第二話
お嬢様が逃げ出した。今年16回目の脱走である。
初回はマッハで俺に捕まるような無様な逃げ様だったのに、10を超えたあたりから容易には捕まらなくなった。
流石はハイスペックお嬢様である。
そう、あのボンレスハムことロレリッタ公爵家の御令嬢は、まん丸の身体とクソみたいな性格と直情的で残念な頭以外は、非常にハイスペックなのである。カコリスに聞いたから間違いはない。
性格と知能を差し引いても聖女に選ばれるほどの女だ、まあ、そういうことなんだろう。流石に世界の命運がかかっているのに、聖女の立場が公爵家の権力で決まったりはしない。多分。
「お嬢様ー!! 何処で干し肉になっていらっしゃるのですかー!! お嬢様ー!!」
脱走、と言ってもあくまでも敷地内の話だ。当公爵家は、城みたいに無駄にでっかい屋敷と、高原か?と突っ込みたくなるほど馬鹿広い庭によって形成されている。
「おお、あんなところに肉で出来た蝉がいる」
探し回ること十五分。最早これも一種のトレーニングみたいなもんだよな、と思いながら歩いていた俺の目に、巨木にしがみつくお嬢様が見えた。
よくもまあ、あんな蓮根みたいな腕で身体を支えられるものだ。
ちなみに、旦那様から許可を頂いているとはいえ、流石にお嬢様に怪我でもさせたら俺でもクビである。
にも関わらずさほど焦っていないのは、まあそれならそれで、と思っているからだ。
俺の目的はあくまで、泥水を飲んで渇きを癒していたカコリスが『永松秀久』の身体で美味しいメロンソーダに喜んだり、パンケーキの味を嬉しそうに報告してきたり、山盛りビッグパフェを10分で完食したと笑ってくれたりすることなのだ。
食を謳歌しているようで何よりである。ところでそれ女子と行ったな?
なんということだろう。前世(未だにこの呼び方が正しいのか分からん)の俺は女の子からは三メートルほど距離を空けられる人間だったと言うのに。
暴飲暴食を控え身体を鍛えて、あくまでもややがっしりとした中学生男子で留まっているらしいカコリスin永松秀久は、割と爽やかに見えなくもない感じに仕上がっているらしい。俺も運動はしていたはずなのだが、いかんせん、摂取カロリーが消費カロリーを大きく上回っていた。
ハーレム主人公め。なんとも羨ましい。
対する俺は関わり合いになれる女性といえば、奥方様か、このボンレスハムである。侘しいものだ。
「きたわね!! ウスノロ!! わたくしのこうきな肌に触ったらようしゃしないわよ!」
「貴方の肌で高いのは身分ではなく脂質でしょうよ」
「うるさい!! よくわかんないこといわないで!!」
「では後で説明して差し上げます。さ、降りてくださいませ」
「イヤよ!!」
かさかさかさ、と害虫を思わせる動きで更に上へと昇ったお嬢様は、枝に乗った猫のような体勢で俺を見下ろした。見下ろせるのが嬉しいのか、ややドヤ顔である。
「あんまり枝先に乗ると重みでしなって何処かに飛んでいきますよ」
「こんな太いのにそんなことになるわけないでしょ!!」
「おお、とうとうご自分の太さに自覚が」
「枝の話よ!!!!」
「前から思っておりましたが、お嬢様はお嬢様らしからぬ声のデカさでございますね」
「だっ、だ、だれのせいだと思ってるの!?」
「誰か元凶がいるのですか?」
はて、何処に?と首を傾げてみせる俺に、お嬢様はその体躯を不満げにぼよよんと揺らした。
ぎし、ぎし、と枝が軋む。揺れる葉っぱが頬を掠める、と同時に、お嬢様は目を見開いて身体を強張らせた。
「……お嬢様?」
「…………」
「お嬢様? どうしました、本当に干し肉になってしまいましたか?」
「…………むし」
「はあ」
「虫がいるのよっ」
「まあ、いるでしょうね。木の上ですから」
どうやら、枝の先からもぞもぞと根元へ向かう芋虫に気付いたらしい。芋虫の何百倍もの質量を持ちながら、何故そんな小虫一匹が恐ろしいのか。毛虫のように毒がある訳でもないのに。
「と、ととっ、ととっ、とってよ」
「どうやって? お嬢様だけならともかく、私まで登れば流石にその枝も折れてしまうでしょう」
「それでも取って!! お前はわたしのしつじでしょっ!! たすけなさいよっ!!」
