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第五十六話 世界チャンピオンと日本チャンピオン

 午前十時、文京大学五号館地下駐車場に一台の青いミニワゴン車が到着した。

 その様子を見た私としぃちゃんはワゴン車へと駆け寄る。

 やがてワゴン車の後部ドアが開き、中から青のフードコートを着た男性が降りてきた。

「イラケン選手、文京大学へようこそいらっしゃいました」

 私はその男性に頭を下げる。相手はボクシングミドル級世界チャンピオン、町田イラケン選手だ。

「お迎えありがとう、二人の『まち』さん」

 イラケン選手は私としぃちゃんを見つめて微笑む。

「い、いいえ。こちらこそあ、ありがとうございます」

 しぃちゃんは顔を真っ赤にして頭を下げた。

「それじゃあイラケン選手。楽屋まで案内しますのでついて来てください」

 地下駐車場のある五号館と楽屋となる一号館の教室へは地下の通路でつながっている。地上にあるのは屋台やお客がひしめく中庭。ここを世界チャンピオンと日本チャンピオンが通ろうものなら大混乱になるだろう。

 しかし、幸いなことに地下の通路には人は私たちイベント企画の関係者しかいない。この通路へと下りる階段には「関係者以外立ち入り禁止」と張り紙を貼ってある。

「え、えーとここを左です」

 地図を見ながらしぃちゃんが先頭を歩く。地下の通路はあちこちの建物へとつながっているし、その上普段私たちはこの地下通路を歩かないから(車を使う教授たちは歩いているんだろうけど)まるで迷路だ。しかも五号館と一号館は離れているので、ちょっと時間がかかる。

「しぃちゃん、そっちへ行くと二号館の図書館に行っちゃうよ」

 慣れない道とイラケン選手に会える感動も相まってなしぃちゃん間違えた。

「そ、そうだった、左じゃなくて右です。どうもすいません」

 と、しぃちゃんは右手で頭を小さく叩いて謝る。今イラケン選手と共に案内されている喜久蔵さんがよくやるポーズだ。

 地下の迷路を歩くこと五分。幸いモンスターに遭遇することもなく(なんかRPGゲームのダンジョンに迷い込んだ気分になってしまった)楽屋に到着。

「イラケン選手と喜久蔵さんは試合に向けて減量中とのことなので、お茶を用意しました。どうぞ自由に飲んでください」

 私がイラケン選手、喜久蔵さん、ジムの会長さんを席につかせると同時にしぃちゃんが紙コップにお茶を注ぐ。

「ありがとう、減量中はなるべく汗を出すために水分は必要だからね」

 イラケン選手がしぃちゃんに微笑むと、注がれるお茶がちょっと乱れた。

 もっとも試合が間近になると水分を取ることすら控えるらしい。水も体に入ってしまえば体重を増やす材料となってしまうからだ。減量は大変だ。

 減量と言えば、昔減量に耐え切れないボクサーが夜密かに屋台のラーメンを食べていたところを同僚に発見されて殴られるって漫画があったな。その同僚はボクシングに熱中するあまり、最後は真っ白に燃え尽きてしまったのだけど。おっと、余計な思考がすぎた。

「どうもすいません」

 喜久蔵さんはいつものポーズでお茶を受け取る。

「それじゃ、私体育館の様子見てくるから、しぃちゃんは三人の相手よろしくね」

「え、か、かっちゃん。一人にしないでよー」

 しぃちゃんの願いを背にして私は楽屋を出る。しぃちゃんいつまでもドキマギしないでこれを機会にイラケン選手に慣れておきなさい。


「うわー、すごい人数だなー」

 体育館を覗いた私は思わず言葉を漏らした。三日目が始まってまだ十五分しかたっていないのに、体育館は人、人、人で埋め尽くされている。その一角にはカメラやマイクを構えたマスコミの人たち。この人たちは事前に私たちから許可を得ている。その中に坊主頭の三人組がいることを私は見逃さなかった。

「そりゃあ世界チャンピオンと日本チャンピオンが出るんですもん、お客さんはいっぱい来ますよ」

 亜由美が人ごみを掻き分けながら私のところへとやってきた。こめかみの辺りにうっすらと汗をかいているのが分かる。

「まあこの文化祭のメインディッシュと言っても過言ではないですよ」

 誇らしげに頷く亜由美。言いたいことはわかるが、メインディッシュだと料理の話になるぞ?

