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 結局、五限目も六限目も授業を上の空で聞き流し、いろんなことを考え込んでいるうちに放課後になってしまった。

 ハルちゃんとなっちゃんは新刊の漫画を買いに行くと言って先に帰り、猛スピードで私の宿題を丸写ししたローちゃんも急用があると手刀を切りつつ、素早く帰ってしまった。

「あのスイーツ脳、急用なんて絶対嘘だぜ。どうせ彼ぴっぴとデートだろ。そのためにゾゾエを利用しようとはふてえ野郎だ。いっぺんあいつには資本主義ってもんをとっくり聞かせて、世の中は無料サービスばっかりじゃねえってのを教えてやらねえと」

 夕暮れの差し込む廊下を職員室に向かって並んで歩く中、いっちゃんはシャドーボクシングのように何度も拳を突き出す。ここにはいないローちゃんを、打ちのめしているつもりなのだろうか。私は苦笑しながら、崩れかけたプリント束を抱え直した。

「まあまあ、別にいいんじゃない? これでローちゃんが幸せになれるならさ」

「お人好しだなあ。お前、どんなに困ってるって言われても、壺だの絵だのって抜かす奴の話だけは聞くなよ?」

 いっちゃんは真面目な顔をしていたが、妙な絵や壺を持ったローちゃんやハルちゃん、なっちゃん、そしていっちゃんの誰かが本当に困り顔で目の前に現れたら、と想像したら笑ってしまった。さらには四人それぞれに異なる個性で売り込まれたら、断りきれず買ってしまいかねない弱い自分にも想像が及び、怪しげなグッズに囲まれた自分の姿は余計に笑えた。

「おい、なに笑ってんだ」

「別に、なんでもないよ」

「なんだよ、言えよ。気になるだろ」

 一人で忍び笑いを漏らしていたのが気に障ったのか、いっちゃんも悪戯っぽく笑いながら執拗に脇をくすぐろうとしてくる。プリントを抱える私はかなり不利だったが、なんとか崩さずに避けきって職員室に辿り着き、無事に日直の役目を果たした。それからまたいっちゃんと横並びになって、誰もいない廊下を歩いた。

 野球部の轟かせる金属質なバッティング音や陸上部の掛け声、吹奏楽部の調子はずれなエチュードなんかが感じられる。開けられた窓がぬるい風に吹かれて、カタカタ鳴いている。

 遠い、近くの日常音。世界音。聞き慣れたこんな音が改めて好きというほど特別ではないけれど、もしいきなりシュンと消えてまったく無音になったら、今朝のように不安で居た堪れなくなるに違いない。

 耳腔に僅かだけ後を引く、聞こえているような、聴いていないような音。それは音の空気とでも言うような、あって当たり前、吸えて当たり前で、もしなくなれば死がそわりと這い寄る、満ちていて当然のもの。その中には相変わらずごった煮のような言葉を並べ立てる、いっちゃんの騒々しい声もある。

 昇降口を出て、駐輪場に向かういっちゃんと一旦別れた。そして校門を出たあたりで待ちながら、眼下に広がる茜色に染まった町並みをぼんやり眺める。

 私たちが暮らす西山区には、真ん中を貫くように玉緒川という曲がりくねった一級河川が流れている。区の名前が示すとおり元は山だらけだった場所なので、街全体が小高く、坂道も多い。その山々は二本の国道を通す時にかなり削られたので、いまはこの西山高校がある西山周辺の標高が一番高い。

 また近年、隣の中央区において駅ビルやオフィス街の開発が進められた影響と、数十年前に隣の県の一部がZ地区化し、特災疎開してきた人々が移り住んだ影響で、西山・中央区周辺の人口が急増した。そのため玉緒川より西側にあった山をさらに切り開いて、ニュータウン化した。だから区内面積の約二割は新興住宅地である。ニュータウンは中央区のベッドタウンとしての機能も期待されたため、一軒家よりマンションやアパートなど集合住宅が多い。

