第五十七話 世界チャンピオンと日本チャンピオン(二)
「それではこれより本日のメインイベント、世界ミドル級チャンピオン町田イラケン選手と、日本ミドル級チャンピオン腹打喜久蔵選手の公開スパーリングを開始いたします」
リング側の実況席にいる私のアナウンスが終ると体育館中に歓声とフラッシュが走り抜けた。ここに集まっているお客さんとマスコミはみんなこのスパーリングを見に来たのだ。
「先ほどのボクシング部員のスパーリングとは違い三分三ラウンド三ノックダウン制でお送りします」
うちのボクシング部員とのスパーリングは力量の差があったから二分に短縮したけど、今度はプロ同士の対戦だから、通常のルールで行う。でも安全のために頭部を守るヘットギアはつけるし、グローブも練習用だ。
しぃちゃんがマイク片手にリングの階段を上ってロープをくぐる。力を入れすぎたのか、ロープははち切れんばかりに上下に伸びる。その間をくぐってしぃちゃんはリングの中央に立つ。
リングの両端にはすでに二人の選手が控えている。しぃちゃんはマイクを自分の口元に運んで小さく息を吸うとめいっぱい叫んだ。
「青コーナー、十五戦十四勝八KO、日本ミドル級チャンピオン腹打ー、喜久蔵ー!」
「喜久蔵ー!」
「ラーメン屋ー!!」
しぃちゃんに呼ばれると喜久蔵さんはいつもの右手を頭につけて「どうもすいません」と周囲に挨拶する。
「赤コーナー、二十二戦二十二勝十四KO、世界ミドル級チャンピオン、町田ーイラケーン」
「将軍ー!」
「将軍様ー!!」
「ありがたやー!」
また、どこからから「ありがたや」の声。なんとなくうちのお婆ちゃんの声に似ているのは気のせいだろうか。
イラケン選手は右手を高らかと掲げて周囲に挨拶する。
「レフェリーは文京大学ボクシング部主将、門田信明君」
私の紹介が終ると、門田主将は緊張の面持ちで頭を下げる。世界チャンピオンと日本チャンピオンのスパーリングに立ち会うんだ。そりゃあ緊張するだろう。
私が門田主将の紹介をしている間にしぃちゃんはリングを降り、私と亜由美のいる実況席に戻ってきた。
「いやー、リングアナなんて生まれて初めてだから緊張しちゃったよー」
しぃちゃんは頬がちょっと赤くなっている。
リング上では門田主将が二人とルールの確認をしている。もう何度もイラケン選手の試合で見た光景だ。
ルールの確認が終って、二人がそれぞれのコーナーへと戻る。門田主将と私の目が合った。それが合図だ私はマイクを握ると叫んだ。
「ラーウンドワーン!」
亜由美がゴングを思い切り叩く。
その音とともに歓声が体育館中に鳴り響き、カメラのフラッシュが走る。その中央では二人のチャンピオンがグローブを合わせた。
同じジムに所属しているだけあって互いの得意技は既に知っている。イラケン選手の得意技はまずはボディブローを放ち相手のガードを腹部に向けさせたところを頭部へのラッシュ。逆に喜久蔵さんは時々頭部にジャブを当てて、後はひらすらボディ。左右の連打で何人もの対戦相手をうつ伏せに倒してきた。
だから二人ともボディは打たせまいと右ひじをわき腹に当ててガードしている。二人の距離が徐々に近付き、まずはイラケン選手が左のジャブを一発。これは喜久蔵さんのグローブに吸収される。左手を伸ばしたまま、右拳を喜久蔵さんのボディへ。これは喜久蔵さんの右腕にガードされる。それでも喜久蔵さんの顔は痛そうな表情を浮かべている。
「練習用と言ってもイラケン選手のパンチ力は相当なものだからね」
しぃちゃんが小声で私に囁く。そりゃあ世界チャンピオンのパンチだからな。
喜久蔵さんも負けじと、左のジャブを返してすかさずイラケン選手のボディへワンツーパンチを放つ。しかしこれはイラケン選手に三つとも避けられてしまった。最後のパンチを避けると同時に左のジャブを喜久蔵さんの顔に当てる。
一ラウンド目は終始このような感じで三分間が過ぎていった。喜久蔵さんのパンチはほとんどかわされている。
「これが世界チャンピオンと日本チャンピオンの差なの……」
イラケン選手の試合とともに喜久蔵さんの試合も見ている(イラケン選手がメインイベントなら、喜久蔵さんの試合はその前に行われている)私からしてみれば喜久蔵さんは決して弱い選手ではない。事実日本チャンピオンの座を三度防衛しているのだから日本では相当のレベルであろう。
しかし、あくまでも「日本では」であって、世界の舞台に立ったとき、これほどの差が出てしまうのだ。
「なんだラーメン屋、ちょっとはいいところ見せろやー!」
観客からの野次が飛ぶ。喜久蔵さんはいつもの挨拶をその野次の方向に向ける。
二ラウンド目、その野次に燃えたのか、俄然喜久蔵さんの動きか変わった。