「人が多いのは分かるけど、イラケン選手たちリングまで無事に歩けるかな」

「その点は大丈夫です。しっかり通路は広めに確保してありますから。お客さんが手を伸ばしてもイラケン選手たちに触れることはありません」

 だからさらに人が多いように感じるんだろうな。

「こっちの準備は整っているので、かっちゃんは楽屋に行ってそのことを伝えて来て下さい。私はリングでマイクのテストを行いますから」

 イラケン選手と喜久蔵さんをリングに呼ぶときは試合のようにリング上から呼び出すことになっている。

「オッケー、それじゃあ楽屋に戻るから。マイクのテストよろしくね」


 楽屋に戻った私が見たのは、ぎこちなく動くしぃちゃんの姿と困ったような笑顔を見せるイラケン選手だった。しぃちゃんは私を見るなり抱き付いてきた。

「かっちゃーん、よかったー。来てくれたんだねー」

「しぃちゃん、イラケン選手とちゃんとお話できた?」

 私はしぃちゃんの頭をよしよしと撫でる。

「えーといろいろできたよー。ボディパンチのこととか、相手のジャブにどう対抗するかとか……」

 おー、緊張していたわりには結構話せていたってことね。

「リングの準備は整いましたので、イラケン選手、喜久蔵さん、お願いします」

「よし、それじゃあ行こうか、椎名さん」

 イラケン選手がまだ私に抱きついているしぃちゃんの肩を叩くと、しぃちゃんが小さく跳ねた。

「は、はい行きましょう」

「私はリングアナの役割があるので、先に行かせてもらいます」

「えー、また私一人なのー?」

 しぃちゃんの上ずった声を背に私はリングへと走る。


 リングの中央に立って私はマイクを持つ。イラケン選手の試合でリングを外側から見てきた私だが、リングの中に入るのはこれが初めてだ。青いロープの向こう側に大勢のお客さんの姿。なんだかイラケン選手と同じ視線に立てたような気がした。

「みなさん、本日はお忙しい中、『文京大学文化祭ボクシングスペシャル』にお集まりいただきありがとうございました。これより選手入場です」

 私が力いっぱい叫ぶと、リングの外からは大きな歓声と、フラッシュの光が私に向かって飛んできた。私を写しても何の得にもならないと思うけどな。

「まずはボクシングミドル級日本チャンピオン、腹打喜久蔵選手の入場です」

 体育館中にちょっと気の抜ける音楽が流れる。喜久蔵さんの入場曲は、毎週日曜の夕方に放送される大喜利番組のテーマ曲だ。

 テーマ曲が流れる中、体育館の入り口から黄色いトランクスを履いた喜久蔵さんが現れた。

「喜久蔵ー!」

「チャンピオーン!」

「ラーメン屋!!」

 お客さんから様々な掛け声。最後の「ラーメン屋」は喜久蔵さんの実家がラーメン屋であることを知っているよっぽどコアな人だな。

 喜久蔵さんは掛け声の一つ一つに「どうもすいません」と頭を下げながら歩く。しかしそれでもちゃんと時間は計っているらしく、喜久蔵さんがリングの中央でガッツポーズをとった瞬間に、曲の締めを飾る。「パフッ!」の音が流れた。

「つづきましてボクシングミドル級世界チャンピオン町田イラケン選手の入場です」

 体育館中に「やんちゃ将軍江戸日記」のテーマ曲が流れる。昨年、イラケン選手が世界チャンピオンとなったチャウワ・スケベニンゲン戦の直前に、「やんちゃ将軍江戸日記」の主人公「徳川吉宗」役を演じる俳優の町平健まちだいら けんさんから直々に許可を得たものだ。