 また古くから町と町とを繋ぐ交通の要衝としてそれなりに栄えていた歴史から、ニュータウン化以前より川の東を縦断する南北の国道、川を横断して東西に続く国道が西山の麓で交わっている。ニュータウン造成の際にこの東西国道へ向けて直線的に道路や地区が区画されたので渋滞が少なく、車所有者にとっては住心地がいいと評判だ。

 反面、玉緒川より東側には古い町並みと旧街道がそのまま残されている。だから国道からちょっと脇道に入るだけで、狭い一方通行路や三叉路、五叉路などの煩雑な道が蜘蛛の巣のように巡っていて、地元民以外には非常にわかりにくい。

 数駅向こうの中央区は人も車も建物もひしめくハイセンスで現代的な街なのに、ここはそれに比べれば閑静で、いたるところがどこか暈けていて、川や風の流れる音がよく聞こえる。

 中央区と同じ市にあるとは思えない、奇妙なアンバランスさのある町だ。

「おまたせ」

 いっちゃんが自転車を引きながら戻ってきたので、私たちは並んで高校の前の坂道を下り始めた。

「こんなキツイ坂道を毎日毎日登ったり下りたりさ、無駄の極みだよな。スクールバスとか出ないもんかね」

「そりゃあればいいけど、公立だし無理でしょ。っていうか、こんなちょっとの距離じゃん」

「ちょっとだから余計に面倒なんだろ」

 坂道を下りきったら、右に曲がる。そのまま道なりにしばらく行くと、南北縦断の国道が見えてくるから、これを渡る。

 それから少し進んだ先に見える四ツ辻を左。すぐにぶつかる三叉路は右。そうして左手側に玉川神社が見えてくるこの道を真っ直ぐ行けば、東西横断の国道に繋がっている。

 車がギリギリ二台通れる程度の幅しかないこの道は、国道が通るまで南北を繋ぐ幹線だった旧街道で、昔はそこそこ賑わっていた商店街だったらしい。

 その面影はそこかしこに残っていて、店名が書かれている剥がしそびれたままの看板だとか、色褪せたポスターだとかが、ずっと閉じられたままのシャッターが居並ぶ中にぽつぽつ続いている。いまでも営業しているのは煙草屋と、駄菓子屋と、郵便局くらい。国道沿いを行けばこんな入り組んだ道を行く必要はないのだが、私たちはいつもこの道だった。

 飽きるほど通い慣れた、古ぼけた旧街道。割れたバケツ。夕暮れに照らされて佇むくたびれた街灯。使われなくなって風化しかけている三輪車。どこかから響いてくる楽しげな小学生たちの声。無造作に生えているコスモスやヨメナ。からからから、今日はいっちゃんの自転車だけが鳴らす空転。

 私たちは歩きながら、いつものにように他愛もないことを喋り続けた。

 いっちゃんが昨日ネットの掲示板で戦ったニートと思われる男の話。また消費税が上がりそうな話。新作アニメが不作続きで面白くない話。国会で居眠りしていた間抜けな議員の話。ゲームのボスがいつもあと一撃というところで倒せない話。世界の話。神様の話。

 朝、あれほど鮮明だった恐怖をまったく感じない。世界が急に優しくなったかのような安心がちゃんとあって、迷いもせず、気遅れることもなく、足を地面に着けていられる。

 ああ、これなのだ。いっちゃんがいてくれることで、ようやく日常が私の目の前に現れる。

 どうしてか満たされない気持ちを抱えて、話しても話しても次から次に話題が繋がって、少しでも同じ時間を過ごしたいと思ってしまう我儘を、お互いに我儘とも思わず過ごす幸福。いっちゃんのいる世界は活き活きと煌めいて、こんなにも簡単だ。

 古びた商店街を抜けると、東西横断の国道に出る。右手に進めば玉緒川を渡る、玉川橋という大きな鉄橋が見えてくる。そこを渡ってまた右に曲がれば、今朝トマトスープをぶち撒けた堤防沿いの道だ。

