第六話 飯とマナーと図書館の本
午前中の授業が終わり、俺は弁当と水筒を持って食堂へと向かう。
海藤学園は今日から授業が本格的に始まった。
まだ最初だから、そこまでガッツリと入り組んだことはしていないが、やはり私立校の特色だろうか、授業のスピードが中学の時より早かった。しかも今日の科目は、午前中が数学と現代文と英語と生物、午後は世界史と化学という、結構ハードなものばかりだ。
『私立は公立以上に授業のペースが早いよ』と両親から教えられていたが、まさかここまでとは思わなかった。
俺、ちゃんとみんなについて行けるのかな……。
そんなことを考えながら歩いていると、
「陽輝くん!」
「お、香――じゃないわ、瀬戸さん」
香澄が後ろから俺の肩をポンポンと叩いた。人の目を気にして、俺は彼女を名字で呼ぶ。そして、回り込むように俺の目の前に立った香澄に、俺は小声で怒鳴った。
「バカお前、外じゃ名字で呼べよ!」
「え? 私はみんなを名前で呼んでいるけど?」
「は……それって、男子女子構わずにか?」
「うん」
頷くと同時に、『それのどこがおかしいの?』みたいな目でこちらを見る香澄。
こんなの絶対勘違いしてるヤツいるだろ……。
中等部からのヤツなら、瀬戸さんはそういう人だから、って認識で落ち着いているかもしれないが、俺みたいな高等部からの新入生じゃ、誤解してもおかしくない。入学した時でも、いきなり「陽輝くん」って呼んだからな。正直言ってドキッとした。
「お前……いつか他の男子に勘違いされても知らないからな」
「その時は陽輝くんが守ってよ」
「いや、守るよ! 守ってやるけど最低限の自衛はしろよ!」
「陽輝なら大丈夫だよ。昨日だって強いところを見せてくれたし」
「信頼し過ぎだろ!」
駄目だコイツ、その辺のちびっ子より純粋過ぎる……。
社会に出たら間違いなく、騙されて連帯保証人になったり、詐欺に遭ったりするタイプだよ。信頼を寄せてくれるのは嬉しいけど、寄せられ過ぎて逆に不安になる。
「とにかく人との付き合いには、少し一線引いといた方がいいと思うぞ。お前の場合は二重線だけど」
「それって、まさか……妬いて――」
「違う! 傍から見ていて危なっかしいからだ!」
もう行くから、と俺は早足で歩みを進めた。あぁん待ってよ! と彼女も後を追いかける。
香澄を見ていると、何だか昔の自分をより一層悪くしたものを見ているような気分になる。別にそういうタイプの人間が嫌いという訳じゃないが、無防備過ぎる行動や言動のせいで、危なっかしく思えてしまうのだ。まるで、すぐ知らない人に付いて行く子供を見ているような気分だ。きっと近い内にろくな目に遭わないと思う(もしかしたら、もう既に遭っているのかもしれないが)。
馴れ馴れしいと苦言を呈する美奈の気持ちが、何となく解ったような気がする。
そう言えば、由希が『仲間であり友達であり家族よ』って言った時、アイツは同調したような顔をしていたけど、どこかで複雑な顔になってたような気が――
「くん――陽輝くん」
「んっ!?」
香澄の呼びかけに、思考が一時中断した。
「考え事でもしてたの?」
「ん、あぁ……悪い、何か話してたんなら聞いてなかったわ。何て言った?」
「それってお弁当だよね」
俺の手元を指差す香澄。彼女の手には俺と同じく、ピンクの風呂敷に包まれた弁当箱と赤い水筒が握られている。
俺は見せびらかすように、紺の風呂敷に包まれた自分の弁当箱を示しながら、
「欲しいのか? やんないぞ」
ちょっとだけ意地悪をした。
「いや、自分のはあるから……」
自分の弁当を見せて、苦笑する香澄。間近で見ると本当に綺麗で可愛い顔だな……。
こんな女子と一緒に歩いて会話をしてるって、俺って実は幸せなんじゃないか?
