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「きゃあっ! 向島さんどうしたのっ、血まみれじゃないっ!」

 二限目も半ばを過ぎたあたりの教室に入った途端、社会科担当の中山先生が悲鳴を上げた。

 そう言われてから改めて自分を見ると、白い夏服に吐いたトマトスープがあちこちに跳ねかかっていた。

「どうしたゾゾエ、車にでも撥ねられたのか⁉」

 誰より早く、いっちゃんが駆け寄ってきた。

「あ、や、これは大丈夫……朝ごはんで飲んだトマトスープを途中で吐いただけだから……」

 うまい言い訳を思いつかず、もごもごとあったままのことを言うと、中山先生は大きな溜息を吐いて、クラス中がどっと沸いた。

「もうっ、びっくりするじゃないの! とにかく、誰か保健室に……」

「大丈夫です、僕が連れていきます」

 入ったばかりの教室をいっちゃんに連れられて引き返した。背中のほうでまだクラスメイトが何人か笑っているのと、先生が手を叩いて授業を続けますよという声が聞こえた。

 いっちゃんは安堵したように息を吐いて、私の背中を叩いた。

「ったく、びっくりさせやがって。そのザマはどうしたんだ。ヤクザの事務所にカチコミかけた鉄砲玉みてーじゃないか」

「ごめん……」

「いや、まあ、そんな深刻に謝んなくても……。ほんとにどうした? お前がガチな遅刻をするなんて珍しいじゃないか。電話にも出なかったし、心配してたんだぞ」

 悲惨な私の姿をしげしげと眺め回すいっちゃんの後を、俯いたまま黙って歩く。

 あんなに会いたいと思っていたのに、いざ会ってみると今朝方に煩悶した恥や後悔がむくむくと蘇ってきて、なにを言えばいいのかわからない。

 急速に頭が冷えてきて、泣きじゃくりながら吐くまで走った自分がいかにも芝居めいていたように思えて、恥ずかしくなってくる。

 友人一人についてこんなに思い詰めるなんて、やはりおかしいのだろうか。世間のみんなは、こんなふうじゃないのだろうか。

「なあ、ほんとに大丈夫か? どっか悪いんじゃないのか?」

 いっちゃんが訝しみながら心配そうな声をあげる。そこでやっと自分の態度がまた妙な印象を与えかねない失態に気づき、努めて明るい声を捻り出す。

「全然大丈夫! 吐いたのはほら、食べてすぐ猛ダッシュしたからさ」

「チャリで?」

「ううん、自転車は出掛けにパンクしちゃって」

「なら吐くまで猛ダッシュしなくても。どんなに走ったって遅刻じゃん」

「そういえばそーだよね。なんであんな死ぬほど走ったんだろ。ウケるね」

 あはは、と慣れない作り笑いで釣られ笑いを誘ってみたものの、それには応えてくれず、訝しんだ表情を変えられないまま保健室に着いてしまった。

「二年四組の日ノ宮です。向島さんの具合が悪そうだったので連れてきました。あ、この赤いのは血じゃなくてトマトスープらしいっす」

 デスクで書き物をしていた保健の先生も私の姿を見るなり目を丸くし、あらら大丈夫 と声を掛けながら私を丸椅子に座らせて、淀みない手付きで体温計を脇に挟んだ。

 ほどなくして検温の終わりを知らせる音が鳴り、結果を見た先生は私の身体のあちこちを診ながら問いかけてきた。

「うーん、熱はなさそうだけど。身体の具合はどう?」

「平気です。遅刻しそうになって、食べてすぐ走ったから気持ち悪くなっただけで……」

「そう、それは確かに良くないわね。まあ大丈夫そうなら授業に戻ってもいいけど、どうする? 少し休んでいく?」

「あ、それなら戻ろ……」

「いや、休んでったほうがいいと思います」

 私の言葉をいっちゃんが遮った。

 先生は少し不思議そうな顔をしたが、そこで内線の電話が鳴った。どうやら職員室に呼び出されたらしい。

「ごめんね、先生はちょっと行かなきゃいけないから。日ノ宮さん、向島さんのこと、お願いできる?」

 いっちゃんがわかりましたと答えて頷くと、先生は軽く頭を下げて保健室から出ていった。

「どうしたの? 私、ほんとに具合は……」

「そのスプラッタ姿のままじゃマズいだろ。体操服持ってるよな? まずは着替えたら?」

 そう言われて一限目の体育で使う予定だった体操服のことを思い出し、自分の姿に改めて悄然としながら着替えた。そして、精一杯元気そうな表情を取り繕った。

「おまたせ。気遣ってくれてありがとね。それじゃ、戻ろっか」

「いや、戻る前にひとつ聞かせてくれ」