 恐ろしさに追われるあまり吐くまで走ったこの道も、いっちゃんさえいてくれたらなんのことはない。

 そう、いっちゃんさえ、いてくれたら――。

 いなくなった後のことは、なるべく考えないようにして歩く。

 そこらに差しかかったあたりで、急に会話が途切れた。

 いっちゃんの視線が心持ち落ち着かない。奇妙な沈黙に心音が少しずつ上がっていく。

 土手道の真ん中でなんの前触れもなく、いっちゃんが立ち止まった。歩調を合わせて歩いていた私は、すれ違うようにいっちゃんを三歩ほど追い抜いてしまった。

 振り返ると、自転車のハンドルをきつく握ったまま、地面を睨みつけるように俯いていた。

「あのさ」

 そう言ったきり、いっちゃんは黙り込んだ。

 胸を締め上げられるような沈黙の間に流れる風と水音。玉川橋を行き交う車のエンジン音。

 妙な緊張に割り込むように、間延びしきった町内放送が流れ始める。

『こちらは――西山区広報です――只今より――五分後――〝てんくう〟による――防護措置が――実施されます――区内上空が――照射範囲に――設定されました――照射より十分前後――携帯電話の周波数帯に――乱れが生じることがあります――通話やネット回線使用の際は――ご注意ください――』

 遠くから響く機械的な女性の声が、うわんうわんと夕空に反響する。南の方向を見遣ると朱色の中に黒々として不吉な砲台が、こちらに向かってゆっくりと旋回していた。

 それからしばらくしてようやく、いっちゃんの一言が零れ落ちた。

「保健室で……お前が言ってたことだけどさ」

 俯いたまま、消え入りそうなほど掠れた声で呟くいっちゃんの姿は、先週の金曜日に召集令状を取り出そうとして、そうすることを迷いに迷っていた時と重なって見えた。高まり続ける心音が一段跳ね上がるのを自覚しながら、ゆっくりと言葉の続きを待った。

 しかし言葉は途切れてしまったまま、繋がらない。そんないっちゃんを嘲笑うかのように二度目の町内放送が繰り返され、私たちに覆い被さってきた。

 小さく口を開いたり、唇を噛み締めたりしているから、なにかを言いたいのだろうということは伝わってくる。私は離れた三歩を詰めて、いっちゃんの横に立った。どんなに小さな一言も聞き漏らしたくなかった。

 川面を渡るぬるい風に打ち鳴る葦原の、ざわざわという音が周囲を満たす。

 暮合の輝きが川面に乱反射して、きらきらと美しいスペクトルを描く。

 その風景の中で拳を握り締めて口を結ぶいっちゃんは、いつもよりずっと小さく弱々しくなってしまったように見えた。

 どうしよう、どうしたらいい。焦燥がちりちりと胸の内を焼く。

 こんな時、私ならいっちゃんにどうしてもらえたら、なんて言ってもらえたら勇気を――そうだ、そう考えたら。

 臆病で決断力に劣る自分を基準にしたって、どうせなにも思いつかない。ならいっちゃんに言われて嬉しかったこと、してもらって助かったことを思い出してみよう。

 その時、今朝方ベッドで浮かべていた煩悶が脳裏をちらと掠めた。羞恥と自己嫌悪。私のようなクズが友達面をする薄ら寒さ。こんな人間に誰かの心へ踏み込む資格があるのか。

 いや――その資格とやらがあるとして、それはいつ私に宿る?

「大丈夫」

 そう、大丈夫。自分といっちゃんに、その言葉を言い聞かせる。

 逃げている場合ではない。目を逸らしている場合ではない。もう明日や明後日の自分になんとかしてもらう状況ではないのだ。いちいち(こぞ)る気怖じに構っていられない。

 騒ぎ出す逃走本能と臆病を必死に押さえつけ、緊張でにわかに痛み出した喉頭を左手でぐっと押し殺し、普段なら決して踏めない選択という名の勇気を、強く踏み込む。

「私は、ちゃんと聴いてるよ」

 精一杯の心を込めて言い、固い拳の上にそっと右の手のひらを重ねた。

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