ピンクドロップ(2)
気持ちを奮い立たせて、私は丘に登った。思った通り男爵家が、この領地全てが一望できる。
裏手は…………ここから見て左に当たるらしい。ある程度の方向感覚を覚えて丘を降りる。
このまま男爵家に向かおうかと思ったが、裏手とはいえ鍵はかかっているだろう。柵を乗り越えるにしても昼間の今では人目がありすぎる。
決行は夜にした方がいいだろう。私はそのまま街に降りて靴を購入した。目立たないフード付きの外套を買い、宿屋にこもる。そのまま夜を待った。
夜。今宵の月は満月だった。暗すぎても困るが、明るすぎても困る。人目に触れないよう気をつけながら暗闇のなか男爵家へと向かった。
ルデンの王太子妃がこそ泥のような真似をしていることになんとも言えない苦渋を味わう。だけどそれを振り払うように歩いた。
男爵家の裏門へと回る。思った通り、鍵がかかっている。
だけど鍵がどうしたことか。私は柵の隙間に足をかけて、そのまま登りきった。誰かにみられるのではとヒヤヒヤしたが、幸いにも気づかれることは無かった。………こんなずさんな警備で大丈夫なのかしら?
そのままかかとの低い靴で地面に降り立った。
辺りを見回す。人の気配はない。………急がないと。心臓がバクバクする。私は急ぎ足で裏手へと回る。しばらく歩くと庭園らしきものが見えた。………ここがピンクドロップの栽培地……?
アーチをくぐり庭園の中に入る。どうやら奥は森に続いてるようだ。
見る限り、ピンクドロップと思われる花は咲いていない。薔薇やカーネーション、スズランカと言った色とりどりの花々はあるが、ピンクドロップの花は見当たらない。
…………どこにあるのかしら。
そう思った時、カツン、カツンという革靴の足音が聞こえた。衛兵だわ………!
思わず茂みに体ごと突っ込んだ。前回は突き飛ばされて花壇に突っ込んで、今は自分から茂みに突っ込んでる………。
とても王太子妃の所業とは思えない。だけど前回と違うことは、ここはビヴォアールの王宮ではなく、そしてそばにフェシーはいないということ。
…………会いたい。
想いを自覚した途端、気持ちが溢れてくる。どうしようもなく会いたい。この不安を解消したい。抱きしめて、安心したい。
弱りかけた心をなんとか叱咤して、息を詰める。明かりが見えてきて、衛兵が見回りをしている。
コツ、コツ、コツ……………
静かな庭園に足音だけが響く。その足音が不意にピタリとやんだ。………まさか、気づかれた!?
焦りのあまり心臓が早くなる。顔を上げたくても、あげれば余計な葉音がする。
息を詰めることしか出来ない。そのままだまっていれば、足音が再開した。
カツ、カツン、カツン…………
どうやら気づかれなかったようだ。心の中で深くため息をつく。心臓はどうしようもないほど大きく鳴っていた。
………良かった。侵入するのがあと少し遅かったらきっとあの衛兵と鉢合わせていたわ。
衛兵の足音が完全に遠くになったことを確認してから私は茂みから出た。ガサガサという音が音高く庭園に響き、焦る。
捕まったらまずいなんてものじゃない。私の素性を調べられルデンの王太子妃だとバレたら目も当てられない。
私ははやる心を落ち着かせながら庭園の奥へと向かった。
庭園、というより森という表現がふさわしくなってきた頃。辺り一面に何か咲いてるのが見えた。満月のおかげであたりを見回せる。
これは……………
「ピンクドロップ…………」
言葉をこぼすと、ヒュウ、という誰かの口笛が聞こえた。思ったよりも近い距離からのそれに、思わず体ごとそちらを向いてしまった。
「誰………!?」
小さく、だけど鋭く問いかければ、木の後ろに背中をもたれた男性がいた。私がこっちに来る時は死角になって見えなかったんだわ………!人がいたという事実にゾワゾワと焦りが這い上がってくる。
捕まったらどうしようもない。
私は足に力を込めながらジリジリと彼を見つめた。逃げるにしても、タイミングを図らなければ。
いや、それより一度失敗すれば警備はもっと厳重になる。逃げるにしても、ピンクドロップの根を手に入れてからにしないと。
頭で忙しなく考えていると、じゃり、という音と共に男がこちらに足を踏み出した。反射的に足を引いてしまう。
「はじめまして、ユーアリティ・ルデン王太子妃殿下」
その言葉に思わず息を飲む。
私のことを知っている………!?
その事実に足が縫い付けられたように動かなくなってしまう。
男の顔は月に雲がかかってしまって見えない。誰だ?この人は、誰?焦りだけが心を占領する。
「お初にお目にかかります。僕の名前はニケル・アッドフォン………。アッドフォン伯爵家の長子です」
「ーーー」
その言葉に息を呑む、と同時に風が僅かに吹いた。
雲が晴れ、男の顔がよく見える。黒髪に蒼い目の男だった。




