第十話 放課後の音楽室
お兄ちゃんが荷物を持って出て行ったのを確認した由希ちゃんは、日和に向かって、こう言った。
「で、日和ちゃんにやってもらうことなんだけど、日和ちゃんには、私達が卒業する時まで下積みを積んでもらうわ」
「下積みって、何の?」
日和がそう訊くと、由希ちゃんは真面目な顔になって、
「実はね、私が引退した後の生徒会長は、あなたにしようと思っているの」
「えっ!?」
思わず変な声が出た。
「いや、あ、えっ……ちょ、えぇ!? 日和が会長になるの!?」
「そう、日和が会長になるの」
日和の言ったことを、そのまま繰り返す由希ちゃん。
「で、でも、日和はまだ――」
「『何をしたらいいか解らないよ』……って、言いたいんでしょ?」
「う、うん」
「大丈夫。さっきも言ったけど、生徒会は意外とヒマだし、内申点の肥やしだから」
「………………」
身も蓋もないことを、もう一度言う由希ちゃんだった。
自分も生徒会役員なのに、こんなことを言っていいのかな……。
「『でも、ヒマだからとは言っても、何もしなくていいって訳にはいかない』……って、言うつもりでしょ?」
さっきまで黙って見ていた美奈ちゃんは、半分真剣に、そして半分からかうように、壁にもたれかかった体勢のまま由希ちゃんに言った。言われた由希ちゃんは、それに「うん」と小さく頷いて、
「だから日和ちゃんには、色々教えてあげようと思っているの。三年後、一人になっても大丈夫なように、勉強とか、運動とか、対人コミュニケーションとかをね」
「日和にできるかな……」
「大丈夫、あなたならできるわ」
不安になってうつむく日和に、この部屋で何回も言った『大丈夫』をもう一度口にして、由希ちゃんは小さく微笑んだ。
なぜか由希ちゃんの大丈夫は、お兄ちゃんの言う大丈夫よりも、安心感があった。香澄ちゃんの相談役も、美奈ちゃんの部活の助っ人も、そして由希ちゃんの勉強を教える家庭教師役も、不思議とできそうな気がした。
「解った。日和頑張る!」
ちょっとの間を置いた後、まっすぐ目を見て、日和は言った。
日和の言葉を聞いた由希ちゃんは、もう一度頷いて、日和に何をするべきか説明を始めた。
★ ☆ ★
荷物を持って生徒会室を出た俺は、これから先、どうしようかと考えながら、特別教室棟の一階の廊下を歩いていた。だが、学園内を適当にブラブラするということは決めていたものの、最初にどこから寄ろうかまでは、考えてなかった。
もう一度、図書館に寄ろうか――とも考えていたが、本を既に借りているし、改めて立ち寄る必要性がなかったため、頭の中でその選択肢を取り消した。
学園の中はとても広い。高等部教室棟、中等部教室棟、特別教室棟。体育館に図書館に食堂、おまけに部室棟に武道場、さらにはテニスコート、サッカーグラウンド、競技場……。他にもたくさんの建物やスペースが、笑ってしまうくらい広大な、海藤学園の敷地内に存在する。
本気になって学園内を隅々まで探検していたら、日が暮れて夜になってしまう。だから、とりあえず、あっちこっち回ってみよう、なんてことは迂闊にできないのだ。
最初にどこから見てみようかな……。
つーか、日和は一体、由希からどんなことを言われているんだろう?