なのに、彼女にこんなセコいことをするなんて……ちょっとした罪悪感が芽生えた。
「というより、陽輝くんはこれから一人でご飯食べるの?」
「あぁ、そのつもりだけど……」
言いながら、俺は弁当を下ろす。
「だったら一緒に食べない? って言おうとしたんだけど、嫌?」
「あ――えっ」
突然の誘いに思わず動揺する。
いや……でも、俺の後をついて行った時点で、誘う気はあったんだ。
「嫌じゃないけど、俺は食べ方が汚いぞ」
座高が高いからやや猫背だし。
器に顔を近づけて食うし。
飯を漫画みたいにかっ込むし。
そんなんでもOKって言うなら――
「全然いいよ」
「いいの!?」
コントみたいに変なリアクションを返す俺。
「いいよ。私は他人の食べ方とかあんまり気にしないから」
「気にしなくとも、一度目に付いてしまえば気になるだろ」
俺が昼食を一人で食べようと思ったのは、先程も言ったように、『自分の食べ方が汚いな』と感じているからである。一応、共に食事ができる間柄の人間は既にいるのだが(高島と永谷)、家族に『食べ方を直した方がいい』と、時々言われてきたせいで、同じテーブルを囲んで食事をつつくことに抵抗があるのだ。
それは生徒会メンバーだって同じだ。ハッキリと言ってしまえば、しばらくの間は彼女達と食事をしたくない。
いずれその時が来るかもしれないが、今は極力避けたいというのが、俺の本音だ。
……でも、今の内に矯正しておくのもアリかもしれない。もし美奈だったら、徹底的に潰しにかかるレベルで非難してくるかもしれないし、由希だと、やんわりかつ執拗に詰ってくるかもだし。
その点、香澄ならあまりキツいことを言わなさそうだ。
それに『一緒に食べない?』と誘ってくれているし、これは絶好の機会だ。
「ん……じゃ、行くか」
「それって、一緒に食べてもいいってこと?」
「おうよ。早くしないと席が埋まるぞ」
言って、俺は早足で食堂へと向かった。
テーブルマナーじゃないけど、彼女に色々とアドバイスしてもらおう。
★ ☆ ★
「満腹なのに食った気がしねぇ――」
「えっと、何か……ごめんね?」
「香澄は悪くねぇよ。矯正できない俺がアレなんだ」
昼飯を食べ終えた俺と香澄は、空になった弁当箱を置くために、一旦教室に戻る。結論を言うと……結局、マナーの悪さを直すことはできなかった。
香澄の丁寧なアドバイスに、最初は何とか克服できたが、途中から逐一指摘が入ることに、小さなイラつきを覚えてしまった。
で、最終的に指摘ガン無視で、弁当をガツガツ食った訳である。無論、これは客観的に見て、あまりよろしくない食べ方だ。小学生の食い方だ。
結構って次元じゃないほど、失礼な行為をしてしまった。
教えてもらおうとか言っておきながら、あんなことするなんて……。
「そんな一日ですぐ矯正できる訳ないよ。だからあんまり気負わなくても」
「見栄えがよろしくないのは理解してるよ。解ってるよ。でも、やっぱり飯を豪快にかっ込むの気持ちいいんだよ……」
まあまあ、と香澄が慰める傍らで、みっともない言い訳をする俺だった。
飯を思い切りかき込んで食べると、食べたって感じがして妙な爽快感が湧き出る。この豪快な食べ方をすると、俺は満腹以上の満足を感じるのだ。
……普通に考えたら、マナーを正す以前に、そんな姿勢を払拭するのが先なのだが。
「でも、背筋はちゃんと直ってたよ」
「ホントか?」
「うん、それに無理して全部クリアしなくてもいいんだよ。何事も一つずつだよ」
「一つずつ、か。確かn――」
「って、由希ちゃん言ってた」
「他人の受け売りかよ!」
俺はツッコミを入れるように、香澄の頭を軽くチョップする。でも本当にそうだよな。
普通に考えたら、一度にたくさんの課題をこなすなんて、余程の天才でない限り、できる訳ない。『何事も積み重ねが大事だ』って、中学の時の先生も散々言ってたし。
……何故かこの学園に入ってから、勉強とは違う何かを色々学習してるような気がする。『暮らしの中に修行あり』みたいなセリフがあるけど、まさかそれを肌で体感するとは。……修行じゃないが。
「えへへ……この後どうする?」
「暇潰しに図書館にでも寄るかな。休みはまだ二十分も残ってるし」
「図書館――あ!!」
「っ!? ……耳元でデカい声出すなや!」
いきなりだからビックリしただろうが!
心臓止まるかと思ったわ!
「ごめんごめん! 図書館で借りた本を忘れちゃって」
「借りた本? ってことは――」
言いながら、俺は緩んだネジを締めるみたいな感じで、大声を受けた方の耳の穴をほじる。そうすることで、ダメージを受けた耳の調子が戻りそうな気がするのだ。
香澄はしゅんと落ち込むように下を向き、
「今日が返却日なの」
「あーあ……」
でも、一日くらい遅れたって大丈夫なんじゃね?
