これはいっちゃんに勇気を振り絞ることを強いる願いだ。言い損になるかもしれないことを言わなければならない残酷だ。
それでも、私は知りたい。
毅然の欠片もない、迷いと憂いで揺れる瞳。触れた手からも心の声が伝わってくる。
どうしよう、どうしよう。些細なことですぐに狼狽える私の口癖と同じもの。答えが出せないことへの焦りによるもの。
地を這っていた視線が、やっと私と結び合った。
「……わかった。この際だ、全部ぶち撒けちまおう。もうこんな機会も……ないだろうしな」
もうこんな機会はない――寂しい物言いだった。
いっちゃんは土手の下のほうを指した。
「降りようぜ、あそこ。久々に、我らが秘密基地にさ」
秘密基地。それは名ばかりで、周囲から隠れているわけでもなければダンボールの壁さえない、土手へ降りる階段の最下段のことだ。
いっちゃんのお兄さんがいた頃、毎日のようにこの河川敷に集まって三人で鬼ごっこしたり、ポコペンしたり、宇宙人を探したりしていた。そうして疲れると決まってそこに並んで座って、ぼんやりと玉緒川や夕日を眺めた。
しかしお兄さんがいなくなってしまった頃からは、やはり一人足りない感覚がどうにも空々しくてなんとなく寄り付かなくなり、やがて秘密基地ではなくなった。
階段脇のスロープを利用して自転車と共に降り、並んでそこへ腰掛けた。そこから見る夕日と玉緒川は懐かしく、それでいてやはりどこか空虚な感じがした。