第四十四話 カウントダウン
文化祭まであと十日――。
「今日も終ったー」
私は机の上に頬をついた。時刻は今日も午後十一時を回っている。
「バスはもう無くなっちゃったけど歩いて帰ろうか」
しぃちゃんが帰り支度をしながら笑顔で私に言う。
「そうだね、ここには泊まりたくないし」
一週間前この大学に泊まったとき、ちょっとした幽霊騒ぎがあった。以来私たちはどんな時間であっても家に帰るようにしている。
「しかし亜由美も大変だねぇ。三日連続でしぃちゃんの家にお泊りだなんて」
私は机に頬をついたまま亜由美を見た。私たちは歩いて帰られる距離にあるけど、亜由美はちょっと遠いところに家がある。そのためしぃちゃんの家に毎晩のようにお邪魔しているのだ。
「ええ、でも着替えはちゃんと用意しているので大丈夫ですよ」
亜由美は大きく膨らんだスポーツバックを私に見せた。
「しぃちゃん、大丈夫? 寝ている途中で暴れたりしない?」
夢の中で何かと闘ったりしていないだろうか。
「もーう、かっちゃん。私の家に泊まったことあるから分かるでしょ。そんなことしているわけないじゃない」
ま、たしかにそうなんだけどさ。毎日安全とは限らないじゃない。
「そういえば昨日、やけに腕を振り回していましたね……」
「え、嘘? 私そんなことしたの?」
しぃちゃんが驚きの目を亜由美に向ける。本人はどうやら覚えていないようだ。
「そのあと『あいつらはどこいった?』なんて言ってくるし……。『あいつら』って一体だれなんですか?」
しぃちゃん……夢の中では口調も乱暴になるのね。
「まあ今日はしぃちゃんに襲われないように気をつけないとね、亜由美」
シャッターが閉じられた店の並ぶ商店街を歩きながら私は亜由美を心配した。
「はい、お腹にクッションを入れて万が一のために備えようと思います」
しぃちゃんはボディへのパンチが得意だからな。顔だと目立つからボディに打つことを選んでいたのだろう。
「もーう、だからそんなことはしないって。今まで私が酔っ払ったり寝ぼけていたりしたときに怪我をさせた人なんていないんだから」
だけど寸止めまでいった人は何人もいるのだろう。
目の前の信号が赤になっている。しかし左右を見ても車が来る様子はない。私はそのまま横断歩道を渡ろうとしたが
「かっちゃん」
と、しぃちゃんに袖を引っ張られた。
「どうしたのしぃちゃん」
私はしぃちゃんのほうを振り向く。しぃちゃんは「右、右」を指差す。
しぃちゃんに促されてその方向を振り向くと自転車にまたがるお巡りさんが一人。見た目の年はイラケン選手と同じくらいだろうか。私はお巡りさんの前で堂々と信号無視をしようとするところだったのだ。危ない危ない。
「そ、そうだね。信号無視はいけないよね」
私はお巡りさんに聞こえるようにわざと大きな声で話して二歩後ろへ下がる。
「あ、別に渡ってもいいよ」
意外なことにお巡りさんが信号無視を推奨してきた。
「え!? いいんですか?」
亜由美が驚きの声を上げる。
「別に車が来る様子もないし。夜も遅いし、こういう場合は交通マナーよりも早く家に帰ることが優先されるから」
と、お巡りさんは自ら横断歩道を渡り始めた。私たちもそれに続く。
「どうもすみません、ありがとうございます」
そんなに長くない横断歩道を渡り終えた後で私たちはお巡りさんに頭を下げる。
「もう遅い時間だから、気をつけて帰ってね」
お巡りさんはそう言うと、右の細い道へと自転車を漕いで行った。私たちはこのまままっすぐ歩いて団子坂を下る。
お巡りさんが私たちから離れていくのを確認したのだろうか。私たちの目の前に三人の男が立ちはだかった。三人とも私たちより背は高く、髪は茶色に染めている。
「えーと、何か用でしょうか」
亜由美が言葉は穏やかながらも目が激しく睨みを効かせている。
「いやー、ちょっと俺たちと遊ばない?」
真ん中のサングラスをかけた男が口元を厭らしくにやけさせながら私たちに声をかける。やはりナンパか。しかもタチが悪い。
「ここだと遊ぶところないからさ、俺たちの車に乗って上野とか銀座とか、よかったら新宿でもいいよ」
右側のがっちりとした体格の男が親指で示すその先には青色のライトバン。八人くらいは乗れるだろうか。
「遊ぶわけないでしょ、私たちはこれから帰るところなんだから邪魔しないで!」
私は大声で否定した。自転車で走り去ったお巡りさんにこの声が届いて欲しい。
「そうです、私たちは帰るところなんです。邪魔なのでどいてくれませんか」
しぃちゃんが口調は穏やかだがはっきりと否定の意思を示した。
「まあそんなこと言わないでさ、俺たちと遊ぼうよ」
真ん中の男がしぃちゃんの肩を掴もうとしたその時、
「ガッ……」
その男が腹を抱えて蹲った。しかも口から食べたものを出している。見えなかったけど、しぃちゃんのボディパンチが炸裂したのだろう。
「おい、どうした……」
左側の頭がツンツンとした男が真ん中の男を気遣おうとしたが……。
「グハッ」
腹を抱えて吐いた男の上に倒れこんだ。
「て、てめえ……!」
右側の男が自らの腕力に物言わせようとなぜか私に右拳を振り下ろそうとしたけど……。
「ゲハッ」
男は右手を構えたままの姿勢で仰向けに倒れた。
「おい、一体どうした?」
お巡りさんが自転車を漕いで駆けつけたときには全てが終っていた。お巡りさんが目にしたのは三人の男が気を失って倒れている姿。
「悪質なナンパが私たちに乱暴しようとしたので、正当防衛をしました」
しぃちゃんは淡々とした口調で答える。
「正当防衛って……、君がやったのか?」
お巡りさんがしぃちゃんに尋ねる。
「ええ」
しぃちゃんは笑顔で応えた。三人の男を殴った後で笑顔になるしぃちゃん……ちょっと怖いぞ。
「君たち二人も襲われそうになったんだね」
お巡りさんは戸惑いながら私と亜由美に尋ねる。
「ええ、その通りです」
私なんか殴られそうになったんだから。
「そうか、それなら正当防衛が通用するか……」
と、お巡りさんは無線で何かを呼び出した。やってきたのはパトカーではなくて救急車。三人の男は気を失ったまま救急車で団子坂を下っていった。
そして私たちはお巡りさんのいる交番で「ちょっとやり過ぎたんじゃないのか」と少々の小言を言われて、パトカーで帰宅。
遅い時間パトカーで帰ってきた私を見た家族の驚きようといったら……面白かったな。
今回ちょっと短めになってしまいました。