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 朝起きてみると、夢に掘り返された劣等感が身体中を駆け巡っており、普段から悪い目覚めをいっそう悪いものにしていた。

 枕元で充電していたスマホの電源を入れて時間を確認したら、十時をとっくに過ぎていた。毎朝目覚まし機能を頼って起きていたのに、寝しなに電源が落ちたことを失念していた。

 鳴らなかった目覚ましのスヌーズ機能の通知、いっちゃんからのモーニングコールと思われる着信が十二件、先に行くことを詫びつつ応答のない私を心配する内容のメッセージが一件入っている通知が、ホーム画面にどっと表示される。

 自分にうんざりしつつ、申し訳無さで重みを増す身体をのそのそと起き上がらせた。

 普段であれば、天地がひっくり返ったかのように騒ぐところだ。学校へ行けば先生からの叱責、家に帰った後には母からもそれを受ける憂鬱が、他人との衝突を嫌う性分と排斥し、反吐を戻しそうなほど喉を絞り上げられるからだ。

 そのはずだが、今日の私はどういうわけか落ち着き払っている。なにかひとつでも手落ちがあるとわかれば、おろおろして解決を見つけられない頭を抱えるのが常で、建設的に対処することも潔く諦めてしまうこともできない。そんな私がごく自然に後者を選び取っている。

 もたもたと制服に着替え、顔を洗って歯を磨き、髪を整えながらその理由を探してみれば、実に簡単なことだった。いままで死守しようとしていた日常が、壊れてかけているからだ。

 毎日些細なことや学友程度のなんでもない相手にさえ、息が詰まるほどの焦燥を以って折衝を避けるのは、失敗による日常の破壊を恐れるからだ。

 どんなに小さなことでも、言い合いになったり、人と違うことをうっかり言ってしまったり、気づいてしまったりしたくない。そういう差異でのせいで誰かに嫌われたくない。より正確に言えば、敵に回したくない。ごく一部の友人を除いて誰かを好きになったり、好きになってもらったりしようとは思わない。ただ敵対することを避けたい。

 だから物事には同意と留保を駆使して応え、存在感を持ちすぎず、それでいて相手を不快にさせない程度には自己を示す。不器用で後ろ向き、ひどくデリケートで臆病な自分を守りながらも社会や現実と付き合うため、そんな処世術で生きてきた。

 なぜこれほど深海魚のように水底へ沈み込むことに固執するのかと言えば、明日も明後日も、ともすれば何年もその人々と接さなければならないかもしれないからだ。

 たとえば僅かでも衝突があった相手と、明日も同じ教室で顔を合わせる。そういうことが耐えられない。一度こじれてしまった相手とどう向き合えばいいのか、皆目見当もつかない。

 他人の喜怒哀楽がなにひとつわからない私には、ひどく殺気立っているようにしか見えず、恐ろしくて、ただ恐ろしくて、二度とその人には触れられない。同じ空間にいることさえできない。関係を修復するなり自己弁護で開き直るなり、対処の方法がいくらでもあるのはわかっている。しかし恐ろしさがそれを上回り、どんな手段も実行できない。

 そしてこんな性分を抱えていても、やはり孤独には耐えられず、現実に足を着けて誰かといたい欲求が少なからずある。だから深く潜航するように、人の隙間に潜り込むようにして生きてきたのだ。

 そんな私が、よもや怒られることを恐れなくなるとは。強大なものと信じ込んできた日常が、想像以上に呆気なく瓦解するものだと実感する。

 これはいけない傾向だ。常人相当の感覚を身に着けた結果ならともかく、やぶれかぶれになっているのとさして変わらない。洗面台の鏡に映った自分の両頬をぴしゃっと叩く。

「しっかりしろゾゾエ。いまは現実から逃げてる場合じゃないぞ」

 土日をまるまる潰してKA線について、そしてそれに対する他人の向き合い方について調べたが、ネット上に答えはなかった。やはり当事者のことは当事者にしかわからない。

 なにはともあれ、いまできるのは学校へ行き、いっちゃんと話すことしかない。自分で自分にしっかりと言い聞かせ、台所に向かった。

 自動車用部品製造会社に事務の契約社員として勤めている母はとっくにいなくなっており、テーブルの上にはすっかり冷めたトーストとインスタントの冷製トマトスープ、そして〝昼食代〟とだけ書かれたメモの上に五百円玉が置かれていた。

 即物的に表現された母の愛情を口に詰め込むようにして食べ、五百円玉をポケットに突っ込み、家を出る。そしてマンションの四階からエレベータで降り、駐輪場に停めてある自転車に跨って、いざ走り出そうとした時だった。後輪にガラス片らしいものを踏んだ感覚があり、次いでぱすんと間抜けな音がした。

