13
そのまましばらく、私が泣き止むまで待っていてくれた。ほとんど私から目を逸らさずに、でも、私を見ているふうでもなかった。なにか考え事をしているような。
やがて二限目の終わりを告げるチャイムが聴こえて、ようやく私たちの時間が動き出した。
「授業、戻れそうか?」
「うん、もう平気。三限目が始まっちゃうね。急ごっか」
まだ少しだけズルズルと音を立てる鼻を啜りつつ、いっちゃんの後に続いて廊下を歩いた。
「あっ、ゾゾエたちが戻ってきた!」
教室に入るとローちゃんたちがすぐに気づいて、私の席に駆けつけてきた。
「もー、大怪我したのかってびっくりしたわ。ゾゾエ、大丈夫?」
ローちゃんが体操服の袖を引っ張ったりしながら、私の身体をあちこち眺め回す。
「大丈夫だよ。さっきも言ったけど、あれは血じゃなくてトマトスープだからさ」
もう何度も使った言い訳をまた繰り返しながら、私は平静を装って笑った。
「やめやめ、ローさん。いっさんが困ってるにゃ」
「そうだぞミチコ。傷病兵は丁重に扱え。それがジュネーヴ条約ってもんだ」
「なにがジュネーヴよ。こんな時までわけわかんないこと言わないでよ、中二病!」
「ローちゃん、私はほんとに大丈夫だから、そんなに心配しなくても……」
いっちゃんはきっと私を気遣い、努めていつもどおり振る舞おうとしてくれているだけなのだが、私たちのやり取りを知らないローちゃんにはそれが伝わらない。私のせいでいつもの一戦が始まりそうになり、おろおろしていると、なっちゃんがそれを遮った。
「二人ともうるさい。弱り目の望依を挟んでなにやってんの。しょーもない戦争は昼休みだけにしてよね」
ピシャリと言われた鋭い一言に二人とも押し黙り、ぷいと横を向いた。それに構わず、なっちゃんがプリントを差し出した。
「はいこれ、来週までの宿題だって。中山先生から預かっといた」
「あ、ありがとう」
そのプリントを受け取ったところで、ちょうど三限目のチャイムが鳴った。
現国担当の大島先生が入ってきて、集まっていた私たちに怒声を飛ばしてきた。
「ほらあ、いつまで騒いでんだ。さっさと席に着けっ」
一喝されたローちゃんたちが慌てて席に戻ってゆき、そこで先生と目が合ってしまった。私だけ体操服姿なので、目に留まったのだろう。
指されたくないと思って慌てて目を逸らしたが、大柄でのしのしと歩き、いつも仏頂面でやたらと意地が悪いことから生徒の不人気を買って〝不機嫌ゴリラ〟などと呼ばれる大島先生が、そんな私を見逃すことはなかった。
「おい、向島!」
「えっ、あっ、はいっ! な、なんですか?」
「なんですかってことはないだろう。お前、この前も今日も遅刻したそうじゃないか。来週から中間テストだっていうのに、そんなんでいいと思ってるのか?」
「は、はあ……すみません……」
いまにも爆発しそうなほど心臓が跳ね上がり、また猛烈な吐き気が胃から遡ってくる。
謝罪はなんの効果もなかったようで、大島先生は大きく鼻を鳴らしただけだった。
「学校をなんだと思っとるんだ、ったく……もういい。じゃ、前回の続きから読んでくれ」
大島先生は不機嫌を隠そうともせず、手元の教科書をパンパンと手の甲で叩いて無慈悲に言い放った。ページ数を指定されず急に前回の続きからと言われて、私は恐慌に陥った。
ひとまず立ち上がって鞄の中を探り、現国の教科書を探す。
けれど焦る手は、たったそれだけのことがうまくできない。
「なんだ向島、授業の用意すらしとらんのか。まったく、いったいどうなっとるんだ!」
先生の怒声に怯え、剣呑な視線を総身に感じ、焦れば焦るほどに目の前が、頭がどんどん真っ白になっていく。
「ゾゾエ、ほれっ」
その時、前の席に座っているいっちゃんが小声で教科書を差し出しながら、とんとんと読むべきところを指差してくれた。
それを受け取り、しどろもどろになりながら読んで、ほうほうの体で席に座った。
「ごめん、ありがと」
まだばくばくと暴れる胸を抑えつつ、教科書を返して小声でお礼を言う。するといっちゃんはニヤリと笑って小さくピースをしてくれた。
それがまた大島先生に見咎められて、先生の矛先がいっちゃんに向いてしまった。
「おい日ノ宮、お前も油断してると成績が下がるぞ」
「そうですかあ? でもだいじょぶだいじょーぶ、俺たちに明日はねぇからぁ!」
