第四話 愛妻弁当
「やっと終ったー。食堂に行ってしぃちゃんたちに会わないと……」
教授が部屋を出るのを見届けた私は物憂げな声を上げて席を立った。苦しかった時間からやっと解放された。
「この授業は取らないほうがいいわね……」
四月は授業のお試し期間である。授業の内容を聞いて生徒がこの授業を履修するかどうかを決める期間だ。私たちはそれぞれ別の授業を受けながら授業の情報を集め、最終的に受ける授業を決めることにしている。
私が今日聞いた授業は「はずれ」だった。教授の話がつまらなく無駄に長い、それだけでもすぐに部屋を出て行きたかったが、肝心の単位評価の仕方をまだ聞いていなかったので、しょうがなく最後まで残ることになった。ひょっとしたら楽に単位が取れる授業かもしれないからね。
「授業の最後に毎回小テストって、やっていられますか」
最後の最後になって教授がようやく口にした言葉は、「単位取得の有無は毎回授業の最後に小テストを行ってその点数を元に評価する」というものだった。他の授業の勉強もやらなければいけないのにその授業一つに集中なんてできるわけがない。というか面倒くさい。
というわけで私はこの授業を受けない事にした。この時間はしぃちゃんとはるちゃんが見てきた授業を受けるか、そうじゃなければ授業を一つも受けないことになる。まあ一年の時単位を多めに取ったから余裕はあるんだけどね。
「あっ、御徒先輩だー」
声のする方を振り向くと、明るい笑顔のかわちゃんが、彼氏である大井君と腕を絡ませながら元気よく手を振っている。
「おー、かわちゃん、大井君。二人ともこれからお昼ですか?」
「そうです、先輩も一緒にいかがですか」
誘ってくれたのは嬉しいが、ラブラブな二人の邪魔をしていいものか……、と私は戸惑う。
「俺たちのことなら大丈夫だよ」
私の心を読み取ったのか、大井君がかわちゃんから腕を離して言う。
「それじゃあお言葉に甘えて……。食堂でしぃちゃんとはるちゃんと待ち合わせしているんだけど、二人も一緒でいい?」
「椎名先輩も伊井国先輩も一緒ですか。大歓迎ですよ」
かわちゃんは。少々釣り上がっている目を細めて笑った。
「あっ、かわちゃんも大井君も一緒だったのね」
食堂ではしぃちゃんとはるちゃんがすでに席を取っていた。
「うん、そうだよ。ご飯持ってくるからちょっと待ってね」
そう言って私は食券を買いに自動販売機へと向かう。昼の十二時を五分過ぎただけなのに、「とんかつ定食」がもう売り切れている。いつも売り切れな「とんかつ定食」、本当にあるのだろうか。
私はその「とんかつ定食」の隣にある「カツカレー」を買って四人の待つテーブルへと向かった。
「かわちゃんと大井君もお弁当なんだね」
いつもお昼ごはんは手作りのしぃちゃんが、かわちゃんと大井君の前に置かれているお弁当を見て言う。よく見ると、お弁当の箱は違うけど、中に入っているメニューは同じ物だ。
「ひょっとして……、これはかわちゃんの愛妻弁当?」
はるちゃんがかわちゃんと大井君の顔をそれぞれ見ると、かわちゃんは満面の笑みで答えた。
「そうですよ、私がダーリンのために作った愛妻弁当です」
愛妻弁当なんて生まれて初めて見るわ。私は二つのエビピラフ弁当を眺める。
「まだ俺の妻じゃないだろう」
大井君は恥ずかしがることなく、かわちゃんの「妻」という言葉に突っ込みを入れる。
「でも将来は結婚するじゃない、そしたら私は『大井真値』よ」
明確な将来設計立てているかわちゃんを見ながら、私は「大井真値」に関する嫌なことを一つ思い出した。今「あの事実」を言うべきか……。
「ええと……、かわちゃん。そのことなんだけどね……」
はるちゃんが戸惑いながらかばんの中から生徒手帳を取り出した。その裏表紙をめくると、東京近郊の路線図が書かれている。
はるちゃんは、「あの事実」をかわちゃんに伝えるつもりだ。ここで言わなくても、いつかは知ることだから、せめて私たちの手で知らせようという優しさなのだろう。
はるちゃんに先を越されてしまった、と思いながら私ははるちゃんの仕草を見つめる。
「かわちゃん、ここ見て」
「えっ、御徒町駅ですか?」
いや、待ってはるちゃん。今示す駅はそこじゃないでしょう。
「ちょっと、はるちゃん。どこを指差しているのよ」
そんな私の突っ込みにも気にせず、はるちゃんは御徒町を示した指をすっと動かす。