「では飛び降りてください」
「はあ?」
「執事らしく受け止めますので、そこから降りてくださいませ」
木の下へと足を進め、両腕を広げてお嬢様を見上げる。
「し、信用ならないわ」
「ではそこで芋虫ちゃんとの逢瀬を楽しんでください」
「いやよ!!」
「なら飛び降りれば良いのです」
「それもいや!!」
「何故?」
「だってウスノロ、お前ひょろひょろじゃない!! 頼りにならないわ」
予想していなかった台詞が、胸にグッサリ来てしまった。ひょろひょろ。そう。ひょろひょろなのである、今の俺は。
カコリスの容姿は華奢な美少年と言った感じで、優しく微笑めば大抵のご婦人はイチコロだ。しかしそこには儚げな美しさがあるばかりで、男性的な逞しさは殆ど見られない。
前世の俺は確かに肉の塊であり、テカテカのツヤツヤだったので避けられたりもしたが、動けるタイプの肉の塊であった。そこにプライドを持っていたりもした。
故に、元の持ち主であるカコリスには悪いが、俺は自身の美少年然とした痩躯を、今ひとつ受け入れられていなかったりする。
浮かべていた笑顔を引き攣らせた俺を見て、何かを察したらしいお嬢様がフフン、と鼻を鳴らした。小憎らしい。
「分かったわ! お前、本当はわたくしのほうまんでみち足りた体がうらやましいのでしょ! ひょろひょろの羽ペンみたいな体してるものね! ウスノロじゃなくてヒンジャクと呼んでさしあげようかしらあっ?」
本当に性格悪いなこいつ。
「そんな……ヒンジャクだなんて……ひどいです、傷つきました、この場にいるのが耐え難いほどです、向こうで泣いてきますのでお嬢様はどうぞ芋虫ちゃんとお幸せに、それでは」
「ちょっっ!! ちょっとお!!!! 待ちなさいよ!! 下ろしてから行きなさいよ!! ねえ!! ちょっと!! ちょっ、い、いかないで……」
まあ俺も人のこと言えた義理じゃないが。
わざとらしいまでにか弱くよろめき、泣き真似を披露してから五歩ほど離れていった俺に、お嬢様は枝にしがみついたまま叫び、やがて涙混じりに引き留めてきた。ざまあみろである。
前世を含めれば三十を超える男が十にも満たない子供相手に何をやっているのだろう、という冷めた思いには気づかないふりをしておいた。
まあ、現代日本では八十過ぎても幼児の泣き声相手に張り合って喚き出すジジイもいるしな。いや。流石にああはなりたくないが。
しかし、なんだ。ここまで騒いでいるのに使用人が一切飛んでこないな。
トレーニングを始めてからもうすでに半年が経っている。俺とお嬢様のじゃれあいはなんだかんだと日常に溶け込んでしまい、今ではあの奥方様すら気にしなくなっていた。
『カコリスちゃんに任せておけば、リザちゃんが殿下の婚約者確定となる日も近づきますものね』と何故か上機嫌でお菓子まで渡されてしまっている。ついでに体面上は謎になっているはずの理由も暴露されてしまっている。
ボンレスハムがややサイズダウンしたのがそこまで嬉しいらしい。まだ先は遠いですよ、奥方様。
「来なさいウスノロ、わたくしを受け止めるえいよをあたえてさしあげますわっ」
「それが人にものを頼む態度だと思うならそこで一生芋虫ちゃんとお幸せに暮らせばよろしいと思いますよ」
「わっ、わたくしはこうしゃく家の一人娘ですのよ! せいじょこうほですのよっ! わたくしにたのまれたのだから、むしろかんしゃして平伏しなさい!」
「病める時も健やかなる時も、死が二人を分つまで、芋虫ちゃんとお嬢様が幸せに暮らせるようにお祈り申し上げておきます。それでは」
「セバスチャン!!」
「カコリスです」
訂正してみたが、お嬢様はやはり頑なに俺の名前を呼ばないまま、枝の上からずるずると、腐った木の実が落ちるようにして降りてきた。
両手を伸ばし、もっちりとした身体を支える。程々に重かったが、まあなんとかなるレベルだった。
もっと丁重に運びなさい!と喧しいボンレスハムを小脇に抱えて屋敷へと戻る。
午後の来客に備えて午後の服に着替えを済ませたハウスメイドが、お嬢様を小脇に抱えて裏口から入る俺を見て、目を剥いて、天井を見て、床を見て、抱えたバスケットに目をやって進行方向にそそくさと立ち去った。どうやら見なかったことにするつもりらしい。賢い選択だ。