「げ、こんな時にパンク?」

 降りて確認してみると、やはり空気が完全に抜けてしまっていた。

「ついてないな……」

 溜息を漏らしながら出しかけた自転車を元に戻す。学校へは歩いて行くしかなくなった。

 マンションの敷地を出て左手の方向に向かって歩く。するとすぐにいつもの交差点があって、これも左手に折れて真っ直ぐ行くと、堤防道へ登るスロープに続いている。

 いつもより二時間遅い月曜日の風景は、毎日見てきたそれとひどく違っていた。朝の慌ただしさがなくがらんとしていて、随分と間延びして見える。日曜日の昼下がりのような長閑さに似ている気もするが、もっと寂しさというか、空虚さというか、なにかが欠け落ちたような感覚が強い。

 そんな景色をぼんやりと眺めるうち、当たり前すぎて意識していなかった、決して欠けてはいけない存在がないことに気がついた。

「ああ、これ……いっちゃんがいないのか」

 独り言ちるとともに、思わず息を呑む。なんと凄絶な光景だろう。よく見知っているはずの、親しみを感じてきた通学路なのに、いっちゃんがいないだけであまりにも空々しい。

 いっちゃんはまだいなくなっていないし、きっと学校に行けば会える。いっちゃんが風邪で休んでいた時にだって、いちいちこんなことを考えなかった。

 これが、いっちゃんのいない風景。たまたま一緒にいないこの瞬間が、なによりリアルだった。いつもなにかしらの不安を抱えている私だが、こんなに心細い思いで通学路を歩くのは初めてだ。よりによって自転車もパンクし、さっと駆け抜けてしまうこともできない。

 いつの間にか、私は走り出していた。

 抜けるような秋晴れの青空も、いつもは癒やされる街路樹の百日紅もすべてが恐ろしく、通い慣れた住宅街の路地が迷宮のように感じられた。

 走りながらべそまでかいていたせいか、すれ違った犬の散歩をしているおばあさんが怪訝な顔でこちらを見たが、構っていられなかった。

 ぜいぜい、はあはあ。荒ぶる呼吸が喉や肺を痛めつける。

 どんなに必死に足を動かしても自転車ほどのスピードは出ない。残夏が居座る憎たらしいほどの快晴に照らされたアスファルトの熱暑が、全身をじりじり焼いて私を追い詰める。

 脚を痛めて以来、走ることに抵抗を感じるようになって、元陸上部とは思えないほど走れなくなった。溺れるように息ばかり苦しくて、ちっとも前に進んでいかない。出掛けに詰め込んだトマト味の朝食が、酸っぱくなって喉元まで迫っていた。

 爆発しそうな鼓動の苦しみに耐えてスロープを駆け上がり、堤防のカーブに差しかかったその時、不意に視界が開けてあの砲台が見えた。

「うっぶ――」

 途端、食道に迫り上がる異物感を抑え切れなくなり、ついに朝食を道端へ全部ぶち撒けた。

 半分以上原型を残したままの食パンと真っ赤なトマトスープが、二度三度と拍子をつけながらびしゃびしゃと吐き出され、内蔵を吐瀉しているようなグロテスクを描きながら草むらに染み込んでいく。たまたま誰も通りかからなかったのは不幸中の幸いというほかない。

 咳き込む口元を手の甲で拭い、にわかに熱っぽくなった頭をふらつかせながら立ち上がる。

 すると、またあの砲台が見えた。

 世界の救世主。この街をちゃんと街たらしめるための生命維持装置。それでいて、いっちゃんの死神。

 これからあの砲台を一緒に茶化せる相手が、いない。

 毎日目にしてしまうのに、ふと心に思い浮かんでしまうのに、これからどうしよう。

 泣きべそはすっかり泣き声に変わっていた。どうしよう、どうしようと、いくら考えても、答えはない。いつだってそうだ。私の人生はなにひとつ答えが出ない。いつも一応考えてはみるものの、どうせ答えは出ない。

 わからないことをわからないままでいいと開き直れたのは、いつもいっちゃんが隣にいてくれたからだ。

 たとえ誰とも仲良くなれなかったとしても、いっちゃんだけはずっと一緒にいてくれる。

 私が嘘吐きで逃げ腰で現実逃避ばかりのクソ野郎でも、ケラケラ笑って隣にいてくれる。

 他人との距離感に怯える私は、それでやっと生きてこられたのだ。私にとっての日常とは、そういうものだったのだ。

「ああ、私、やっぱり……いっちゃんがいないと、生きていけないんだ」

 肩で息をしながら、私はふらふらと歩き出した。

 もはや授業なんてどうでもよかった。ただ、そこにいっちゃんがいる。そういう理由だけで、私は学校に向かった。

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