最悪《イノセンス》
アユムは完全に思考を停止していた。
果たしてこれは現実なのだろうか、それとも夢なのだろうか。
多分夢であろう、そう思う、だが、感じる重みや割れるような胸の鼓動はそうでは無いと言っている。
考える時間を求める余裕すらなく少女の左手はアユムの胸に届くだろう。
少女の長い髪が、アユムの顔をくすぐる。
眼前の深い深い海の青が確かにアユムを見ている。
幻想のごとき月明かりのヴェールは目の前の少女との境界を遮る事は無かった。
「―――あ」
胸に手が触れる、そのささやかな感覚にアユムは間抜けな声を上げ
「――――」
自らの胸の内から声が聞こえた気がした。
その瞬間、アユムは訳のわからない感情に襲われた。
例えるならば燃え滾る太陽が頭上に突如現れたかのような渇き。
何かが足りなくて、それが自らにとっての水のようで、でも実際はそれが何かは分からない。
分からない、分からない、直前まであんなに静謐で幻想的だった夢が突如地獄に変わってしまったかのようなそんな感覚。
「ア―――」
アユムは喘ぎ目を見開く、肉体的な苦痛はない、だが耐えきれないただ何かが足りないと思う感情だけが肥大化していく。
―――――眼の前に少女が居た。
「ハァ…ハァ…」
喘ぐ、呼吸が、苦しい。
自分の下に、月の女神がいる、そうアユムは思った。
少女は無感情な目でアユムを見上げている。
アユムはいつの間にか少女を組み敷いていた。
彼女を見た時そこに自分の求める物があると本気で感じていた。
激情としか言いようがない、砂漠で見つけた一滴の水を求めるかのように彼女の全てを求めるかのような感情。
それがアユムの体をひとりでに動かした。
そして、その渇きはまだ肥大化している。
ローブの如きパジャマの下に、白い肌が見える。
少女が、僅かに目を動かし、アユムの瞳を覗いた。
「――――――――――――ッ」
もう―――――
「アユム」
聞き慣れた声がして、アユムは横殴りの強い衝撃に襲われた。
ベッドから転がり落ち、全身を打ち付ける、治療したばかりの傷が悲鳴を上げた。
「―――君は、自分が何をしたかわかってる?」
底冷えするするようなミツキの声が聞こえ、アユムは我に返った。
「違っ――」
「アユム、違う」
ミツキはアユムの言い訳の声を遮った。
「この子だ」
「は?」
「この子がアユムに【魔法】を使ってたんだよ」
アユムは這いつくばったまま、自分のベッドを見上げる。
そこには、ミツキが――アユムを殴ったであろう――拳を握ったまま、包帯の下の盲目の目で少女を睨みつけていた。
ミツキは静かに、確に声に苛烈な怒りを込めながら少女に静かに語りかけた。
「君の事情は分からない、君の境遇も分からない、でも、少なくとも僕等と同じ側の人間だとは思っている」
「だから、警告するよ、今後その【魔法】をこの施設の僕の家族に使うな、それがルールだ」
少女がミツキを見上げている、見えぬ筈のミツキの目がその視線とぶつかるような感覚をアユムは見た。
「理解したなら、今日はリュウコさんの部屋に戻るんだ」
少女は解ったのか、解っていないのか、何の反応もしなかった。
暫くミツキと見つめ合い、膝をよじよじとしながらベッドから下り、ぺたぺたと振り返りもせずに部屋から出ていった。
二人きりになった部屋で、暗闇の中ミツキとアユムは各々のベッドの上で胡座をかき向かい合っていた。
「あの子の右腕のあった場所からアユムに【魔法】が伸びていくのが見えたんだ」
「アイツが…?」
アユムはミツキの【魔法】について詳しい事は知らない――説明はされたのだが理解ができないという意味だ――
かつて作戦会議の為に判って欲しかった詳細を諦めたミツキはアユムにこう説明した。