ロレリッタ公爵家では使用人に三段階の階級と出身での区分があるが、俺はそのどれにも当てはまっていない。元より長く仕えていた使用人たちは、最初こそいい顔をしなかったし、なんなら陰湿な虐めもなかったこともなくはなかったが、俺の方が陰湿だったので最終的には互いに干渉しない方向で平和に過ごすことになった。
お嬢様にキレ散らかしたのに何故か許された挙句、専属執事になっている俺と関わりたくない、という思いもあるのだろう。それに、我儘で癇癪持ちのお嬢様の世話を誰かに押し付けられるのなら、正直それが一番有難いと思っているのだ。
そういう訳で、俺はお嬢様の私室に入る権利まで与えられている。流石に屋敷内で抱えている訳にもいかず、それなりのエスコートと共に部屋へと戻ったお嬢様は、汗を流すための湯浴みを終えると、立ったまま魔導書に目を通す俺の側までやってきて、何故か勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「ねえ、ヒョロガリ」
このページ読み終わるまで待てんかな、と思いつつスルーする俺の横で、お嬢様は意気揚々と続ける。
「平民のあいだではお前みたいなのをヒョロガリって呼ぶんでしょ? 今メイドにきいたわ、みんなお前のことをひょろひょろのたよりない男だと思っているのよ! これからみんなでヒョロガリって呼んであげるわ、うふふ、お前にはおにあいのあだ名ね!」
「お嬢様は一人では何も出来ないようでいらっしゃる」
「はあ? なに? 負けおしみ?」
「使用人如きを相手にしてもお仲間を作らないと勝った気になれないとは、なんとも嘆かわしい物ですね、お嬢様。身体だけでなく心にも脂肪がついているようで」
さらさらに乾かしてもらった髪を何故かせっせこと縦ロールにしているお嬢様は、俺が本を閉じて目を向けるのと同時に、ぎくりとしたように足を引いた。
「な、何よ、お前が口答えをするのがわるいのよ、大体お前が先に言い出したのよ! デブというのは悪口なのでしょ! だったら私がお前の悪口を言ってもかまわないはずだわ!」
「ええ、そうです。おっしゃる通りですとも。デブは悪口ですし、ヒョロガリも悪口です。そしてお嬢様はデブですし、私はヒョロガリです。それは覆らない事実です」
「なら私だってお前をヒョロガリと呼ぶわ!」
「構いませんよ。お嬢様が一人で、ご自分の責任でおっしゃるならね」
「悪口にせきにんなんていらないわよ!」
「いいえ、要ります」
綺麗に巻かれた縦ロールが揺れている。クロワッサンはベーコンのサンドイッチにすると美味しい。誰かクロワッサンを作ってくれないものだろうか。
「私は私の責任と首をかけて、お嬢様をデブの豚のボンレスハム呼ばわりしているのです。そこには他の誰も関わりません。私は私の意志と覚悟でもって、お嬢様はデブであるという事実を突きつけているのです。いつかお嬢様が立派に成長し、ヒョロガリの雑魚なんぞ小指一つで吹き飛ばせる時になった時に首をぶった切られても構わないと思って言っています。王国中の人間がお嬢様の味方になり、お嬢様を信奉し、馬鹿にしたものは首を刎ねよ、と法で定まったとしても、その時にお嬢様がデブであるならば、私ははっきりと言います。お嬢様はデブでいらっしゃる、と」
「なんの話かわからないのだけどバカにされてるのは分かるわ、お前、」
「私はお嬢様のように仲間を作らなければ人の悪口も言えないような、矮小でみみっちい人間ではないので、例え神様がお嬢様をほっそりとしていて麗しい姫君、と断言したとしても言います。お嬢様はデブです」
「分かったわ! お前、デブだと言い返すためだけにその訳の分からないことを言ってるわね!?」
「九割はそうです」
「いちわりは何よ!?」
「それはご自分の胸に聞いて下さいませ」
俺は何も考えていないので、なんか適当にいい感じの補完をしておいてくれ。強いて言うなら、悪口くらい一人で言え、という教えである。三十路が子供相手に言っている時点で説教を受けるべきは俺であるが、分かった上で棚に上げておいた。大人はずるいのだ。