少し延滞したくらいで利用禁止にはならないだろ。
「いや――もしかして、海藤ってそんなに厳しいのか」
「ううん、厳しくないよ! ただ、期日通りにちゃんと返しておきたかったなって……」
きまりが悪そうな笑顔を浮かべる香澄。
表面上は笑ってはいるものの、何だか事態を重く受け止めているみたいな雰囲気が、じんわりと醸し出されている。図書館の本の返却が遅れるなんて、そんな大したことじゃないのに。
「そっか、お前って結構律儀なんだな――」
そんな彼女を横目に見ながら、俺は言った。
続けて、悩みやすそうなのは欠点だけどな、と言いかけたが口をつぐんだ。
★ ☆ ★
海藤学園の図書館は、校舎一棟分の大きさだ。その距離、高等部の教室棟から歩いて約三分弱。そんなに遠くはない場所に建てられている。
地上二階、地下一階の建物で、地上には普通の図書館みたいに様々な種類の本が、地下には学園や周辺の地域の昔からの貴重な本が保管されている。一般生徒が利用できるのは地上のみで、地下は利用できないどころか、立ち入ることすらできない。
それ故、地下がどうなっているのかは誰も知らない。
だが、地上はとても綺麗な場所だ。
内装は古さと新しさがいい具合に調和し、本を読むにはうってつけの演出を与えてくれる。モノトーンカラーをベースにした壁と床に、ほんのりと輝くオレンジ色の照明。まさに快適としか言いようのない場所だ。
そんな場所で、俺と香澄は読書スペース――本を読むための机と椅子がある所――の一つに座って、本を読んでいた。
俺は新しく入った小説を、香澄は何かの雑誌を読んでいた(表紙からして、多分ファッション系のそれ)。
……俺は本を閉じて、辺りを見回した。
「本当に立派な建物だな――」
「うん?」
俺の言葉に反応した香澄は、雑誌からこちらへ視線を移す。
「いや、中が立派過ぎて、読書に集中できないんだよ」
「あぁ、解る解る。私も最初は落ち着かなかったもん」
「『本を読みたい』というより、『この中を冒険したい』って衝動にかられてしまいそうだ……」
確かにこの場所は、本を読むには快適な空間だった。しかし快適だからといって、そこが落ち着く場所かどうかとなると、話は別だった。
図書館の中は、一言で言うなら長方形だ。
入口が長方形の辺の短い方の隅っこにあり、その近くというか、真ん中に本の貸出と返却を行うカウンターがあって、反対側には検索用のパソコンが六台設置されている。
読書スペースは真ん中に設けられていて、その両端――長方形の辺の長い方――には何十台もの白い本棚が、ドミノのように規則正しく配列されている。そして最奥に二つの階段があり、そこを利用すれば、一階と二階を行き来することができる。
この構造が、何だかゲームに出てくるダンジョンを連想させるのだ。
とにかく、活字の向こう側に広がる空間が気になって仕方がない。
やっぱ家に帰って読むかな……。
そう呟いた俺は読んでいた本を持って立ち上がり、
「ちょっと本を借りてくるわ」
と言って、少し離れた所にあるカウンターへと向かう。そこには一人だけではあるが、女子生徒が座って本を読んでいた。図書館での本の借り方は、学生証(あるいは生徒手帳)を忘れていなければ簡単らしい。この学園では本をバーコードシステムで管理しているので、十秒もかからない内に貸し出しが終わる。
まず最初に、学生証を図書委員の生徒か司書の人の前に差し出す。
次に借りる本を差し出す。
学生証の裏に記載されたバーコードをスキャンする。
続けて本の裏側に貼られたそれもスキャン。
最後に、貸出日や返却日の書かれたレシートを渡されて完了である。
「すいません、これ借りたいんですけど」
俺はカウンターに到着すると同時に、そこに座って読書をしている、図書委員であろう女子に本を差し出した。だけど学生証を掲示し忘れたことに気付いて、その場で内ポケットをまさぐった。
「あ、はい」と、その女子は読んでいた本をパタリと閉じて、こちらを向いた。
いかにも知的な感じの端正な顔に黒い縁の眼鏡。
その眼鏡から覗く、水のように澄んだ綺麗な瞳。
真っ黒な長髪を、一本の太い三つ編みにして、左肩から垂らしている。
物静かな雰囲気を持ち、郷愁的な何かを感じさせるような、まさに文学少女を彷彿とさせる見た目の女子だった――って、
「お、一之瀬……さん?」
俺はその女子を名前で呼んだ。
「あ、浦上くん」
と、彼女もこちらを見て、俺の名前を言った。