光でも音でも匂いでもない"何か"を受け取って純粋な情報として周囲を理解できると。
そして一番重要なのは、ミツキが認識できるその"何か"は本来不可視である【魔法】の起こりを捉え、見ることができるという事だ。
「うん、そうしたら途端にアユムの様子がおかしくなってね、あの子を押し倒して今にも一線越えそうな所だったからぶん殴ってでも止めたってわけ」
「いや、でもよそれが間違いだって可能性は考えなかったのかよ、俺がなんかこう、そういう気持ちになったとかさ…」
実際の所ありがたかったのは間違い無いが、殴られたアユムとしては恨み言の一つも言いたくなった。
ミツキはそれを鼻で笑う。
「免疫ゼロの赤面症でまともに話せる女性がリュウコさんくらいのアユムが今日会ったばかりの女の子に手を出す?」
じっくりと溜めて言い放つ。
「無いね」
「てめえ…」
ぐうの音も出ないほどの正論だが、いちいち勘の触る言い方にアユムは沸々と怒りが湧く。
だが、ミツキはため息を吐き急に沈んだ顔になる。
「ごめん、言い過ぎた。僕もイライラしてたみたいだ、突然の事だったからね、ごめん。」
「お、おう…なんか調子狂うな」
微妙に気まずい沈黙が流れる、こういう時に話し出すのはいつもミツキだった。
「まず状況を整理しよう、あの時アユムに何が起こったか説明してくれ」
「あの子が僕等の仲間になるかは分からないけど、なんだか分からない【魔法】を使う相手が身近にいるのは危険だからね」
「あ、ああ」
正直言いにくいが緊急事態なのは間違い無い、アユムはあまりにも重い舌を正直に動かす事にした。
「つまり、可愛い女の子を目前として硬直してたら突然ムラムラして我を忘れて飛び掛かってたって事?」
「相変わらず俺に対しては最悪な言い草をするよなお前」
アユムは自分のラブレターを朗読するような精神負荷を乗り越えた先に返ってきたあんまりな言葉に不貞腐れた。
「いやいや、重要だよこれは、詰まるところ彼女の【魔法】はざっくり言って惚れさせる【魔法】?」
ミツキは腕を組む、だがアユムはこれに反論した。
「んなもんじゃねえよ、あれはマジでヤバかった」
アユムは自分の醜態を思い出し震えた。
「自分の今までの考えが全部塗りつぶされて何も考えられなくなったんだよ、そうだな例えるなら―――」
普段は蓋をしている過去が脳裏を過る、先程の感情によく似た心臓が握りつぶされるかのような感覚を手繰り寄せる。
「例えるなら、【魔法】を手に入れた時みたいな感覚だ。」
巨大な喪失、心の穴、全てを失ったあの絶望、存在し得ない一筋の光に血を吐きながら手を伸ばした。
それによく似ていた。
「………そう」
ミツキは答えに詰まりながらようやく相槌を絞り出した。
「ヤバいね」
「滅茶苦茶ヤベえ」
再びの沈黙。
お互いに自らのトラウマを掘り返してしまったが故に黙るしかなかった。
「一つ判ったことがあるんだ」
ミツキが話し始める。
「何が?」
「あの子が今までどこにいたか」
「そりゃ悪魔崇拝者達の所だろ、あんな悪趣味な…」
「悪魔崇拝者達の所なのは同感、だけど、そうじゃない」
「だから何が」
アユムは要点を得ないミツキの回りくどい言い方にイライラした。
「あの子は、ものを知らなすぎる、いきなりアユムに夜這いとか倫理観ゼロだろ」
ミツキは静かに続ける。
「あの子は、言葉を話さない、話せるかもしれないけど、話す必要が今までなかったんだ」
「あの子は、きっと僕たちの知ってる社会を知らないんだ、知り合ったばかりの人間に突然あんな事をするのが当然の場所なんて一つしかない」
「あの子はきっと、悪魔崇拝者達の牧場で産まれて育てられた人間だ」