ずるい大人に振り回され、訳の分からない理屈で丸め込まれそうになったお嬢様は、ぽかん、と口を開けた後、数秒をかけて怒りのボルテージを上げていき、パンパンの頬が真っ赤になると同時に叫んだ。
「お前なんか、お前なんかおとうさまに言ってクビにしてやるわ!」
暴れるミートボール。暴れて当然の理由であるのでそれなりに宥めつつ、最終的に機嫌を取るのが面倒になった俺はにんまりと、わざとらしいまでにあくどい笑みを浮かべてみせる。
「それは出来ませんね。私はお父様の弱みを握っているのです」
「な、な、なんですって……!? あのこうけつなおとうさまに、弱みなんてあるはずないわ!」
「それがあるのですよ、お嬢様はご存知ないかもしれませんがね。ふふ、ロレリッタ公爵家は既に私の手中、お嬢様は黙ってボンレスハムを脱却する他ないのです」
当然、嘘である。一介の貧民に弱みを握らせるような当主なら、公爵家はとっくに没落しているだろう。『お嬢様に嫌われたくない』というのが弱みかもしれないが、そんなものはあってないような弱みだ。
本当に悩んでいるのだとしても、俺のような馬鹿げた主張のイカれポンチなどすぐさまクビにして、新しい下僕を雇うべきである。
まあ、俺の魔力がいずれお嬢様の役に立つ、と思っているからこそ、そばに置いているのだろうが。
そんな思惑など露知らず、俺の言葉を鵜呑みにして青ざめたお嬢様は、そのまま黙り込んでしまった。真偽を確かめるようにメイドを見やるが、旦那様の専属使用人でもない彼女に真相が分かるはずもない。
というか、メイドの方まで俺の嘘を信じているようだった。変な噂が広まりそうだな。
震えるお嬢様と共に、来客の対応をしている旦那様を待つこと三十分。何やら覚悟を決めた顔で部屋を出たお嬢様は、旦那様の胸に飛び込むと、涙をこぼさないように堪えつつ、真っ直ぐな目を向けて宣言した。
「わたくしが、わたくしが必ずや、お父さまをあの男の魔の手から助け出してみせますわ!」
堂々たる宣言に、以前適当に打ち合わせた嘘が使われたと察した旦那様は、騙されているとは言え覚悟を決めた娘の成長の喜びから、目元をそっと押さえた。父親ってのは娘に対してはどうにもアホになるらしい。
それとなく話を誘導し、諸悪の根源である極悪執事を倒すには、お嬢様が完全無欠の素晴らしい聖女になる他ない、というような方向へまとめていく。三文芝居もいいところである。
頼んだよリザ、とやや熱の入った演技で娘を抱きしめた旦那様にキスをしてもらってから、お嬢様ははしたないことに俺を指差して叫んだ。
「見てらっしゃい、ウスノロ!! 今にお前をこの家から追い出してやるわ!!」
「ええ、どうぞ私をぎゃふんと言わせてみてください。楽しみにしていますよ」
「ぎゃ、ぎゃふん?」
「『一言も言い返せません、降参です』というような意味です」
「そう! ではウスノロ、いつかお前に〝ぎゃふん〟と言わせてやりますわ!! かくごしておきなさい!!」
これで九歳。ちょっとアホすぎやしないかと心配になるお嬢様であった。
『……なんだろう、俺が知ってる公爵家と随分様子が違うな』
『そうなのか? 俺が来てから大体こんな感じだぞ』
『旦那……様はもっと厳格で威圧的で、流石にそんなアホ、いや、抜けた、ああ、ええと、馬鹿、違う、あー……そんな方では無かったと思うんだが』
『オブラート破れまくってるぞ』
『ヒデヒサは、何か、特別な力でもあるのかもしれないな』
『たとえば? 他人をアホにする力とか?』
邪悪にも程があるな。国家転覆が容易いのでは?
夜食のパンを摘みつつ魔導書の続きを読む俺の脳内に、カコリスの苦笑いが響く。否定してくれないのかよ。
カコリスにとっては思い出したくもないほど悍ましい記憶が詰まる公爵家は、記憶を疑いたくなるほどにアホな方向へまっしぐらに突っ走っているようである。このままアホすぎて聖女になれませんでした、とかになったら面白いかもな、なんて思いつつ、念話を切った。
ところで、向こうのハーレムにはまた一人美女が増えたらしい。最終的にサッカーでも出来そうな気がしてきたな。