あれこれ考えながら、廊下を歩いていると――
「てっ!」
「痛っ!」
誰かとぶつかった。俺は軽くのけぞったが、相手は転んで尻もちをついたらしく、「ひゃっ」と可愛い声を出した。それでぶつかった相手が女子だと理解した。同時にバサバサっと、何枚もの紙が落ちる音がした。
俺は慌てて「ごめん」と言って、相手の顔を見ずに視線を床に移す。やっぱり落としたのは紙だった。いや、紙というよりは楽譜か? 五本の線に串刺し団子みたいな音符が、横に並んでいる。
散らばった紙をしゃがんで拾う。相手も体勢を立て直して、楽譜をかき集めようと手を伸ばす。
お互いの手が触れ合うことなく、紙は全て集まった。「悪かった、前を見てなかったんだ」と言おうと、俺は相手の顔を見た――が、瞬間、「っ!?」と口から出かかった声を飲み込んで、変な音を喉から漏らした。相手の外見にビックリしたからだ。
「まぁ、そんな反応になるよな」
彼女は俺の反応に、特に傷ついた様子もなく応じた。苦笑しているのは、きっと毎回同じリアクションをされるからだろうか。
……彼女の格好は一言で表すなら『V系』っぽかった。
自分の学年を表すブローチとフリルタイを外し、代わりに第二ボタンまで外した制服の上に、黒いパーカーを着用していた。おまけに、赤い宝石のような装飾が入った十字架のシルバーアクセサリーを首元にぶら下げている。あと、パーカーで隠れているスカートのベルト通しから、チェーンが垂れていた。
首から上もなかなかのモノで、前髪の右側を真っ赤に染めていて、左側も一房を太く、銀色に染めている。それが襟足が少し伸びた黒いショートヘアとよく似合っていた。顔のメイクも、黒いアイシャドウと長いつけまつげ、さらには赤いカラーコンタクトの効果もあってか、いかにもそれっぽい。
中でもビビったのは耳だ。両耳に色んな種類のピアスをたくさんつけていたからだ。耳たぶのピアスは勿論のこと、上の部分に三連ピアスや、太いピアス、中には棒状のものが貫通してついている始末だ。ここまで来たら、耳が蜂の巣状態である。
色々な意味で衝撃的な格好だが、顔面偏差値の高さで見事にはね返していた。顔だけでなく、口調も男前でかっこよくて、とてもサマになっている。
「……すみませんでした」
「気にしなくていいよ。それにアタシはアンタと同じ一年だし、敬語は使わなくていいから」
「あ、一年なのか」
いや、一年生でこれはインパクトあり過ぎだろ。
校風が自由な海藤だからいいものの、他にコレが通用する学校が存在するなら、そこはきっと、偏差値がめっちゃ低い所だろうな。
「何というか、すごい格好だな」
「アンタが地味過ぎるだけだろ」
「いや、このファッションは派手って次元のモノじゃないぞ」
「海藤の人間はこんなヤツばかりだよ。アタシはその中の一人ってワケだから、おかしくはないさ」
「カオス過ぎるだろ海藤……」
彼女に聞こえないように、ボソッと呟く。今の所、黒や茶色や金色しか見ていないが、いつかピンク色の頭と出会う時が来んのかな……。
俺は彼女に紙をつき出した。
「悪かった、えっと……誰だ?」
「巽」
「あぁ、巽さん。悪かった」
いや、いいよ、アタシもよく前を見てなかったから、と言って、巽は紙を受け取った。埃がついていたのか、表面を軽くパンパンと払った。
……今、普通に巽と言ったが、名字か名前か解らなかった。
『ん?』と思った俺は、
「巽って名字? 名前?」
「名字。下の名前は恭子」
巽恭子は、巽が名字であることを伝えると同時に、下の名前も丁寧に教えてくれた。
「で、アンタは?」
「浦上陽輝。名字は浦上で、名前は陽輝」
「いや、聞けば解る」
軽くツッコミを入れる巽。ごもっともである。
タツミは聞きようによっては、名前に聞こえる名字だから、それが上の名前か、下の名前かを訊いたのだが、ウラガミはどうあがいても、下の名前にならない名字だから、補足するだけ無意味だった。恥ずかしい。
羞恥の感情をごまかすため、わざとらしく咳払いしてから、
「で、その紙って……」
「楽譜。今から続きを書きに、音楽室に行こうと思っているんだ」
「続きって、何のだ?」
「作曲さ」
巽は短く言い、「今日で終わらせようと思ってな」とつけ加える。
『海藤は才能を持つ多くの生徒を集めて育成している』とは聞いているが、作曲している生徒も普通にいるのか。運動ができるとか、頭がいいとかだけじゃなく、芸術面においても抜かりなく、生徒を育てているらしい。ますます自分の無力さが痛いほど身に染みる。
……でも、ちょっと面白そうだな。
やっぱり作曲をするというのは、中学の時に吹奏楽部が演奏してるのとは、違うのだろうか?
