第五十五話 決意の門くぐり
文化祭もいよいよ最終日、私としぃちゃん、はるちゃん亜由美そして明石先輩の五人は朝日を浴びながら西郷隆盛と勝海舟が迎える門をくぐった。
この門をくぐるのももう五度目だ。次にこの門を出るときはたぶん文化祭が終ったとき。
中庭ではるちゃんと明石先輩と別れて三人で文化祭室へ向かう。
「文化祭も今日で最後か……」
この部屋に入るのもあと何回かしかないのだろう、と思うとため息が出てしまう。
「かっちゃん、これからってときにいきなりため息なんてよくないよ」
と、しぃちゃんに注意されてしまった。
「かっちゃんは朝からなんか様子がおかしいですね」
亜由美は私の心の変化に気づいていたようだ。
「いやー……ねぇ……。文化祭ももうすぐ終わりだと思うと寂しいというかなんというか……」
昨夜しぃちゃんの部屋で下着を片付けるという騒ぎのために中断された「複雑な気持ち」がまた私の中で蘇っている。
「そう考える気持ちも分かるけど、文化祭はまだ終っていないんだから。文化祭中は文化祭に真剣にならないと」
しぃちゃんはそう言いながら一枚のプリントを私に差し出した。
「うん、これは……」
今日イラケン選手の公開スパーリングが行われる体育館の見取り図だ。プリントの真ん中にはスパーリングを行うリングが。これは昨夜イベント企画チームの男子とボクシング部の男子、そして男子バスケット部を総動員してボクシング部の部室から移動したものである。まあ女子である私たちはその頃すでにしぃちゃんの家にいたけどね。あ、でも電話で状況は聞いていたよ。一応責任者としての役割は果たしたつもり。
「移動は男子にまかせっきりでしたが、イベント企画の責任者として最後の確認をする必要があります」
「そうだね、イラケン選手たちが来るまでまだ時間があるから見ておこう」
イラケン選手が大学に来るのは三日目のスタートと同じ午前十時、あと一時間半はある。
体育館ではボクシング部の方々がリングやサイドロープの点検を熱心にしていた。彼らにしてみれば世界チャンピオンと僅かな時間とはいえ練習ができるのである、そりゃあ気合も入るだろう。
「みなさん、お疲れ様です。リングの具合はどうですか」
亜由美がリングの周りを歩きながら(おそらく位置を確認しているのだろう)リングにいる部員に話しかける。
「はい、何度も確認しましたが、どこも異常はありません」
青のロープを手にした部員がはきはきとした声で答える。
「リングはちゃんと移動できたみたいだね」
プリントに書かれたリングと目の前にある本物のリングを見比べる。特におかしな点はなさそうだ。
「次はイラケン選手たちの楽屋の支度ね」
楽屋は体育館に一番近い空き教室を使うことになっている。私はしぃちゃんの後を追った。亜由美はボクシング部員とリングのことについて話しているので置いていく。
「支度と言ってもただ余計な机をどかすだけなんだけどね……」
楽屋となる教室に着くなりしぃちゃんは目の前にある机をてきぱきとたたみ、そして教室の端に積んでいく。
私も負けじと手伝うものの、私が一つの机をたたむ間にしぃちゃんは二つと片付けてしまう。結果私が片付けた机はたったの一つ。しぃちゃんは余計な椅子も積んだ机の隣へと追いやり残されたのは一つの机と三つの折りたたみ椅子。
「イラケン選手と喜久蔵さんと、ジムの会長さんの分ね」
私はプリントを片手にこの大学に来る人物を確認する。
木久蔵さんとは、イラケン選手の後輩で日本ミドル級チャンピオンの腹打喜久蔵さんのことである。実家はラーメン屋さんだそうだ。
「そうだよ、私たちの大学で世界チャンピオンと日本チャンピオンがスパーリングするんだよ! もうすぐ始まるのになんだか信じられない気分だよ」