 するといっちゃんが突然ぐいと腕を引っ張った。

「なっ、なに⁉ 急にびっくりするじゃん!」

「なんの意味もなく血反吐を吐くまで走る奴を、大丈夫とは言わねえんだよ。お前、さっきからどうして僕の目を見ないんだ?」

 正面に回り込んだいっちゃんが顔を近づけて、怒ったような表情でじっと見つめる。その視線が無理矢理合わせられるまで、ずっと目を逸らしていたことに気づいていなかった。

「血反吐は吐いてないよ。トマトスープだってば……」

 あんなに会いたいと思っていたいっちゃんの手が恐ろしくなって、私は掴まれた腕を振り解こうとした。するとその握力は余計に強まり、逃げ出そうとする私を許さなかった。

「そのつまんねえネタはもういいから」

 いっちゃんが追求をやめる気配はない。やはり下手な嘘はバレバレだったらしい。私はつくづく衝動的で浅はかな自分に嫌気が差した。少なくともいっちゃんになにを聞きたいのか、この感情は隠しておくのか、それくらいは決めておくべきだった。

 直情的に行動して悪目立ちする羽目になり、いっちゃんにも詰問される。ここに至って恣意的に巧みな嘘を吐けるほど器用でもないのだから、観念する以外に道はない。

 私は黙ったままいっちゃんを指した。それだけで理解してくれたらしく、手を離して呆れたように頭を掻きながら窓の方を向いてしまった。

「ったく、ゾゾエは本当に……バカだなあ」

「バカだよ! だって……もう時間がないんだよ⁉ だから考えて、考えて、考えて……」

「で、なんか答えは見つかったか?」

「なにも……わからなくて……」

「そりゃそうだろ。召集命令はどんなことがあったってひっくり返らない。どんなに考えたって無駄だ」

「無駄って……じゃあなにもしないで、なにも考えないで、静かに待ってろって言うの?」

「だって、しょうがないじゃんよ……」

 そう言いながら、いっちゃんは苦しそうな表情で俯いた。

 昨日母も言っていた〝しょうがない〟という言葉は、どんな絶望もサラリと流す万能魔法だ。その一言を言えば世の理不尽もなにもかも、まさしく〝しょうがない〟のだ。

 それを〝しょうがない〟で済ませることができるようになれば、晴れて大人の仲間入り。人生を貫通させるほどの威力を持つ辛さ、悲しさから身を守れる、無敵の装甲板になる。

 でもそうするとあの母のように、どんな重大なこともいつか忘れてしまう。

 〝しょうがない〟から印象が薄まるのだ。そうでなければいつでも心内を辛苦が席巻し、生きるのが辛くなるから、忘却によって薄めるしかない。それこそが賢く生きる大人の処世術なのだろう。

 私はそんな大人に、まだなれそうもない。

「〝しょうがない〟は、嫌なんだ」

「嫌ったって……」

「土日まるまる考えて、わからないってことはわかったよ。いっちゃんのことも、なにもわかってなかったんだと思う。だから……知りたい。死にたいって言い続けてた意味や理由を知りたい。友達なのに目を逸らしてた私が今更言っても、って感じだけど……」

「ゾゾエ……」

 いっちゃんが顔を上げ、悲しげな眼差しをこちらに向ける。

 私は丸椅子に座ったまま、ハーフパンツの裾をぎゅっと握り締めた。

「ごめん……私、変なこと言ってるよね。だからネットで調べたいろんな人と自分を比べてみたけど、やっぱりどうしたらいいのかわからなくて、でもしょうがないで済ませちゃうのだけは、どうしても嫌で……」

 まとまらない考えを口にするうちに、知らず泣き出していた。今日は泣いてばかりだ。いい歳をして情けない。

 こうやって泣き出したくなるほど、他の人と自分の違いも、いっちゃんのこともわからない。だからこそこんなふうに惨めに泣かないよう、考えることをずっと避けていた。

 難しいことを考えなくとも、とりあえず生きていけるのなら、それでもいい――そういう生き方は、やはり間違っていたようだ。

「お前は変じゃないよ。ゾゾエはちっとも悪くない」

 いっちゃんが静かに肩を叩いた。

「僕こそ、ごめん。やっぱり黙ってりゃよかったんだ。こんなに悲しませたり、悩ませたりするくらいなら……」

「そんなこと言わないでよ。もしなにも知らないまま、急に来週いなくなってたら……私、いっちゃんの友達だったのかどうかさえ、わからなくなる」

「ああ、そっか……そうだな」

 それだけ言うと、いっちゃんは黙り込んだ。

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