3.
母親は、羽犬に食い殺された。
僕がまだ小さな頃の話だ。
記憶力に乏しい僕が未だに覚えているということは、相当にショックを受けたのだと思う。事実、僕はそれ以来、翼を動かすことが出来なくなってしまった。目の前で、徐々に肉塊になっていく母親の、あの血に染まった翼が頭を掠めて。
あの日僕は、がむしゃらに逃げた。母親の言葉のまま、逃げた。僕には勇気も力も足りなかったから。逃げて、逃げて、倒れていた僕を拾ってくれたのは、翠緑の瞳と綺麗な金色の髪を持った“誰か”。名前も知らないけれど、とても優しくしてもらったのを覚えている。
その後すぐ、僕はエフネに引き取られた。
エフネは、人間としては変わった思考を持っていて、もしかしたら彼女が魔女と呼ばれた背景に起因するのかもしれない。
だけど、エフネとの関係はあくまで“雇い主”と“使い魔”だ。彼女が棲み家と食事を提供してくれる代わりに、僕は彼女の仕事を手伝う。それが心地よかったから、僕もエフネの傍を離れない。人と使い魔の間に生まれた溝は、そうした何かで補わなければ向き合えない。
僕らは、不器用だ。言葉を持っても、未だに解りあえずにいる。こころもからだも、ひどく脆い壊れものだということを、時として忘れ……そして、傷つけあう。殺すわけではないから、罪にはならないからといって。
◇
塔から逃げてきた僕は、未だ森の中を必死に走っていた。既に知っている道ではなく、追っ手が来ていないことも気づいていたけど、リタの言葉を振り払うように走っていた。
どれくらい走っていたのか。やがて体力に限界がきた頃、僕は地面に倒れた。勢いのついた身体は、そのまま転がり、前方に生えていた大木に背中を激しく打ちつける。衝撃で声が漏れた。
肺が圧迫されて、呼吸が苦しくなる。走っていたので、二重の苦しみだ。
地面に横たわり、呼吸を整えていると、茂みの辺りから“ナニカ”が動く音が聞こえた。
もう追っ手がきたのか? 身体は動かなかったけれど、神経を尖らせる。だが、茂みから出てきたのは、予想していたものとは違った。
「よう、兄弟」
「……羽鼠か」
見知った顔の姿に、力が抜ける。
彼は羽鼠という種類のアーダ。エフネの使い魔の一匹であり、少なくとも敵ではないが、何故ここに居るのか。
「君も、エフネのおつかい?」
おつかい中に鉢合わせることは普通ならば、ほぼ無い。けど、こうして会えたのは、運が良かった。一度、エフネの所へ帰ろう。おつかいが終わったことも、伝えなければならない。
脱力感が襲う身体を無理矢理起こす。アーダは、少し言いにくそうに答えた。
「そうだ。俺も、エフネの使いだ。但し、兄弟にとっては、少々ショッキングなものかも識れないがね」
「ショッキング……? 」
今更何をとは思ったが、アーダの言い淀んでいる言葉に一抹の不安を覚える。
一呼吸置いて、伝えるのを躊躇う様にアーダはエフネの“おつかい”の内容を口にした。
「……解雇通知だよ、クロ。君はもうエフネの使い魔じゃない」
「……」
すぐには答えることが出来ず、ただ彼の言った言葉を反芻する。
カイコツウチ。その言葉の意味するところはつまり、僕とエフネはもう主従の関係ではないというわけで。
何も言い返せず、その場に立っていた僕を見かねたのか。彼もそれ以上は何も言わずゆっくり去っていく。……けれど、その背中を引き止めた。
「……どうして、そんな急に」
「信じられないかも識れないが、本統だ。最も俺の科白だけでは信じるに信じれないだろうから、証拠を示してやる。首筋に、手を当ててみな。首輪のプレートが、無くなっているだろう? 俺にも理由はわからないが、あんたはもうエフネの元には帰らなくていい。プレートは、使い魔の証で、そういう契約だったはずだ」
慌てて首に手を当てると、確かに。おつかいの前まで付いていた首輪のプレートは、無くなっていた。多分、リタへ渡す袋を付けてもらったあの時だ。
「じゃあな、兄弟。達者で暮らせよ」
アーダは、そう言って背中を向ける。
「ま、まって……!」
引き止めるが、止まってくれる気配はない。疲れ果てた身体では歩幅の小さい羽鼠に追いつくことも能わず。僕は成す術のないままその背中を見送った。
何故?
ドウシテ?