イラケン選手の大ファンであるしぃちゃんは、憧れの視線を一つの椅子に向けた。まるでそこにイラケン選手が座っているかのようだ。
一方の私はというと、たまに(一週間か半月に一回の間隔で)ペルの散歩をするときに谷中霊園でイラケン選手に会っては最近起こったことを話している。憧れの存在と言うよりはたまに会う話友達って感覚だ。最近はお互い忙しくて会っていないけど、夏はいろいろストレスがたまって愚痴とか言っていたりしたな。
だからしぃちゃんの反応に私は新鮮さを感じてしまう。実際に知り合いになって私ほどの頻度でなくても時々会っていれば自然と慣れるというものだろう、と思うのだがしぃちゃんは未だにイラケン選手を憧れの対象として見ている。
「飲み物とか何か用意したほうがいいかな……。かっちゃん、近くのコンビニで何か買ってきて。そうね……、糖分の無いお茶を」
「オッケー、しぃちゃん。無難に日本茶を買ってくるよ」
しぃちゃんの命を受けて私は体育館を出て階段を駆け上がり屋台が並ぶ中庭へと出た。
「もうスタートから値下げしちゃう?」
「まだじゃがいも二箱あるぞー」
「えーと、今までの売り上げから考えると塩味は昼過ぎに無くなりそう! 塩だれ追加する!?」
文化祭も最終日と言うこともあり、どの屋台も気合が前の二日と違う。そして売れた屋台と売れ残った屋台の違いも出ている。
そんな慌しい屋台を抜けて正門へと続く坂を下る。そして西郷隆盛と勝海舟の描かれた門を抜けて校外へ……。
あれ? まだ三日目スタートしていないのにもうこの門をくぐってしまった。ひょっとしたら今日はこの門何度もくぐることになるんじゃないのか?
そんな予感をしながら歩道を南に向かう。歩いて数十メートルのところに白山上の交差点への坂があって、その中腹に目当てのスーパーはある。
しぃちゃんには「コンビニ」って言われたけど、スーパーのほうが安いからね。最近何かと物価が上がっていることだし少しでも安いほうを選ばないと。
近くの大学が文化祭をやっているので、そこのお客さんを目当てにしているのだろうか。スーパー内には「大安売り!」「今日の特価品」と書かれたポップがあちこち見られる。
私はそれらに紹介されている商品の中から日本茶の二リットル入りペットボトルを二本買い物カゴの中に入れる。コンビニエンスストアで買うのと六十円の差だ。
日本茶をスーパーの袋に入れて、大学へと戻る。もちろん、西郷隆盛と勝海舟の門をくぐって入る。これで七度目。
「しぃちゃん、日本茶買って来たよー」
楽屋に戻った私はどこからか持ってきたのか白いテーブルクロスを机に敷くしぃちゃんにスーパーの袋を渡す。
「おー、ありがとうかっちゃん早かったね」
しぃちゃんは日本茶を袋から取り出して机の上に置くと首を傾げた。
「かっちゃん、紙コップは買ってきた?」
「え、あれ? 文化祭室に無かったっけ」
確か文化祭室にあったはずだ。昨日も私はそれを何個も使った。
「文化祭室のコップはちょうど切らしています。今のタイミングで買ってきたほうがいいですね」
体育館の方から亜由美が楽屋へと入ってきた。
「かっちゃん、悪いけど紙コップ買ってきてもらえないかな……」
しぃちゃんは申し訳なさそうに私を見上げる。
「分かった。買ってくる」
私は敬礼の姿勢を取ると再びスーパーへと向かった。もちろんあの門をくぐって大学を出る。これで通算八回目。そして紙コップを買って戻って九回目。
「しぃちゃん、紙コップ買ってきたよー」
「かっちゃん悪いんだけど……」
「えー、またー?」
こうして私は大学とスーパーの間をあと二往復することになってしまった。近くだからいいけど、郊外の大学だったらきっと大変だろうな。