少し興味が湧いてきた。
「……なぁ、巽さん」
「何だ?」
「作曲しているところ、見てもいいか?」
勿論、邪魔はしないから、と、つけ加えて俺は言った。
それを聞いた巽は、少し考え込むような表情を浮かべて、数秒間黙り込んだ後、
「あぁ、別にいいよ」
こうして、俺の放課後の予定は決まった。
★ ☆ ★
巽の作曲は、第三音楽室のある一室で行われた。
第三、というのは、海藤学園には音楽室だけでも三つ存在するからだ。部活動時、吹奏楽部が使用する第一音楽室、弦楽部が使用する第二音楽室、そして合唱部が使う第三音楽室。このように、音楽室や視聴覚室、家庭科室といった、普通の学校なら一つだけで充分と思えるような部屋でも、海藤にはいくつもある。
今日は合唱部がお休みだったため(部活勧誘で活動している部員はいるが)、運よく第三音楽室が使用できた。普段自宅で作曲している巽は、これを好機として、その中の一室――音楽室は、準備室や倉庫など、さらに細かい部屋に分かれている――を借りたという訳である。その話を巽から聞かされた時、俺は驚いた。休みで使わないからとはいえ、学園は生徒一人が『教室を貸してください』と言って、教室一つを貸し与えるほど懐が広いのか……。
一人の生徒に一つの教室を貸すとか、海藤ってすげぇな……。
道中、そんなことを呟いたが、独り言が巽の耳に入ったのか、
「いや、アタシだけがここを利用するんじゃないよ。他に楽器を演奏したり、歌ったりするヤツも、第三音楽室にいるから」
どうやら彼女だけが、教室を独占する訳じゃないみたいだ。入ってみて気付いたが、音楽室内のドアから、楽器の音や歌声が聴こえてくる。それに冷静に考えてみれば、今日は部活が休みだからとは言っても、自主練習で歌いにやって来る合唱部員だっているはずだから、そもそも独占というのはないか。現に巽は、『音楽室の一室を借りた』とは言っても、『音楽室の全てを借りた』とは言ってないし。
音楽室のある一室に入った俺は、巽から早速、「悪いけど、譜面立てとギターを持ってきてくれないか?」と言われた。
言われるがまま、俺はその二つを、音楽室の倉庫から引っ張り出す。倉庫には丸い椅子があったが、部屋の中にあったピアノの椅子を使うのか、それを出してくれとは言わなかった。
「サンキューな」と言って、巽は譜面立ての上に、楽譜と筆記用具と消しゴムを置いて、座ってから足を組んでギターを抱える。
巽は最初にギターの弦を軽く弾いた。作曲タイムの始まりの合図だった。
奏でては書いて、書いては消し、消しては改めて奏でる、それをひたすら繰り返す。
俺と巽しかいない二人だけの部屋の中は、俺達の呼吸音と、ギターの旋律と、紙が擦れる音で包まれていた。作曲タイムにふさわしくない余計な雑音は何一つなかった。感想を言わせる隙も与えてくれない。俺はただただ、真剣な彼女の後ろ姿を、壁にもたれかかって傍観するしかなかった。
そのまま、約数十分が経過して――
「――これで一応、形になったか」
シャーペンを譜面立てに、ギターを椅子の空いた方に置き、巽は伸びをした。
反応からして、もう作曲は終わったのだろうか……?
俺は体勢を崩して、口を開いた。
「『形になった』って、これで作曲は完成か」
「いや、一応、な。あとはこれを、家で編曲する」
言って、巽は楽譜をファイルの中に(また散らばらないように)しまって、体を俺の方に向けた。
「ま、作曲はこんなモンさ。あまり面白くなかったろ?」
「いや、というか新鮮だったな。声出しちゃいけないかと思って、黙っていたのは、少し窮屈だったけどな」
感想の中に本音を交えて言う俺だった。
正直に言わせてもらうと、この部屋全体に漂う、余計な雑音を出してはいけないという空気を、窮屈で退屈だと思っていた。彼女の作曲タイムを邪魔してはいけない、と思っていたので、配慮の意を込めて、ずっと不動&無言を決め込んでいたが、何故か途中から呼吸も止めていたから、少し息苦しさを感じていた。
「巽さんは、家じゃずっと作曲してるのか」
「作曲だけじゃなくて、演奏もやっている。時々仲間とバンドを組んでるんだ」
「バンドか。ポジションは?」
「ギター&ボーカル」
すげぇ、ほとんどプロみてぇじゃん。
「じゃあ、さっきの曲を、いつか仲間と演奏するんだ」
「その通り」
頷く巽だった。俺はその時、いつか聴いてみたいな、巽さんの曲、と、思ったことをそのまま言った。すると彼女は、呆気にとられたような、それこそ「えっ……」と言いたげな、きょとんとした表情を浮かべた。
「どうした?」
「あ、いや…………」
はっとしてから、巽は首を軽く横に振って、
「こんなこと言われたのは、結構久しぶりだったからさ、つい呆気にとられてたんだ」
「久しぶりってことは、前にも聴いてみたいって言ったヤツがいるんだな」
「だいぶ前だけど、中等部にいた頃、女子がアンタみたいに『歌っているところを見てみたい』って言ったんだ。今思い出した」
懐かしむように言いながら、巽は帰る支度をする。
「あ、後の片付けは俺がやっとくよ」
「えっ、いいのか?」
「いい。今日はいい物を見せてもらったからな」
そのお礼さ、と言って、俺は譜面立てとギターを脇に抱える。
「そっか。じゃあサンキューな」
「うん、いつか曲ができたら、聴かせてくれよな」
こうして俺は巽さんと別れた。
いつ彼女の新しい曲が完成するのか、楽しみだな――