後編
「さあ、いよいよだ」
南棟の三階まで上がったところで、佐原先輩は、いったん足を止めました。
「ここから先は慎重に進むよ、瑞希くん」
「はい、先輩」
おとなしく頷いた私は、ここまで来る間に決めた通り、佐原先輩の腕に手を回しました。
恋人らしく見せるための演技です。「手を繋ぐのは絶対に嫌!」と私が言い張った結果、こういう形に落ち着いたのでした。
本当は、腕を組むのだって気が進まないのですが……。最大限の譲歩です。ほんの少しの辛抱と思って、佐原先輩の提案を受け入れたのです。
「では、行こうか」
歩き出す佐原先輩に合わせて、私も足を進めました。運動会の二人三脚ではないですが、腕を組んでいるので、なるべく同じ歩幅で歩いていきます。
その状態で、廊下の真ん中あたりまで来たところで、
「どうしたのかな、瑞希くん。何か用事かい?」
突然、佐原先輩がおかしなことを言い出しました。
「は……?」
「僕の肩を叩いただろう、瑞希くん。呼び止めるみたいな感じで」
「先輩、バカですか? 私の両腕、先輩の右腕に巻きついてますからね。肩を叩くのは無理ですよ?」
「言われてみれば、そうだな。ということは、瑞希くんではないのだから……」
ちょうど、雲の切れ間が月に差し掛かったようです。窓から少しだけ、月の光が差し込んできました。
おかげで、佐原先輩の表情がよく見えました。彼の顔に浮かんでいるのは、満面の笑み。期待通りに幽霊が現れた、と思ったのでしょう。
彼は嬉しそうに、ゆっくりと振り返ります。
私も、彼と同じ方向に目を向けました。
すると視界に入ったのは……。
ちょうど顔くらいの高さに、銀色のハサミが浮かんでいました。
月明かりに照らされて、ハサミの刃がキラリと光ります。
「えっ……」
佐原先輩が小さく呟きました。
まるで、それが合図であったかのように、ハサミはスーッと近づいて……。
彼の耳元でチョキンと音を立てて、もみあげの毛を少し、切り落としました。
用事は済んだと言わんばかりに、ハサミはゆっくりと後退。闇の中に消えてしまいました。
「ぎゃあああっ!」
大声で悲鳴を上げたのは、私ではありません。佐原先輩です。
彼は私の手を振り解いて、逃げるように走り出し、あっという間に私の視界から消え去りました。
「幽霊の取材に来て、超常現象に出くわしたんだから、むしろ喜ぶべきなのに……。情けないですね、先輩」
聞こえないのを承知の上で、そう言ってしまいます。
幽霊が出るという廊下に、私は一人取り残されたわけですが、案外、余裕の態度でした。
「本当に情けないですよ、先輩。もしも今のが噂の幽霊ならば、私一人を置き去りにしちゃ、ダメじゃないですか。男の方が追い払われた後、残った女の方は呪い殺されるのでしょう?」
そう、『もしも今のが噂の幽霊ならば』です。
種を明かせば簡単な話であり……。
冬なのに肝試しみたいなことをする佐原先輩に対して、私は癪に触ったので、あらかじめ脅かし役を配していたのでした。
今夜の『肝試し』は放課後の部室で決まったイベントであり、準備の時間はあまりなかったのですが、それでも協力してくれる友人がいれば、上手くいくものですね。
細かい部分は友人に任せきりだったので、宙に浮かぶハサミが出てきた時は、私も少し驚きました。
おそらく糸で吊るしていたのでしょう。でも、ただ動かすだけでなく、もみあげの毛を切るというのは……。凄い操演技術だったと感心するべきなのでしょうか、それとも、さすがに危険すぎると諌めるべきなのでしょうか。
どちらにせよ、
「まいちゃーん! もう終わったから、出てきていいよー!」
近くで隠れているはずの友人に向かって、私は叫びました。
でも、返事はありません。廊下はシーンと静まり返っています。
何でしょう? 今度は私を驚かせるつもりなのでしょうか?
「そんなわけないよね」
首を横に振りながら、友人に電話をかけました。そのためのスマホです。
どうせ近くだから、向こうのスマホの着信音も聞こえるはず。そう思ったのに、何も聞こえてきません。思ったよりも遠くに隠れているのでしょうか。あるいはマナーモード?
そんなことを考えているうちに、電話が繋がりました。
「もしもし、まいちゃん? 今どこにいるの?」
返事の代わりに聞こえてきたのは、ゴホッ、ゴホッという咳の音。
少しそれが繰り返されてから、ようやく友人の声です。
『ごめん、みずきん。行けなくて……』
「え? 『行けなくて』って、どういうこと?」
『急に風邪ひいちゃってさ、今ベッドの中なんだ……。ごめん、ちょっとしゃべるのも辛いから、もう切るね』
「うん、お大事に」
反射的にそう返しましたが、私は思いっきり混乱していました。
「じゃあ、さっきのハサミは誰が……?」
そう呟いた瞬間、左右の足首を後ろから掴まれる感触。
慌ててバッと振り返りましたが、誰もいません。
私一人しかいない、南棟三階の廊下です。
ゾッとしました。
背筋が凍りつく、という表現がありますが、本当に冷気すら感じます。冬の寒さとは違う、独特の冷たさです。
人の姿は全く見えないというのに、両足は放してもらえず、さらに視界の片隅では、廊下の窓の一つがスーッと開いて……。
(「カップルだけを狙う幽霊」完)