頭部への左のジャブから左右のボディへの連打。喜久蔵さんの十八番だ。イラケン選手も時々パンチを受けるようになった。しかし、喜久蔵さんの攻撃が終ったら彼の顔にしっかりとパンチを当てるなど抜け目が無い。
二ラウンド目は喜久蔵さん優勢で終った。
「いいぞー、ラーメン屋ー」
先ほどの野次のお客さんも満足気だ。彼は喜久蔵さんのファンなのだろうか。
しかし、この二ラウンド目は観客を盛り上げさせるためのイラケン選手のサービスだったことを私たちは思い知る。
三ラウンド目、イラケン選手のスピードがそれまでのラウンドよりも倍以上の動きとなった。喜久蔵さんに近付くやボディブローを三連打。ボディを嫌がる喜久蔵さんの顎に左アッパー。喜久蔵さんの体が上に伸びる。
喜久蔵さんが反撃しようとパンチを伸ばすもイラケン選手はそこにはおらず、代わりに右のストレートをもらう。
その動きをカメラのフラッシュが捉える。その中のどれかは明日のスポーツ紙の紙面を飾ることになるのだろう。
「イラケン選手……、今まで手加減していたのかな……」
私の呟きにしぃちゃんが答える。
「イラケン選手と喜久蔵さんのスパーリングだから、一方的にイラケン選手が勝っていたら喜久蔵さんの練習にならないでしょ」
なるほど、二ラウンドは喜久蔵さんの練習タイムで今はイラケン選手の練習タイムってことね。
面白いほどにイラケン選手のパンチが喜久蔵さんの顔やボディに当る。しかし、喜久蔵さんはそのたびに両足に力を入れて倒れない。スパーリングとはいえマスコミやお客さんに無様な姿は見せたくないのだろう。
しかしイラケン選手の攻撃は容赦がない。踏みとどまった喜久蔵さんのボディに右のストレート、そして右手を伸ばしたまま左のフックを喜久蔵さんの顔へ。捻じ曲がった喜久蔵さんの顎に右のアッパー。ついにこらえ切れずに喜久蔵さんが膝をついた。
「ダウーン!」
門田主将がカウントを取る。喜久蔵さんは膝を何度も叩いてよろめきながらもカウント八で立ち上がった。
その後は喜久蔵さんは倒れなかったものの終始イラケン選手のパンチに圧倒されることとなった。
亜由美が終了のゴングを鳴らす。お客さんからの大きな拍手と歓声、そしてマスコミのフラッシュがリングの二人を包んだ。
「二人ともお疲れ様でしたー」
しぃちゃんがマイクを持ってリングの中央に上る。ここからはインタビュータイムだ。
「お二人とも、今日のスパーリングはどうでしたか?」
まずは喜久蔵さんが答える。
「いやー、やっぱりイラケン先輩は強いっすよ。倒れまいと思ったけど、一回倒れちゃった。どうもすいません」
続いてしぃちゃんはイラケン選手にマイクを向ける。
「喜久蔵のボディもなかなかのものでしたよ。気を抜いていたらかなりまずかったかもしれない」
そう言いながらイラケン選手はわき腹をさすった。
「今日は我が文京大学のボクシング部とも練習しましたが、お二人から見て、我がボクシング部の実力はどうでした」
喜久蔵さんがリング側に控える部員をちらっと見て答える。
「動きは悪くないですね、もっと鍛えていつかプロのリングで対戦するのを楽しみにしたいです」
「うーん、でもちょっとガードがみんな甘かったかなぁ……。パンチの練習だけではなく、防御の練習も力を入れたほうがバランスは良くなると思うよ」
イラケン選手はプロの目で見た回答をしてくれた。
「それではここからはマスコミのみなさんから質問を頂きたいと思います。質問はボクシングのことに限り、プライベートな質問はしないようお願いします」
よくワイドショーで見るお決まりのセリフだ。ここで「好きな人はいますか?」と聞かれてもみんな困っちゃうからね。
マスコミの方もその辺をわきまえてか、ボクシングに関する質問が幾つか交わされた。ただ、一人を覗いては。
「えーと、それでは次の方を最後の質問とさせていただきます」
と、しぃちゃんが言うや否や坊主頭の三人組が一斉に手を上げた。
「え、えーと、そちらの坊主頭の方、代表してお一人だけ質問をお願いします」
「ありがとうございます。毎朝放送の『日曜ジャポン!』ですが」
やはりあの番組だったか。芸能人やスポーツ選手の会見場に現れてはおかしな質問をする番組である。
「イラケン選手は今年の夏スケベニンゲンと対戦しましたが、次は何ニンゲンと対戦したいですか?」
イラケン選手はその質問を聞いて困ったような笑みを見せた。それでも律儀に答える。
「えーと、次は透明人間と対戦したいですね……、これで充分ですか?」
坊主頭の三人組は頭を下げた。
「ありがとうございます。それではうちの番組にひとこ……」
「えー、それでは質問のほうこれで終了とさせていただきます」
坊主頭の言葉を私は遮った。イラケン選手を「日曜ジャポンメンバー」に入れてなるものか。
こうして我が文京大学文化祭メインイベントの一つ「町田イラケン公開スパーリング」が無事終了した。