疑問が、次々に浮かんでくる。
その場に取り残された僕はただ、その場に立ち止まって、仄暗い空を見上げた。
厚い雲に阻まれた空が少しだけ歪む。瞳が乾いて……痛くはなかったけど、涙がこぼれそうになった。
◇
一人になった。
その事実が僕を苦しめて、ただ哀しみに暮れていた。
結局みんな、ウソつきだったんだ。
信頼していたエフネも、兄弟も、二人に心を許していた僕も。
陽の沈んだ森を、何の頼りもなく歩く。
体はもう、動けるようになっていた。なので、一先夜を過ごせる場所を探す。
夜が支配する森の中は暗く、冷たい。生まれてからすぐに拾われた為に“野生の世界”というものをまるで経験していない僕を嘲笑うようだ。自分の足音にも驚き、寝床を探すどころか、森の中を歩くことさえ困難だった。
少女のことが頭を過ぎる。
……リタもこんな心細い思いをしている。僕がこうしている今も。
こうなってしまった今、僕はリタに何ができるだろうか。
夜は、未だ明けない。嫌な時間ほど長く、幸福な時間ほど短い。結局、夜の不気味さに恐れをなして、道中生えていた木の根を寝床にした。静まり返った空間が、毛先ほどの明かりもない頼りなさが、永遠とも思える時間の流れが、恐怖心を更に煽る。森全体が、一個の生命のように僕を脅かす。灯りがないことが……否、誰もいないことが、こんなにも心細いとは思わなかった。それでも必死に、目を固く閉じて、朝を待つ。夜の寒さで震える身体に力を入れる。
その時、奥の方で草の擦れる音がした。微かな音に驚いて、体が大きく跳ねる。無意識にシッポを膨らませて、音が鳴った方向に目を向けた。
夜目が効きすぎるのも、考えものだ。意図しない、見たくないものも見えてしまうから。
気のせいであって欲しかったが、再び草の擦れる音が聞こえた。今度はもっと近くで。肉眼でも動いた草がはっきりわかった。
何が起きてもいいように、立ち上がって身構える。心臓の音が大きく鳴っていた。
そして、一際大きく草むらが動いて、その隙間から黒い影が飛び出る。
「……珍しい。同種か」
年季の入った低い声。草むらから出てきた正体に、安心感からか、思わずへたりこむ。草むらから出てきたのは、野良の羽猫だった。
「は、はじめまして」
野良の羽猫は駆除対象なので、外で同種に会ったのは初めてだ。先ほどまでの恐怖も重なり、少し萎縮して挨拶をすると、羽猫は返事がわりに「フンッ」と鼻を鳴らす。
「どこのどいつか知らないが、さっさと出て行け。ここはお前みたいなのが来ていいところじゃない」
ぶっきらぼうに言い放ち、一歩づつ間合いを詰める。僕の知らない、野生の世界で生きてきた野良の言葉は重く、取り付く島もない。
それでも心細い中、同種に会えたことに気を許していた僕は、折角見つけた寝床と仲間を逃すまいと、何とかここにいられるよう説得してみる。だが、あっさり断られた。
「人間臭いお前なんかと一緒にいられるか。お前は人間に近づきすぎているだろう? 匂いですぐわかる。あいつらの言うことを聞くヤツは、例え同種でもあの羽犬どもとおんなじだ。膿んだ腫れ物に触らないように、半分以上人間の匂いがする羽猫を傍に置いとくお人好しはいない。わかったらとっとと消えろ。人間臭くて、吐き気がする」
まくし立て、鋭い眼光を向ける。
何も言い返すことができなかった僕は、結局その場を後にせざるを得なかった。
せっかく見つけた寝床を離れ、暗い森の中をまた、行く宛も無く彷徨する。
人間にもなれず、同種にもなれない。僕という存在はあまりにも希薄で、まるで亡霊だった。
夜露の貯まる葉に舌を這わせ、喉を潤す。夜は、未だ明けない。
一体いつになれば、夜は明けてくれるんだろうか。この空間に。永遠に閉じ込められた心地さえしてきた。
暗くて冷たい。陰気で気持ち悪い。グニャグニャとしてヌルヌルしている。ここはまるで、内蔵のようだ。
「リタ……」
無意識に言葉が漏れる。
きっと、寂しい思いをしている。そして、ずっと寂しい思いをしてきた。
あの塔の上で誰の目にも触れられず、虐げられてきた。
僕も、もしかしたらそうなっていたかもしれない。エフネに拾われたのは、偶々運が良かっただけ。本当の僕は、とうにいなくなっていて、あの日孤独に殺されていた。
つまり、眩しすぎたんだ。孤独を受け入れたまま生きている僕には。孤独から抜け出そうと足掻いているリタが。
僕たちを追いかけ続けている孤独から、格好悪くてもがむしゃらに逃げようとしているリタが。
人も動物も、結局一人で生きていくしかないと、そこで思考を停止させていた僕には、眩しすぎた。
だから僕も……リタと友達になりたいと思っているんだ。
その定義も、意味も、生まれる蟠りも受け入れて。それがたとえ一方通行の寄す処だったとしても。
理屈なんて、後付けを建前にして。今更手を伸ばしても、その背中に届くかなんてわからないけれど、僕も、もう少しだけ足掻いてみようと思う。
……地面を覗く頭上に、薄い光が掛かりはじめる。
見上げると、朝陽を孕んだ雲は薄く光を帯びていた。
相変わらずの曇り空だけれど、あれ程怖かった暗闇は、ほんの少し光が差すだけで薄れていく。
単純だ。
そりゃそうだ。
夜は、明けるものなんだから。
そして、暗闇に紛れていた塔が、リタを苦しめ続けている塔が、木々を挟んで目前に、その姿を現す。
……いつの間にか、僕は元の道に戻っていたらしい。
あれだけ途方にくれていた自分がバカバカしすぎて、笑いそうになったけれど、まだ、笑うには早い。
僕は、行かなきゃいけないから。
明日、笑うために。
彼女と本当の意味で“友達”になるために。
……もう、戸惑いは無かった。
物事の意味なんて、どれだけ探しても、確かなモノは何一つない。
考えるのは、後回しだ。
走れ。
今僕に出来るのは、たったそれだけ。