「この御徒町駅を通っているのが京浜東北線なんだけど、これをずっと行くと……」
「田町、品川、大井町……。えっ! 大井町!?」
驚いたかわちゃんは、はるちゃんから生徒手帳を取り上げ、じっと「大井町」の文字を見つめる。
「結婚したら『大井町』か……」
大井君が横から生徒手帳を覗き込む。
「そうよ、つまりはそういうことなのよ」
はるちゃんがしっかりとした口調で言う。まるで悪い病気を患者に宣告するお医者さんのようだ。
「だけど、二人の愛があればそんなの気にしなくて大丈夫だよ」
すかさずしぃちゃんがフォローを入れる。
「かわちゃん、そうだよ。気にする必要は無いよ。ポジティブになろうよ」
学生としても、「まち」としても後輩であるかわちゃんにも、私と同じように自分の名前にポジティブになってほしい、と私は願いを込めてかわちゃんの肩を叩いた。
「名前のためにダーリンと結婚できないのは嫌です! 私、頑張ります」
とかわちゃんは生徒手帳を放り出して大井君に抱きついた。投げ飛ばされた生徒手帳は、しぃちゃんが上手にキャッチしてはるちゃんへと返す。
「そうだよ、かわちゃん。頑張るんだ!」
「はい、頑張ります!!」
「頑張れ!」「頑張る!」のやりとりが何回か続いた後で、私たちはやっとお昼ご飯に手をつけた。
「まちー」
と、不意に名前を呼ばれたので、私は箸を動かす手を止め、顔を上げて「なあに」と応えた。
「なに?」
同時に別の方向から返事が聞こえる。驚いて声の主を見るとしぃちゃんとかわちゃんだった。そうか、よく考えてみればそれも当然か、名前が同じ「まち」だからね。
「あ、いや……。悪い。こっちの『まち』だ」
大井君は戸惑いながら右隣に座るかわちゃんの肩を叩いた。
「あ、そうか。いや、つい返事しちゃって……」
私は慌てて手を振る
「家族からは『まち』って呼ばれていたからつい返事しちゃったよ」
しぃちゃんは照れながら頭をかいた。
その三分後――。
「まちー」
「なに?」
私は名前を呼ばれたので返事をする。同時に同じ言葉が違う高さで発せられる。返事をしたのはもちろん私としぃちゃんと、かわちゃんの三人だ。
「あ、いや……。『河原真値』のほう」
大井君が少々困りながら再びかわちゃんの肩を叩く。私としぃちゃんはまた謝る。よく考えれば分かることか。このメンバーの中で、大井君が「まち」と呼ぶのはかわちゃんだけなのだから。
ところが私は三度大井君の
「まちー」
の言葉に
「なに?」
と返事をしてしまったのである。それはしぃちゃんも同じであった。
「……ひょっとして二人ともわざとやっていない?」
大井君が笑顔のまま私としぃちゃんを咎める。ちょっと口元がゆがんでいる。
「わざとじゃないよー」
私としぃちゃんは同時に答える。私がアルトでしぃちゃんがソプラノだ。
「下の名前が同じなのだから、間違えるのはしょうがないじゃない、ダーリン」
かわちゃんが私たちを弁護する。
「いや……わざとじゃないならいいんだけど……」
大井君は口元をもとに戻すと、かわちゃんと二人で話を始めた。
本当にわざとじゃないんだもん、それを疑うなんて……。それなら今度はわざとやっちゃうぞ!
それから五分後。大井君の口から
「まちー」
と、言う言葉が飛び出した。
「なに?」
私はさっきと同じ口調で答える。わざとやろうとしたつもりが普通に返事をしてしまった。
……うん? さっきより「なに?」が一人分多い気がするぞ?
「やっぱりわざとだろー!」
大井君は立ち上がって私たちを指差す。
「わざとじゃないよー」
私としぃちゃんは同時に弁解する。本当にわざとではないのだ(わざとやろうと思ったけどね)。そして、声がやっぱり一人分多いのに気がつく。
「嘘つけ! なんで伊井国さんまで『まち』に反応する必要があるんだ!」
えっ! はるちゃん? 左隣にいるはるちゃんを見ると、はるちゃんは一生懸命首を横に振って弁解する。
「わざとじゃないもん」
「……本当にわざとじゃないんだな? そうか、わざとじゃないならいいんだ……」
納得して大井君は席に座った。どう考えても納得できる状況ではないと思うのだけど……。本当に納得していいのか、大井君。
そして三分後――。
「まちー」
との問いかけに
「なに?」
と、答える四人の女子大生がおりましたとさ。
「絶対わざとだー!!」
「わざとじゃないもん!!」