 今日のイラケン選手はそれを意識しているのだろう。灰色地のトランクスの左側には日の丸。右側には徳川家の家紋である葵の紋所が縫われている。

「イラケーン!」

「将軍様ー!」

「ありがたやー!」

 お客さんからの掛け声に右手を上げて答えるイラケン選手。最後のありがたやはいまいち分からない。イラケン選手を聖なるお兄さんと勘違いしているのだろうか。

 リングへと上がるイラケン選手を見て、今日も鍛えているなと私は思った。

「まずはお二人にウォーミングアップとして、我が文京大学ボクシング部から選び抜いた精鋭六人と二分間一ラウンドのスパーリングを交互に行ってもらいます」

 イラケン選手と喜久蔵さんのスパーリングの前にボクシング部の選手とスパーリングを行ってもらう。時間は通常のスパーリングより一分短い二分。イラケン選手と喜久蔵さんは交代でボクシング部の選手と対戦することになる。

 またスパーリングは安全のため双方に頭部を守るヘットギアというものを付ける。パンチに対するクッションの役目を果たすのだ。そしてグローブも試合で使うものよりダメージを受けにくいものになっている。

 まずは喜久蔵さんがリングに残った。ボクシング部の選手が緊張しながらリング状へ上がる。喜久蔵さんと比べたらボクシング部の選手はひょろひょろだ。これがプロとアマチュアの差なのだろうか。

 私はマイクを持って引っ込んだ。入れ違いに黒と白の縦じまのシャツを着たボクシング部員がリングに入る。レフェリーの人だ。

「ファイト!」

 掛け声と共にゴングが鳴り響いた。周囲から「頑張れー!」との声援が飛び出す。

 日本チャンピオンとのスパーリングである。緊張しているのかボクシング部員は情けないことに動きがぎこちない。喜久蔵さんが両手を前に構えて近付くとボクシング部員は怯えたように後ろへ下がる。もう、せっかくのチャンスなんだから、もっとファイトしなさいよ!

 やっとボクシング部員が右のストレートを放った。まるで恐ろしいものを突き放すかのように。喜久蔵さんは首の動きだけでそれを交わした。

 喜久蔵さんはお返しにと左のジャブを放つ。これはボクシング部員の右のグローブにガードされる。上手くガードできたのか、それとも喜久蔵さんが上手く当てたのか……。

 最初のボクシング部員は終始そんな感じで貴重な二分間を費やしてしまった。もったいないなぁ。もっと拳を交えないと。

 次はイラケン選手の番である。さすがは世界チャンピオン、リングに立っているだけで観客の掛け声の勢いが違う。喜久蔵さんのそれと比べたら二倍……三倍ほど差があるかもしれない。

 対戦相手のボクシング部員は何もパンチは出すものの全て交わされ最後の三十秒は防戦一方となってしまった。やはりプロとアマチュアとの差はこうも違うものなのか。

 

 あとの四人も終始こんな感じでそれぞれの二分間を使い切ってしまった。我が文京大学ボクシング部は大丈夫なのだろうか? ちょっと心配になったぞ。

 最後のスパーリングが終ったのを確認した私はマイクを持ってリング上に上がる。

「イラケン選手、喜久蔵選手、そしてボクシング部員のみなさん、どうもお疲れ様でした。ここでボクシング部の方に対戦した感想を伺いたいと思います」

 と、私は先ほど戦いを終えたばかりの部員さんにマイクを向けた。

「い、いやー、思った以上に世界チャンピオンの気迫というかプレッシャーが辛くて……、何も出来ませんでした。どうもすいません」

 と、お客さんに向かって頭を下げた。

 時間の都合で全員には聞けなかったけど、後の二人も同じような感想を述べていた。実際にリングに立って世界チャンピオンと日本チャンピオンの貫禄を見せつけられたのだ。

 この二人のチャンピオンがこの後このリングで対戦を行う。一体どうなるのだろうか、私の胸は高鳴っていた。

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