いっちゃんは剽げた仕草をしながら、流行っているお笑い芸人のフレーズを真似した。
それでクラス中がどっと沸いてしまい、収拾がつくまでしばらくかかった。そのフレーズで心から笑っていなかったのは、たぶん私だけだっただろう。しかしその騒ぎのおかげで私たちへの追求は有耶無耶になり、そこからは滞りなく授業が進んでいった。
そうして三限目が終わり休み時間になったので、改めていっちゃんにお礼を言った。
「さっきはありがとね。ほんと助かったよ」
「おーけーおーけー、気にするなよ。しかし今日も相変わらずクソゴリラだったな。普通、どう見ても保健室帰りの奴をあんな槍玉に挙げるか? やっぱあのゴリラはサイコパスだ」
いっちゃんがサイコパスゴリラの真似、と言いながらおかしな表情で大島先生を散々に貶す姿に笑っていると、ローちゃんがするすると近寄ってきた。
「ねーねー、地理の宿題のプリントさぁ、やってきた? あたし、うっかり忘れてたんだよねぇ。お願い、どっちか見せてくんない?」
両手で拝みながら、八重歯を覗かせつつ悪戯っぽく笑ってみせる。家で勉強しない主義を標榜するローちゃんは、いつもこうして宿題を見せてくれと頼みに来る。
「へっ、こんな時ばっかりメスになりやがって。お前だけにゃ死んでも見せねえ」
「いいよ、ローちゃん。私のでよければ」
「さっすがゾゾエ、話がわかるぅ! じゃ、借りてくね!」
しかし私がプリントを手渡そうとしたところでチャイムが鳴ってしまい、地理担当兼二年四組の担任である穂積先生が教室に入ってきてしまった。結局間に合わなかったローちゃんは小さな悲鳴を上げ、さも落ち込んだ様子ですごすごと自分の席に戻っていく。
「はい、今日は……っと、人口問題のところからでしたね。みんな、一一六ページを開いて」
先生が黒板に『先進国の人口問題と、KA線の影響による人口移動の関係』と書いたところで、前の方に座っている女子が手を挙げた。
「せんせー、宿題のプリントはどうするんですかー?」
「あーそうそう、宿題出してましたね。みんな、ちゃんとやってきた?」
ぐるり、先生が教室を見渡す。すると真ん中あたりに座っているローちゃんが手をこすり合わせて拝んでいるのが目に入ったのか、くすりと笑った。
「どうやらやってきてない人がいるようなので、プリントの回収は放課後にしましょうか。今日の日直は……向島さんと日ノ宮さんね。申し訳ないけどあなたたちで回収して、あとで職員室まで持ってきてくれる?」
先生は苦笑しながらそう言った。するとローちゃんが大袈裟なガッツポーズをしながら、大声でありがとうございますと声を張り上げたので、またクラスが沸いた。
そんな笑声の中、日直なのに遅刻してしまったことを思い出した。だから快く了承する意をいっちゃんと一緒に返しつつその背中を突き、こっそりと謝った。三限目のことといい、今日は謝ってばかりだ。実に情けない。
いっちゃんは気にする素振りも見せず、気障な笑顔でメロイックサインを返してくれた。罪悪感が募る一方、それだけで心が軽くなって、容易く安堵させられた。
安堵した途端、土曜日からあれこれ考え続けたせいか、それとも単に寝不足のせいか、急に睡魔が襲ってきた。
授業中に居眠りをする勇気の不在と強い睡眠欲が拮抗し、人事不省のまま操り人形のようにノートを取り続けた。次第に穂積先生の穏やかな声音が催眠術者のそれに変わり、相変わらずエアコンが壊れたままで記録的に蒸しあがった教室に充満する酷暑の中、どんどん教科書の内容が遠のいていく。
アメリカ南部の大規模な空白地帯が年々拡大を――特災疎開を受け入れた国では治安問題が――KA線によって著しく人口が減ったイギリスの経済基盤は危険な状態で――オーストラリアやカナダにある穀倉地帯の一部がなくなった影響で世界の食糧事情が――。
ああ、他人事。先週まで海の向こうの出来事だと思っていたこと。
夢見心地の身体が浮遊感に包まれていく。
ふわふわ、ふわふわ。
アメリカだの、オーストラリアだの、誰か見てきたことがあるのかな。教科書に載ってる衛星写真なんて、グーグルマップの画像を適当に加工したんじゃないの。
ふわふわ、ふわふわ。
絵空事なんじゃないのか。でも教科書も先生も、KA線は本当にあるのだと言っていて。
ふわふわ、ふわふわ。
みんな、こんなふわっとした話、なんで信じてるんだろう――。